歴史を学ぶということは、単に過去のことを知識として知るということだけではありません。それよりも、過去の事例を学ぶことで、現在起きている状況が、これから先、どのように変化していく可能性を秘めているかということを、見極めるための重要な指標になると考えています。
学生の頃読んだマルクスの本の中で、「ルイ・ボナパルトのブリューメルの十八日」という本があります。これは、フランス革命後にフランスを支配したナポレオン、その甥にあたるナポレオン三世のクーデターについて論じた歴史書です。
その冒頭で、マルクスは次のようなことを書いています。「ヘーゲルはどこかで言っている。すべての世界史的大事件と巨人は二回現れるというようなことを。但し、ヘーゲルはそれに加えて次のように言うのを忘れている。一回目は偉大な悲劇として、二回目は安っぽい茶番としてと。」
これは、歴史を振り返る時、同じような事件が時間を隔てて起きることが良くあるというヘーゲルの見解に、さらに付け加えて二回目の出来事は一回目のそれに比較して茶番であるとマルクスは考えていたようです。
このマルクスの見解が正しいかどうかは分かりませんが、ヘーゲルの言うように、歴史を振り返ると、同じような出来事が起きており、その原因が、時間の隔たりはあっても、よく似ており、さらには、その後に起きる出来事も同様に推移することが多いことにわたしも気づいています。
上記のように長々と前説を書いて来たのは、現在、防衛省が提出しようとしている防衛省設置法の「文官統制」規定の廃止を盛り込んだ改正案を新聞報道で知ったからです。
そして、この法案提出について、現在防衛大臣の職務にある中谷防衛大臣の記者会見で、新聞記者が、この「文官統制」は、戦前の日本の軍部が独走し、中央政府を無視して戦争を始めたことが、あの悲惨な太平洋戦争に繋がったという反省のもとに、戦後、国会で決められたのではなかったか?という質問に対して、当の大臣がこう答えたのでした。
「わたしはそうは思っていない」しばしの沈黙の後に、こう答えた大臣の姿を見て、わたしは衝撃を覚えました。現在の安倍政権の閣僚たちが教養の欠片も持ち合わせていないことは薄々感じていましたが、これほど酷いとは想定外だったからです。
ただ、一方ではこうも思いました。本当は、知っているが、自分としてはその考えには反対だという思いから、そういう表現になったのだと・・しかし、テレビの画面の中の中谷防衛大臣の表情には、そういう知性は感じられませんでした。
もし、自分の見解と違うというのなら、その理由をはっきりと表明し、国民に対して、堂々と伝えることが、一国の大臣として必要な態度ではなかったかと思います。
残念なことに、彼の表情は、自分の知らないことを聞かれ、どう返答してよいか分からない戸惑いと狼狽が入り混じったものでした。だから、「わたしはそうは思っていない」という言葉になったのだと推察しています。
さて、ここでわたしは、この「文官統制」が、何故、戦後の日本の国会で法律として決議されたのかという歴史を振り返ってみたいと思うのです。
先にも書きましたように、過去の歴史を知り、そこから学ぶということは、現在だけでなく、未来にとっても重要であり、再び、同じような悲劇が繰り返されることを防ぐことになると思うからです。
まず、問題は戦前の軍部の独走でした。明治維新後、富国強兵というスローガンの下に、軍隊の近代化を進めて来た日本政府は、朝鮮半島の権益を巡り、当時の中国を支配し、朝鮮の李王朝の宗主国として朝鮮半島に大きな影響を及ぼしていた清国との間で日清戦争を、更には弱体化した清朝の間隙を縫って、干渉の手を朝鮮半島にまで伸ばし、南下してくるロシアの脅威を止めるための日露戦争と、二つの対外戦争を戦いました。
この二つの対外戦争の内、日清戦争は日本の優位に進み、停戦の後に清国との間に締結された下関条約は、日本の優位で条件が設定され、台湾という初めての海外植民地を手にしました。
しかし、日露戦争は、強大なロシア軍の前に薄氷の勝利となり、アメリカの仲介により、辛うじて停戦し、ポーツマス条約の締結となりましたが、それまでに国内で喧伝された日本軍の大勝利の報とは異なる停戦条件の内容となり、国民の不満が爆発する状況が生まれました。
それでも、満州鉄道の権益、樺太の割譲、更には、日露戦争後に朝鮮を植民地化することで、国民の不満を逸らすと共に、あの強大な大国ロシアに勝利した日本軍の強さが、過剰に喧伝され、国民の大多数の頭の中に刷り込まれたのでした。
