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第127号

2015年6月17日

「負けること勝つこと(83)」 浅田 和幸

 

 前回の文章で、「歴史を学ぶということは、単に過去のことを知識として知るということだけではありません。それよりも、過去の事例を学ぶことで、現在起きている状況が、これから先、どのように変化していく可能性を秘めているかということを、見極めるための重要な指標になる」と考えていますと書きました。

 それでは、現在国会で審議されている安全保障関連法案の中で、大きな問題となっています「集団的自衛権」ですが、これまでの日本の歴史の中で、こういった事態が生じたことがあるのかということについては、余り議論の対象とはなっていません。

 ただ、歴史の中で、こういった事態が皆無であったかと言いますと、実は、古代において一度、現在議論されている「集団的自衛権」と同様な事態に遭遇したことがありました。

 それは、西暦六六三年に起きた「白村江の戦い(はくすきえのたたかい)」でした。当時、朝鮮半島では、唐と新羅の連合軍が、高句麗と百済と戦っていました。そして、この「白村江の戦い」の三年前の西暦六六〇年に百済は、唐と新羅の連合軍に滅ぼされていました。

 その際、百済軍の将軍鬼室福信から、日本軍派兵による救援と日本にいた百済の王子、扶余豊璋の帰国の要請があり、日本は王子の扶余豊璋の帰国を認めると共に、西暦六六一年に斉明天皇が、百済救援のため北九州へと向かわれました。

 ただ、この時は、朝倉宮(福岡県)で、斉明天皇が亡くなったため、ただちに派兵ということにはならず、皇太子である中大兄皇子が、天智天皇と称制し、一年の期間を置いて、六六三年の派兵となりました。

 さて、ここに至るまでの中国と朝鮮半島の歴史の流れを簡単に書いておきたいと思います。六世紀の終わり、西暦五八九年に、中国大陸では陳を滅ぼし、隋が中国を統一しました。

 中国を統一した隋は、その矛先を朝鮮半島へと向けます。隋と国境を接している高句麗に、西暦五九八年に、隋は侵攻を始めました。日本も、朝鮮半島に権益を持っていた関係で、新羅に派兵すると共に、遣隋使を隋に派遣しました。

 西暦六一二年、隋の揚帝が、高句麗に遠征し、朝鮮半島ではまた戦争が始まりますが、西暦六一八年に揚帝が殺害され、隋が滅び、唐が誕生したことで、朝鮮半島情勢はさらに大きく揺れ動くことになりました。

 西暦六四二年百済が新羅を攻め始めました。そして、同じ年に高句麗ではクーデターがありました。翌年、百済は王子の扶余豊璋らを日本へ送り、百済は日本と同盟を強化し、新羅を滅ぼすという意思を鮮明にしました。

 一方、新羅は、唐に援軍を求め、日本と百済の連合軍に向き合うといった方針を取りました。

 さて、日本(当時は倭国)には古くから、朝鮮半島より多くの人たちがやってきておりました。わたしが日本史で習った頃は、その人たちを「帰化人」と呼んでいましたが、現在は「渡来人」と呼ばれています。

 その渡来人たちは、朝鮮半島の出身地により、百済系や新羅系などと言われ、日本に定住した後も、そのルーツを鮮明にして暮らしていたようでした。

 「日本書紀」の一書に、日本の神話のヒーローの一人スサノオノミコトは、アマテラスオオミカミが支配する高天原より追放された後に、シンラ(新羅のこと)へ赴き、その後、出雲の国にやってきてヤマタノオロチを退治したと書かれています。

 そして、出雲にある日御子神社では、ご神体であるスサノオノミコトは陸を背にして、海の方を向いて鎮座しています。これは、自らやってきた朝鮮半島を懐かしんでのことと解釈されています。

 以上のように、古代の日本において、文明の先進地であった中国大陸や朝鮮半島からやってきた人々は、その持っている技術を使い、日本の支配者層として君臨していたことは歴史的事実であったようです。

 さらに、前にも書きましたように、それぞれの出身地によって、一つのまとまり=豪族あるいは有力者ということで、日本各地に点在していたようです。

 ただ、朝鮮半島が比較的平和で安定した時代には、日本国内で、各豪族の対立は大きくなかったことと思いますが、上に書いたように朝鮮半島情勢が緊迫化してくると、それまで目立たなかった対立が目に見える形となって表れて来たようです。

 その対立によって生じた事件が、わたしが日本史で習った「大化の改新」でした。現在、古代史においてこの「大化の改新」という言い方ではなく「乙巳の変」という言い方が有力です。

 これは、中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を暗殺した事件でした。当時、大和政権において大きな力を有していた蘇我入鹿の暗殺により、蘇我氏と対立していた勢力が権力を握ることになりました。

 この「乙巳の変」が起きた西暦六四五年は、唐が高句麗に対して総攻撃をかけた年でもありました。つまり、新しく中国の支配者となった唐は、朝鮮半島にもその影響力を強めて来たということです。

 それは、百済と強い同盟関係にあった日本にも当然大きな影響をもたらすものでした。百済と対立する新羅は、唐に援軍を要請しており、唐は、その要請に従い新羅を助け、百済と高句麗に対峙することになりました。

 このように半島情勢が緊迫化していく中で、当然日本国内では、今後の方針について議論が沸き起こったことでしょう。これまでと変わらずに百済との同盟関係を結び、新羅と唐の連合軍と対峙するのか、それとも違う道を選ぶのかということは、日本にとって極めて重要な外交方針でありました。

