浅田さんの論文=わたしの父も当時の北支に陸軍軍人として徴兵されたりしましたが、戦争に負けるとは思っていなかったというのを聞いたことがあります。また、母の姉や妹は、神宮球場の学徒動員の壮行会に参加するなどし、かなりの軍国少女であったようです。
松岡洋右や山本五十六といった人たちは、米国の産業経済力などについて熟知していた人たちですから、本心は戦争をしたくなかったのだと思いますが、国際連盟脱退や中国での戦果を祝う提灯行列の祝賀ムードのなかで、危機意識を強く持ちながらも、戦争に突き進むしかなかったみたいです。
本号の拙論にも書きましたが、江戸時代末期において、佐幕派や尊皇派は基本的に攘夷思想であり、開国派の長州藩などはむしろ少数派であったのだと思います。自らを変えるということは、茹ガエルの話のように、権限を持つ人が適切な危機意識を持たない限り難しいようです。
明治維新からの近代化を押し進めるなかで、日清戦争や日露戦争を戦った訳ですが、こうした戦争が、日本の近代化路線のなかで、どのような意味をもったものであったのか、ということを深く掘り下げないと、太平洋戦争の無残な敗北のみ取り上げても、建設的な議論にはならないようにも感じます。組織の閉塞の問題も、古くて、新しい問題だと思います。
生き物の世界は、弱肉強食が摂理ですから、人間といえども、恐竜のように本能的に相手に攻撃をしかけてくる場合を完全に否定することはできません。それには、抵抗する気概をもっていることが必要だと思います。
渦中のなかにいると、なかなか置かれている状況を客観的に評価することはむずかしいようです。今の日本の国の借金は、一千兆円規模であり、その増加傾向はまだ続くようです。バラマキ予算のこととか、議員の政務活動費のいい加減な使われ方など、健全な社会を維持していく障害となるような課題は、たくさんあるみたいです。それらをオープンにして、基本から見直すような作業が必要不可欠のように思えてなりません。そのための人材育成、憲法レベルでの明示、最新の科学技術成果の活用など、様々な方策を検討すべきときのように感じます。
薗部さんの論文=絵画のことは、どうもよく分からないのですが、「物体」とか「心理的牢獄のなかに物体に変身させられた人間」といった表現がありますが、それに関連して、左翼思想やマルクス思想とともに、唯物論とか唯物史観といったことが喧伝されたことがありました。こうした背景には、近代化の流れのなかで、人間の因習的なものとか、非理性的なものを排除して、新たな価値観による世界を構築したいという強い欲求があったのではないか、と感じます。悲惨な戦争を体験したことを忘却したいというのもあったのかなどと勘繰りたくもなります。物質的な経済的な側面のみから歴史や人間を見るというアプローチには、やや無理があるように感じています。また現実を客観するということが、どこまで本音で言われているのか、やや疑問を感じたりもします。
また、東洋と西洋の違いですが、本号の拙論でも少しふれましたが、西洋では、人間は絶対の神によって造られたものという理解あるのに対し、東洋には、生命というものは人間も含めて、混沌の中から自然発生的に湧き出てきたようなものだという見方があるように感じます。この違いは、世界観や人間観に、かなり決定的な相違をもたらすように思います。生命力のあり方とか、オリジナリティーといった側面に対しても、かなりの隔たりをもたらすように感じます。戦後、こうした相剋をどのように克服していくかが、絵画の世界にとどまらず、あらゆる分野の課題になったのではないでしょうか。近代化における、客観を柱とする科学と個の顕在化は、今日においても、伝統的な世界観・人間観とどう棲み分けるのか、あるいは融合するのか、明確な回答は得られていないように感じます。絵画の世界においても、こうした模索が今でも、継続しているのかもしれません。
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