その後、ヨーロッパを主戦場に戦われた第一次世界大戦は、日英同盟の関係で、ドイツが中国大陸に租借していた遼東半島の青島や太平洋に点在するドイツ領南洋諸島を攻撃する程度で、ヨーロッパ大陸で交わされた苛烈な消耗戦を戦うことなく、戦後は戦勝国として名乗りを上げたのでした。
しかし、世界の戦争のあり方は第一次世界大戦を契機に大きく変化していきました。十九世紀の初めにドイツのクラウゼヴィッツが書いた「戦争論」の中で、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というように、第一次世界大戦までの戦争は、二国間にしろ多国間にしろ、それぞれの政治的要求を貫徹させる為の手段として機能していました。
それ故、戦争が開始されると同時に、いつそれを終わらせるかということが政治的課題として重要になりました。つまり、自国の要求が叶えられそうというところで、戦争を停止するというやり方を取っていたのでした。
それは、戦争を行っている国自身に共通の認識でした。その結果、日本軍は清国の軍隊が朝鮮半島から敗走した時点で、それ以上中国国内に侵入することなく、停戦を決め、戦後処理として下関条約を清国と締結したのでした。
それは、日露戦争の際も同様でした。日本の国力では、これ以上の戦争継続が困難になって来た時に、ロシアの国内で革命騒ぎが起き、それをきっかけに互いが停戦のテーブルに就くことになったのでした。
そして、その時点で戦争が有利に推移していた日本が、ロシアよりも好条件で戦後の条約締結が可能となったのでした。そこには、日本の外交力もロシアを上回っていたということになります。
さて、そういう十九世紀型の戦争が、第一次世界大戦によって根本的に変化したのでした。当初は、第一次世界大戦を戦った国々も、いつ戦争を止めるのかと言った算段をしながらの参戦でした。
しかし、戦争が継続していくに連れ、それまでの条件闘争と言った趣が無くなってきました。レーニンが「帝国主義論」で分析したように「世界の分けどりのための、植民地や金融資本の『勢力範囲』等々の分割と再分割のための戦争」という様相を呈したのでした。
その結果、第一次世界大戦戦後に出て来た「総力戦」といった戦い方になり、相手の国が倒れるまで戦うといった新しい戦争の形が生まれたのでした。
それにより、ドイツのプロイセン王国、ロシアのロマノフ王朝、更に六百年以上も続いたオーストリアのハプスブルグ王家が、相次いで倒れるという未曽有の出来事が起きたのでした。
しかし、第一次世界大戦を実際に戦っておらず、更には、その大戦で生まれた新しい近代兵器の脅威に晒されることなく、疲弊したヨーロッパの間隙を縫う形で、中国大陸の権益を狙おうとしていた日本軍は、兵力だけでなく、意識の面でも随分と遅れてしまったのでした。
ただ、一部の軍人は、この新しい動きに危機感を抱き、兵制の改革や兵器の改良と言ったことに取り組もうとしましたが、ほとんどの軍人は、日清、日露、第一次世界大戦と無敗を誇った日本軍の実力を過大に評価し、夜郎自大的な発想の下、中国大陸への侵出を画策していたのでした。
さて、軍隊は官僚制の最たる組織です。陸軍なら陸軍士官学校から陸軍大学に、その中で優秀な成績を修めた人間が、軍隊に入隊後出世街道を驀進していくシステムでした。
そして、その中でも特に優秀な成績を修めた人間は、参謀といった軍事作戦を企画し、戦争を指導する役職に就き、その参謀の作戦により軍事行動が進められていました。
ただ、現実は、あくまでも机上での作戦企画であり、現地で直接指導するといった経験が無いままに、年齢と共に出世していく仕組みでした。
明治維新後の軍隊は、そういう仕組みもまだ出来ておらず、藩政時代に武士だった人間が中心となり、軍人として戦争に参加していました。
しかし、日露戦争を戦う頃になると、官僚組織も堅固なものに出来上がり、その組織の中で秀でた人間が、軍隊の中心人物になるという形が完成されました。
その結果、職業軍人も二世、三世と言ったように親の後を子どもが継ぐといった世襲化が進むようになっていきました。当然、実力を持った親の後ろ盾を背景に、子どもたちが軍隊の中心的幹部になっていく道筋も生まれてきました。
また、陸軍大学に入学することは、国家公務員の文官試験と同じような社会的価値が付与され、日本社会のエリートとして、人々に仰ぎ見られる存在になっていったのでした。
更に、軍人でありながら、天皇の裁可を受け、内閣総理大臣として組閣する人間も増えていく中、戦前の日本社会における職業としての軍人の地位は、特に、昭和に入ると高くなっていったのでした。
