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第125号

2015年1月4日

「ポスト近代社会と個の問題」 深瀬 久敬

 

1.前近代社会における個人

 近代社会を特徴付ける最大のものは、個人というものの存在を明確に自覚したということではないかと思う。それ以前の社会においては、身分制度、門閥制度、家父長制度といった、政治的・宗教的なさまざまな因習的権威が社会を覆い、個人というものにスポットライトがあたることはなかった。

 自然災害や疫病などに対しても、その抵抗力は、いまの私たちに比べれば微々たるものにすぎなかったし、民族や宗教の違い、あるいは、食料危機などに起因する戦争侵略行為も繰り返され、そうした悲惨は、なにか運命的なものとして受け入れられてきたようでもある。そうした状況のなかでは、個人個人の意向に配慮するゆとりはなかった。人々は、そうした悲劇から逃れようと、統治システムや宗教上の儀式や教義を整える、といったさまざまな工夫をし、より安心して生きて行かれる社会にしようと努力してきた。そうした努力は、今日、決して無意味なものとはいえないが、個人という存在に、明確な視点を向けていないためなのか、ギャップを感じさせるものになっているように思える。

 

2.近代社会における個人の概要

 では、近代社会における個人とは、どのように捉えられているのであろうか。それは、一人ひとりの個人に理性が平等に与えられていて、それぞれが自覚的に自分が欲する正しいと思うものを追求する自由な存在とみなされている、と言えるように思う。因習やタブーといった説明のつかない制約は取り払われ、一人ひとりが自由に、その思うところにしたがって行動すればよいということになった。社会体制は、そうした基本的人権とか、信教、思想、言論、職業選択などの自由が保障され、明文化された憲法や法律に基づくルールによって運営されるものとなった。今日、こうした民主主義とよばれる社会運営は、普遍的価値として、世界的に認められるものになりつつある。

 

3.近代的個人の誕生の経緯

 個人の社会的な位置づけが、今日、どのような状況にあり、どのような問題を抱え、そして、今後、とのようなものに変化していくか、といったことを考える前に、こうした近代的な個人というものが、どのようにして誕生してきたのかを振り返ってみたい。

 近代的な個人というものは、西洋社会において、ルネサンス、宗教改革、科学革命、産業革命、フランス革命、大航海時代、アメリカ合衆国の成立、といった一連のできごとを通して、確立されたと考えてよいと思う。

 ルネサンスは人間中心の世界観をもたらし、宗教改革はキリスト教会の権威より個人の信仰心に焦点を当てたし、科学革命は世界を客観することを教えたし、フランス革命は因習的王権を追放し共和制の優位を確立したのだと思う。

 さらに、こうした個人という存在の根本に迫ろうとすると、唯一絶対の神を信奉するユダヤ教が、パウロといった人たちの参画を通して普遍的キリスト教に脱皮し、それがローマ帝国の人々の心を捉え、ついにはローマ帝国の国教に至り、それがスコラ哲学といった古代ギリシャ哲学を包含する哲学体系にまで高められたといった経緯も考慮されなくてはならないと思う。

 少し追記すれば、人間は、唯一絶対の神によって造られた存在であるという捉え方がなかったら、個人という自覚は誕生しなかったのではないかとも思う。人間を含め、全ての生命は、自然発生的なものであり、そうした世界を多神教的に捉える世界観からは、個人という概念は誕生しなかったのではないか。唯一絶対の神と対峙する個人という存在があって、はじめて個人という存在が浮き上がってきたと言えるように思う。

 

4.日本の社会における個人

 近代社会における個人というものを、上記のように理解するとして、日本の社会においては、どのように理解され、位置づけられてきたのであろうか。

 西洋文明は、言うまでもなく江戸時代の末期から明治維新にかけて怒濤のように流入してきた。仏教、朱子学・陽明学、国学といった伝統的な価値観が放棄され、和魂洋才にアイデンティティーを依拠しながら、西洋文明の移入を突き進め、富国強兵、殖産興業にひた走った。自由民権運動や議会制度の導入もあったし、さらに、福沢諭吉の独立自尊の精神や学問のススメは、それまでの身分制度のもとに抑圧されてきた個人の意識を揺さぶった。また、夏目漱石をはじめとする文学の世界においても因習的しがらみのなかで葛藤する自我の問題は、さまざまに論じられる一大テーマであった。

 日本という国家の表層的な側面においては、日清・日露戦争に勝利したり、第一次世界大戦の混乱に乗じた朝鮮併合や満州国建設などを通して、たくみに立ち回ったと言えるのかもしれない。しかし、明示的な個人の解放ということになると、日中・太平洋戦争とも言われる第二次世界大戦に完膚無きまでに叩きのめされ、占領国の米国の主導する日本国憲法の制定を待つことになると思う。天皇制の廃止、農地解放、財閥解体などを通して、旧体制は一掃され、憲法には、基本的人権や様々な社会的自由が明記された。とはいえ、個人の意識レベルにおけるそれは、まだ充分なものではなかったように思う。経営家族主義とか、みんなでがんばろうといった経済大国日本の出現を支えたものは、個人主義とは異なるものであったと言えるように思う。むしろ、バブル経済が崩壊し、自己責任とか、成果主義とか、資格制度の浸透、派遣社員といった非正規雇用の増大といったなかで、個人という存在がより明確にクローズアップされるようになったと言えるだろう。しかし、こうして顕在化された個人という存在も、西洋社会に誕生した個人という概念と照らし合わせたとき、それは本当の意味での個人なのか、という一抹の疑問を禁じ得ない。今日の日本の社会における個人は、組織のなかの成果主義や派遣社員や自己責任といった高いストレスに晒され、精神的に病む人や自殺者を増大させ、学級崩壊やひきこもりの増大といった社会現象を引き起こしている。因習的しがらみから解放されたと思ったら、今度は組織のなかで高いストレスに晒されることになったと言えなくもない。こうした状況は、なにか本来の個人とは異質な個人を露呈させた結果なのではないかという印象さえ受ける。

