今日の素粒子物理学などの所見によれば、いま、わたしたちが見る物質界としての宇宙は、物質と反物質の対称性がビッグバンと呼ばれる事象のときに破れ、取り残された物質によって構成されたもののようである。とすれば、それまでは、物質と反物質とが完全な対称性のもとに、全く別の存在のあり方をしていたということになるのであろう。
こうした物質界としての世界は、今日、国際リニアコライダー(ILC)のような巨大な高エネルギー加速器の実験装置によって、素粒子から宇宙の構造までを客観的に説明する理論を求めて強力な組織力のもとで展開されているようである。
ヒッグス粒子、重力波、ダークマター、ダークエネルギーなどの新たな事象の実証研究が進み、10のマイナス数十乗のミクロの世界から、10のプラス数十乗の宇宙規模の世界までを、一つの統一理論によって解明する取り組みがなされている。
このような科学のめざましい発展は、ヨーロッパにおいて16世紀ころから始まったものであり、その客観的な世界の説明の成功は、人類の歴史の時間からみても、ほんのわずかな最近の時間にすぎない。そして、今日、その解明能力は、指数関数的な勢いで増大強化されている点に瞠目せざるえない。
こうした科学技術の瞠目すべき展開は、素粒子物理学や宇宙論の分野に止まらない。
生物学的な生命そのものについては、専門的なことは判らないが、DNA解析、iPS細胞の利用、腸内フローラ、がん治療技術、脳科学、細胞生物学、分子生物学など、めざましい進展が期待されている。
情報処理分野でいえば、CPU能力の高性能化や小型化、記憶装置の高速・大容量化、ネットワーク能力の高機能化・高速大容量化などが飛躍的に向上している。そして、こうした技術をベースにしたクラウドコンピューティング、ビッグデータ解析、ディープラーニングに基づく人工知能技術などが身近なものとなり、人間の思考能力もある分野では越えようとしている。
こうした16世紀ころからはじまった科学のめざましい発展は、人間とはどのような存在なのか、といった根源的問いをテーマとする哲学にも大きな影響を及ぼした。特に、人間の主観と客観の一致性に関する問いは、心身二元論なども含めて、人間の認識能力の限界に挑むものであった。デカルト、スピノザ、ヒューム、カント、ニーチェ、フッサール、ハイデガーなどの系譜をたどれば、結論的には、人間には唯一の客観というものはないということのようである。生命としての人間を、物質界と同じ科学の手法で説明することは不可能であるということなのであろう。
たしかに、人間社会の運営において、客観的に論理的にも説明可能な唯一の善というものが打ち立てられ、それに基づくルールのもとに、社会運営がなされるにこしたことはないのであろうが、そうした正義といったものの存在そのものが否定されたことになる。哲学の視座は、こうした流れを受けて、言語論やプラグマティズムといった方向に転換し、ポストモダンと呼ばれる世界に入ったようである。
以上述べた状況を踏まえて、わたしが提起したいと思うことは、かなり唐突ではあるが、生命にも、物質が物質と反物質とがあるように、生命と反生命というものがもともとは存在し、それがビッグバンという事象のときに、対称性の破れの残滓として物質界ができあがったのと同じように、生命界というものができあがったという見方もありうるのではないか、ということである。
生命の始原については、いろいろな説があるようであるが、わたしは、有機化合物を過熱や放電のもとで攪拌すると確率論的に誕生するという説明に与することには、強い抵抗感がある。
今日の科学的探求の成果としては、生命はバクテリアのような単細胞生物として、地球の誕生から数億年後には現れ、基本的にこのような形で、それから30数億年を生き延び、およそ6億年くらい前から、大型多細胞生物として進化してきたとのことである。その過程では、全海洋蒸発とか、二度にわたる全球凍結などの地球環境の大変動が大きく関わっているとのことである。例えば、光合成によって酸素を放出するシアノバクテリアが繁栄し、その酸素を活用してコラーゲンの生成が容易化され、それを活用する多細胞生物が現れ、そこから脊椎を持つ生物が誕生し、それが人類の祖先ともなる哺乳類の登場をもたらしたといった経緯であるらしい。
生命というものは、物質と反物質をコンピュータのハードウェアとすれば、もともとの完全な存在を構成したソフトウェアのようなものなのではないだろうか。ハードウェアだけでは、働きがないのであるから、宇宙という存在すらありえないように感ずる。そして、ソフトウェアの存在を検証することは、ハードウェアのそれは、原子とか素粒子といった基本単位を実験的に調べることができるのに比べると、かなり困難なように思う。今日のコンピュータは、かなり高度な情報処理まで行うことが可能であるが、その基本命令は、機械語であり、どんな複雑な処理も、この機械語のプログラムに翻訳されて実行される。今後の人工知能の研究やDNAの解析技術の高度化によって、こうした生命のソフトウェア的側面の探求が進むのではないだろうか。
わたしは、DNAが、アデニン、グアニン、チミン、シトシンの4種類の塩基によって記述され、塩基の3つづつがコドンとしてコード化され、それが特定のアミノ酸に対応しているという細胞生物学の所見を聞くと、なにかコンピュータを動作させるソフトウェアとの類似性を感じざるをえない。そして、特定のタンパク質を合成する遺伝子以外にも、DNAにはたくさんの部分が存在するということであり、なにか生命の動的平衡に向かう意識としての作用を作り出している基本的メカニズムの解明も、そうした遺伝子以外の部分の解析によって可能になるのではないか、という気もする。
宇宙が誕生したのは、130数億年まえであり、光子が長距離を進めるようになった宇宙の晴れわたりの時期をへて、膨張し続けるなかで、たくさんの銀河が生まれ、その過程で起きた超新星爆発を通して、今日、わたしたちの身体を構成する炭素やカルシウムなどの元素が作られたという。そして、地球上にバクテリアのような微小な生命が存在し、そこから多細胞の複雑な動的平衡能力を持つ大型動物が生まれ、さらに、言葉によって世界を客観する人間が生まれ、人間はさらに科学を見いだし、原子から宇宙までを客観する存在となった。
こうした経過を知るとき、わたしは、本来、完全なものとして存在したものが、その完全さに耐えきれなくなったのか、自分自身を客観してみたいという衝動に耐えきれなくなってビッグバンを引き起し、物質界としての宇宙やソフトウェア的なものとしての生命界を創り出し、世界を客観する装置や道具として、わたしたちが創り出されたのではないのだろうか、という気分にもなる。そうした存在としての人間を考えるとき、そうした役割をわたしたちが担っているのだとすれば、わたしたちは、どのような生き方をすればよいのか、という問いとも関連してくるようにも感ずる。
付言するならば、わたしたちの存在というものは、完全なものが破れ、完全なものを逆に客観する存在として捉えるならば、プラトンの想起説ということにも説得力を感ずるし、キリスト教的な全知全能の神の存在ということも視野に入ってくる。仏教は、人間の認識能力の欠陥を、悟りによって補償し、その困難な部分は、弥陀の本願のようなもので救済しようとするもののようであるが、完全な存在との関係性という点で、やや飛躍があるようにも感ずる。客観的な世界観・人間観・価値観を探求する哲学と、現実の生活の場での人間の生き方、在り方を探求する宗教との整合ということについても、今後、新たな局面からの思索が必要になってくるようにも感ずる。
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