しかし、組織と言うものは、それが完成され、自己増殖を果たしていく中で、次第に、組織としての柔軟さを失い、硬直化していく傾向があります。
更に、一度得た権益を既得権として守ろうとする余り、それを阻止しようとする勢力や施策と言ったものを感情的に憎悪し、それを排除しようという傾向も出てきます。
そして、終いには、広い意味での国益といったものより、自分の属している組織が可愛い余りに、国益を損ねてまで、自分の属している組織の方を優先しようという発想も生まれてくるのです。
残念なことに、戦前の日本の軍隊は、昭和に入る頃には、そういう組織の持つ悪い部分が過剰に目立つようになったのでした。
更に、第一次世界大戦後、ロシア革命による社会主義共和国ソビエト連邦が誕生し、それまで王制を布いていた国々が王制を廃止し、共和制に変わるといった大きな変化と世界的に「革命」の嵐が吹き荒れる状況の中で、国粋的な思想を強調する動きも激しくなってきました。
当然、軍隊は、そういった国粋的な動きと連動する形で、社会主義的・自由主義的な思想を排除しようという一大勢力でもありました。そこに、国粋主義運動を行っている民間人が食い込んできたのでした。
軍隊は、兵器と言う軍事力を持っています。ひとたび、それが暴発すれば、クーデターのように、それまでの政権を倒し、新しい秩序を生み出すことも可能な組織です。
勿論、それが自明なことであることから、軍隊の組織では、そういった暴発を防ぐために、上官の命令の下に行動するといったことを訓練や日々の生活を通して頭から叩き込まれます。
更に、陸軍大臣、海軍大臣と言った大臣が、内閣の中に入っており、政府の方針に基づき、それぞれの部署に命令を下すというシステムでもありました。
ところが、それが機能しなくなりつつあったのです。その原因を最初に作ったのは満州事変でした。当時、満州に駐留していた関東軍の高級参謀板垣征四郎大佐と作戦参謀石原莞爾中佐が仕掛けた作戦により、柳条湖事件を起こし、それをきっかけに満州全土を制圧し、満州国を樹立した極めて大きな軍事作戦でした。
しかし、それは、あくまでも関東軍の現地参謀が行った作戦であり、陸軍大臣どころか、東京にある陸軍参謀本部にも未達の作戦だったのでした。
つまり、出先の軍隊が勝手に軍事行動を起こし、他国の領土を占領するという極めて無謀な作戦でした。もし、日露戦争の最中にそういうことが起こっていれば、当然、作戦を指揮した参謀は、軍法会議にかけられ、厳しい処罰が与えられたことでしょう。
ところが、この謀略は、作戦を指揮した当人たちの予想を遥かに超えた結果をもたらしたため、彼らが中央を無視して行った作戦に対して、軍法会議どころか、逆に、天皇から直々にお言葉を頂くといった功名の手段になったのでした。
このことが、その後の日本軍の行動の指針となってしまいました。つまり、結果さえよければ、中央を無視し、現地の判断で戦争を行っても良いという指針です。
これを日本軍の内部では「下剋上」と呼んでいました。まだ若い経験のない佐官クラスの参謀が、自分の上司である連隊長や師団長と言った将官クラスを無視し、勝手に戦争を始めても、それが成功すれば、誰からも文句は言われず、逆に、昇進していくといった組織的頽廃が生じたのでした。
こうなると、最早誰にも止めることは出来なくなりました。逆に、それを阻止しようとすれば、兵器を持って脅すといった事態になったのでした。
それが五・一五事件であり、戦前の日本の軍隊史上初のクーデター二・二六事件でした。五・一五事件以前にも政府の要人や財界の要人を狙ったテロは幾つか起きていました。
しかし、それはテロの加害者はあくまでも民間人であり、軍人ではありませんでした。しかし、五・一五事件では、民間団体と呼応する形で、軍人たちもテロ集団に加わったのでした。
そして、二・二六は、軍隊によるテロでした。天皇の側近の重臣たちを「君側の奸」として排除するべく立ち上がった青年将校の純粋な思惑とは全く無関係に、その底に蠢いていたものは、軍隊内部の醜い派閥争い、日本軍の意向を阻止しようとする者は、天皇といえども排除するといった傲慢さでした。
しかし、この事件がきっかけで、日本の政治は、日本軍に乗っ取られたのでした。最早、憲法において最高権力者である天皇と雖も、軍隊の独走を止めることは出来ないまでに、日本軍は怪物化してしまったのでした。
