浅田さんの論文=個人の間違いについては、個人が責任を負えば済む話しですが、組織における間違いは、その責任をどうとるか、むずかしい側面があると思います。
公害被害や食品偽装を出した企業の責任、沢山の戦死者や空襲による民家人の死者を出した太平洋戦争の敗戦の責任、いじめを放置して子供の自死を招いた学校の責任など、どうけじめをつけるか、が問われます。そして、そうした間違いを再発させないために、組織としてどのような仕組みを作るかということも重要な課題になります。
組織として間違いを再発させない仕組みとしては、相互チェック、可視化、マニュアル化、などがあると思いますが、今回の「文官統制」は、相互チェックや可視化を弱体化させる可能性があるのだと思います。
日本は、現場力が強いと言われています。ものづくりの生産ラインの改善工夫、福島原発事故時の本社の指示より所長の指示が適切、などが思い当たります。一方、英国では、エリート階級が高い見識と自己犠牲心によって、強力なリーダーシップを発揮するとも言われます。どのような組織運営が適切なのか、なにかその場その場の状況によっても変化するものであり、一律に、こういうやり方がよいともいえないようにも感じます。
状況を客観的に正しく理解し把握した上で、最も妥協しうる対応策を打つということになりますが、この辺の価値観も、ひとによって異なる感じもします。日本の社会では、空気を読むことに熱心なあまり、問題自体の状況を客観する姿勢が失われる可能性も高いようです。
中国は、最近、腐敗撲滅をスローガンに汚職の摘発に熱心ですが、そのこと自体は悪いことではないと思いますが、運営方法として、相互チェックや可視化は脇において、独裁的なマニュアル化、ルール化の徹底のみで対応しようというところに、なにか危ういものがあるように感じます。
人工知能の活用ということも、今後、視野に入れていくことになる可能性が高いと感じます。地球上で生命としての人間の存続自体も危惧されている今日、こうした問題に、適切に取り組む姿勢が強く要請されているのだと感じました。
薗部さんの論文=戦後の廃墟のなかで、皇国思想の押しつけから解放されたわたしたちは、本当の正義とか美とはなにか、という問題意識に強い熱気を感じていたように思います。
時あたかも米ソ冷戦構造に基づくイデオロギー対決が強まるなかで、米国の享楽的な物質主義や強大な資本家が支配する社会のイメージに対して、ソビエト連邦の社会運営に、まじめな雰囲気を感じたり、一致団結する姿勢に共感する人も多かったのではないか、と思います。
こうした価値観に対する問題意識を踏まえた参加者意識を多くのひとたちが抱いて、それを互いに戦わせる雰囲気があったのだと思います。
しかし、米ソ冷戦構造も崩壊し、多様性重視の多元主義的価値観をもったポストモダンの風潮が広がり、世界のグローバル化が進む中で、こうした熱気を帯びた議論も下火になっていった印象を受けます。美にしても、おたく的なたのしみ方が増えて行ったようにも感じます。
唯一絶対の善とか美というものを追求する姿勢を後退させた今日の社会において、では、善とか美に、わたしたちは、どのように向き合うのが適当なのでしょうか。
個人的には、改めて、人間とはなにか、生命とはなにか、といった根源的な問いにさかのぼり、近年の科学的な研究成果や、これまで蓄積されてきた伝統的なものも尊重するなかで、問い続けていくことではないか、という印象を持ちます。こうした問いを問い続けることを失った社会は、危ういと思います。こうした問いを社会的に大切していく雰囲気が損なわれないように注意していきたいと感じました。
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