 

5.今後のグローバル社会における個人の問題

 以上のような近代社会における個人についての考察を踏まえ、これからのポスト近代社会とも言えるグローバル化する世界のなかで、個人の存在にどのような問題があるのか、考えてみたい。

 

(1)間の幸福感と生産活動との関係

 一人ひとりの人間は、他の人々が欲しがり、得て喜ぶようなモノやサービスといったものを生産し提供し、そうした行為を通して、人々に喜ばれることに達成感を覚え、そして、その対価によって自分や家族の生活を充実したものにする。衣食住の生産もそうだし、医療や介護のサービスの提供もそうだし、絵画や音楽の創作もこうした活動に含まれる。新しい技術の開発や、さまざまな基礎的な研究といったことも社会的に要請されているとも言える。こうした生産的活動は、日々の生活を維持していく上で必要不可欠なものではあるが、人間は、こうした活動だけでは幸せを実感できる存在ではないようにも感ずる。幸福感とか幸福度というのは、人それぞれ多様なもののようだが、人間とはどのような存在なのかという根源的な問いかけを失ってしまうと社会は無味乾燥的なものになってしまうようにも感ずる。

 こうした問題意識を社会的にどのように保持していくかについて、職業教育と並列に、人類史教育のような仕組みを公共のものとしては用意してはどうかとも感ずる。人類史とは、国家の興亡を中心に論ずる世界史とは異なり、人類がどのような経緯をへて、今日のようなあり方をするようになり、そこにはどのような問題があり、それにどのように取り組んでいくか、といったことを論ずるものだと思う。兵役のための徴兵制というのもあるが、公共の仕組みの一つとして、人類史的な教養を身につけるための一定の猶予期間のような社会的仕組みがあってもよいように思う。

 

(2)科学的知見の進展と個人の位置づけの深化

 今日、生命科学、宇宙論、インターネットのような高度な通信ネットインフラ、コンピュータを中核とする電脳とでもよぶべき高度な情報処理能力、人工光合成のようなエネルギー技術、等々は、まさに驚愕すべき速さで進展している。こうした傾向は、人間とはどのような存在なのかという問いの重要性を際立たせていると思う。何億年もかけて進化してきたわたしたちの体の構造や仕組みの不思議は、言い尽くせないし、物質の起源は超新星爆発などである程度説明できるようであるが、生命とか、わたしたちの意識の起源とはどこにあるのかという問いは根源的であり避けては通れない。こうした問いのなかで、一つひとつの個としての私たちの存在の意味も俎上にあがってくることになるだろう。また、生命科学や宇宙論の進展のなかで、人間とは造られたものであり、偶然に自然発生的に誕生したものとは違うという認識が深まるのではないかという印象をわたしは受ける。それは、個とはどのような意味をもつ単位なのかという問いにもつながっていくだろう。

 

(3)近代社会への移行の進捗度の差異の問題

 近代社会における個人というものの顕在化は、西洋文明のなかで推進されたことは前述したが、日本の社会においも、そして、近代化という波に欧米列強や大日本帝国といった新興国家に蹂躙されたという苦い想いと屈折した感情をもつ中国や朝鮮、そして、イスラム教が浸透している中東の人々に、どのように理解され受け止められるのか、という問いかけも避けては通れないと思う。こうした思想上の理解に、客観的な科学的なものとして取り組むことが果たして可能なのかという問題もあるように感ずる。世界には、まだ多くの紛争が存在している。そうした紛争を真に簡潔するためには、こうした個人の捉え方といった側面からの相互理解も必要不可欠なものだと思えてならない。

 

(4)格差の問題

 個人というものがクローズアップされれば、格差という問題も浮上してくる。格差は経済的な側面が大きいが、人間が幸せであるかといった幸福感というのは、経済的側面のみが物差しになるものでもない。社会主義は、こうした物質的側面の格差の一掃を目指したが、勤労意欲や達成感、さらにいえば生き甲斐を、そこにいきる人々から奪ってしまったと言える感じがする。公共があまりに管理を強化し、多様性を除去することは、危険なことと言える。人それぞれの専門性に基づく社会的分業は、不可避であるように感ずるが、各個人がどのような専門性を身につけたいか、という点については、公共の全面的な支援があってもよいように思う。そうした社会的分業の体制の柔軟さをどのように維持するかという問題もあるだろう。地球環境問題と先進国・途上国の利害関係も、一種の格差問題であろう。さらには、大企業組織のあり方とか、公共としての金融資産に対する課税のあり方とか、格差問題は、個人がクローズアップされるなかで避けて通れない課題になっていくと思われる。



「負けること勝つこと(81)」 浅田 和幸

「問われている絵画(116)-絵画への接近36-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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