ただ、ここでわたしたちは間違ってはならないと思います。これは、個人の資質の問題ではないということです。東京裁判で戦犯として裁かれた軍人たちの個人的な問題ではないということです。
そうではなく、これを組織の問題として捉えないことには、事の本質を大きく見誤ることになるのです。
少し、この問題から外れますが、わたしが仕事で出会った事件について簡単に書きます。それは、十数年前に金沢市の文化施設で起きた横領事件でした。
そこは、ホールや集会室などの貸館業務を行っている金沢市の施設で、当時、金沢市が出資した財団が運営していました。そして、金沢市の職員も、そこで勤務していました。
その市の職員が、貸館で発生する料金を横領したのでした。さすがに、ホールの貸し料は無理ですが、それに付随した備品等の料金をお客様からもらった際に、領収書を書いてお客様に渡した後、それを書き損じとして処理し、料金を横領していたわけです。
それが何年か続き相当の額になって発覚しました。そして、警察が入り、取り調べが行われましたが、その際、警察は、被害者である財団の方に厳しい調子でこう言ったそうです。
「問題は、横領した本人ではなく、横領を許すような仕組みにある。勿論、盗んだ人間は悪いが、その男が、簡単に盗めるような環境を放置していた事も同様に悪い」と。
それを言われた財団の方は、自分たちは被害者であると反論したようですが、警察はそれに対して更にこう付け加えたそうです。
「これは組織の問題です。まず、お金のチェックがきちんとなされていない。まるで、どうぞお取りくださいと言うように、無防備にお金が存在している。人間は弱いものです。ちょっとしたきっかけで横領に手を染めたかも知れない。しかし、きちんとチェックする体制があれば、すぐに気が付くか、あるいはその男が気づかれる前に処理をするかで、こういった犯罪に発展することはない」と。
そして、「一番重要なことは、職員の個々人の資質ではなく、犯罪に手を染める要素をきちんと排除し、誰が担当しても、犯罪が起きないような仕組みを作ることだ。」と。
長々と書いてきましたが、「文官統制」というのも、まさに組織の問題ということです。現地の軍人たちに権限を持たさず、きちんと中央で管理していくというシステムです。
勿論、どんなシステムにも欠点はあります。先ほどの金沢市の文化施設に関しても、それ以降は、書き損じについては、必ず別の人間がチェックするといったように、実際に仕事をやっていく上で、ここまでやらなくてもと思う面もありました。
しかし、そこまでやれば、また、誰かが出来心で犯罪に手を染めるといったことは、以前よりも確実に少ない確率であることは確かなのです。
つまり、運営していく中で、必ずしも効率的かつ合理的では無いシステムであっても、そこには、別の目的があり、逆に、それを止めることで生ずる不利益の方が大きいこともあるということです。
今回の「文官統制」の廃止はそういった危険性を孕んだ改悪だとわたしには思えます。多分、現在、その職務についている自衛官の方たちは、これが廃止されたからといって、直ぐに勝手な行動を起こすこととはならないでしょう。
しかし、現場の人間に権限が委譲されたことで、中央のコントロールを受けないことが常習化すれば、やがて、中央を無視して、現場が勝手に動き出すという可能性が存在するということです。
つまり、法律により、「文官統制」が選択されたということは、そういう可能性を出来るだけ少なくする方法として最適であったということでしょう。
ただ、現場にいる人間にとっては、確かに使いにくい厄介なシステムであることは理解できます。それに対して反発を持つ人間の気持ちも理解はできます。
理解はできますが、先ほどから述べてきたように、完璧な制度がこの世界に無い以上、どちらを優先させるかということでしかありえません。
そういう意味で、過去の歴史を一つの大きな教訓として、非効率で不合理な点もあるが、「文官統制」を維持していくことが、これからの日本の平和に大きく貢献することのように思えます。
最期に、満州事変の首謀者の一人石原莞爾中佐が、自身の著書「国防論策」で次のような言葉を遺しています。
「満州国は・・・全く正反対の日本独占の方向に急変し・・今次世界大戦の導火線となれり。我等は全世界に向ひ衷心より自己の不明を陳謝し、謹んで全責任を負わんと欲するものなり」(了)
参考文献「昭和の迷走—『第二満州国』に憑かれて−」
多田井喜生著 筑摩選書
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