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第125号

2015年1月4日

【編集あとがき】

 

 浅田さんの論文=計画経済は、管理を適切にすればうまくいくといった幻想をもち、多様性や人々の勤労意欲や生き甲斐を奪い、結果的に自滅しました。

 さらに、かつての産業は、その地域とかその国の人々の生活のあり方と密着した存在であり、例えば、自動車産業であれば、人々に購買してもらいその需要を高めるために、従業員の賃金を高めましたし、また、自動車の利用を拡大するために、地方自治体や国は道路の整備を積極的に進めました。しかし、グローバル競争が激化すると、コスト競争に勝つために、製造工場を賃金が安くてすむ海外に移転したり、正規社員を派遣社員に置き換えたりし、結果として、産業は、地域や国の人々の生活のあり方とは次第に無縁なものに変質していったのだと思います。地方再生といったことが叫ばれていますが、産業と地域とがうまく連携できない状況では難しいだろうと思います。

 こうした傾向が進むなかで、人々は、自分の能力を高く買ってくれるところを探して移動するようになると思います。それは、特定の地域に限定せず、場合によっては海外に飛び出すということにもなるでしょう。わたしは、こうした傾向が強まるのが、今後の近代社会の個人のあり方ではないかという印象を持ちます。

人間は、モノやサービスを豊かに享受できれば幸せなのか、といえばそうでもないと思いますし、幸福感というのは、人それぞれ非常に多様なものだと思います。国としては、専門的能力の向上といった側面も含めて、国のなかに住む人々の幸せをどのように実現するかといった観点から、どのような支援が大切なのかということを適切に踏まえた政策をとっていくべきだと感じます。

 

 薗部さんの論文=芸術的な価値というものは、どのように形成されるものなのでしょうか。西洋近代においては、個人の顕在化という裏側を補強するものとしての芸術的な価値があったのではないか、という印象を持ちます。現代詩とか、シュールレアリズム絵画とか、アナキスティックな混沌といったものも、個人というものに対する問題提起を踏まえたものなのではないでしょうか。

日本においては、個人というものは、わたしの本文にも書きましたが、戦後のGHQ改革やバブル経済崩壊後の自己責任時代においても、その理解は、依然として宙に浮いたものになっているように思えてなりません。

 個人とは、どのような存在であり、全体との関わりとはどのようにあるべきかとか、個人個人の幸福といったものは、どのように実現されるべきなのか、といった議論が深まっていくなかで、芸術に対する期待も深まっていくのではないでしょうか。そうした問いに先行して答えていくような芸術が、いま求められているように、わたしには思われます。人間は一人では生きていけませんから、そうした人々の連携を明示するような芸術とか、絶対的な創造主と一対一に向かい合う孤立した個としての存在を問うような芸術とか、あるような印象も持ちます。日本の社会のなかで、それがどこまで実現されるか、なにがとっかかりになるのかという疑問も持つのですが。



「負けること勝つこと(81)」 浅田 和幸

「問われている絵画(116)-絵画への接近36-」 薗部 雄作

「ポスト近代社会と個の問題」 深瀬 久敬

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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