 こういう観点から眺めて見ると、わたしが習った「大化の改新」ではなく、「乙巳の変」という呼び方が、現在主流になってきていることが理解できます。

 つまり、この「乙巳の変」は、朝鮮半島情勢の緊迫化に伴い、どのような外交及び軍事手段を選択するかを巡っての権力争いと言った局面が強いということです。

 その後の歴史を眺めていますと、蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子=天智天皇は、百済との同盟を重要視し、唐と新羅の連合軍と対決する姿勢を取ったことにより、百済を支持する人々に支持されていたことが分かります。

 反対に、蘇我入鹿は、百済との同盟関係を見直し、新たに生じた朝鮮半島の有事に対応しようとする路線を支持する勢力であったと推測できるのです。

 さて、西暦六五〇年に、唐の高宗が、百済と高句麗に新羅との和平を命じました。そして、二年後の西暦六五二年に、百済と高句麗が新羅へと侵攻しました。

 しかし、唐からの援軍により新羅は持ちこたえ、西暦六五八年に、再び唐は高句麗に侵攻します。そして、前にも書きましたように西暦六六〇年に、唐と新羅連合軍は百済を滅ぼします。

 多分、この時点で日本国内において、唐と新羅の連合軍と戦うのか、それとも戦いを回避するのかといった議論が戦わされたことと思います。

 しかし、天智天皇となった中江大兄の王子は、当初の決断の通り、百済との同盟関係による「集団的自衛権」を発動し、唐と新羅の連合軍との戦いに踏み込みます。

 結果は、二万七千人余りの軍勢を朝鮮半島に派兵しましたが、「白村江の戦い」で、唐と新羅の連合軍の前に大敗し、多くの犠牲者を出して、這う這うの体で日本に逃げ戻ってきたのでした。

 これは、古代日本が初めて経験した対外派兵であり、その派兵による敗戦であったようです。しかし、不思議なことに、日本史の授業においては、「大化の改新」による班田収授の法などについては、とても細かく学習するのに、この古代史最大の海外派兵と負け戦については、ほとんど学習しないというのが定番です。

 この大敗北の結果、国内では対馬、壱岐、筑紫に防人を配備し、筑紫に水城を築くといったように、唐と新羅連合軍が、日本国内に侵攻してくるという状況を恐れ、防備を固めると言ったことに着手します。

 九州だけでなく、各地に山城などが築かれており、当時の人々の恐怖というか大敗北への衝撃が伺えます。ただ、唐と新羅の連合軍は、日本への派兵の前に、高句麗への攻撃を優先しました。

 西暦六六七年に、唐と新羅の連合軍は高句麗に侵攻を開始します。百済が滅びたことで、百済の脅威から解放された新羅と中国大陸からの唐の挟み撃ちの前に、翌年、高句麗は滅亡します。

 高句麗が滅亡して二年後の西暦六七〇年には、新羅は百済の領土へと侵攻し、朝鮮半島で唯一勝ち残った新羅が、朝鮮半島の支配権を強めていきました。

 それと同時に、これまで同盟関係にあった唐と新羅の関係がこじれてきました。唐としては、新羅を援助して、三つに分裂していた朝鮮半島を統一後は、自らの支配権を強めたいといった意図があったわけですが、そういった唐からの干渉を好まない新羅との間に対立が生じるようになりました。

 新羅が百済の領土に侵攻し始めた翌年の西暦六七一年には、唐の使者郭務宋が来日し、唐と連携して新羅を攻めるようにとの唐の皇帝の意向を伝えました。

 この時、天智天皇は亡くなっており、その跡を継いだ息子の大友皇子が、唐との連携を認め、新羅を攻撃するといった外交方針を鮮明にしました。

 そして、このまま日本は唐と連携し、新羅を攻めるといった方向へ舵を切ろうとした時に、古代史において最大の内乱壬申の乱が西暦六七二年に起こります。

 結果は、天智天皇の後継者であった息子大友皇子ではなく、天智天皇の弟で、天智天皇が亡くなった後は、吉野に蟄居していた大海皇子が勝利、大友皇子は自殺して、大海皇子が天武天皇として即位することになりました。

 この壬申の乱ですが、「乱」というのは、正確な言葉ではないように思います。何故なら、大海皇子は、自ら反乱を起こしたわけではありませんでした。

 彼は、自分の兄が亡くなった後は、甥である大友皇子に権力を譲り、政権の中枢から離れ、吉野という辺鄙な場所へと蟄居していたわけです。つまり、壬申の乱では、主体的に反乱を起こしたというより、担がれたといった状況だったように思います。

 だから、「乱」というより、これは「壬申の役」とか「壬申の戦い」といった方が妥当のように思われますが、敢えて、「壬申の乱」という呼び方をしているのは、後世の人々が作り出した物語のせいに思えます。

 つまり、大海皇子が、主体的に反乱を起こし、政権を奪取したといった筋書きを作り出したかったということです。何故でしょうか?

 これは、「白村江の戦い」の大敗北が背景にあるのではないかということです。「白村江の戦い」から、まだ十年も経過していません。二万人を超える派兵軍が戦死をした「白村江の戦い」の記憶は、国内においてまだ生々しいものがあったと想像できます。

 そういった生々しい記憶が払拭できぬ前に、今度はかつての敵軍であった唐と同盟を結び、新羅を攻めるといった外交方針は、多くの人々に不安を与えたことと想像できます。

 ただ、天智天皇の後継者であった大友皇子は、自身の父親の失敗を挽回できるチャンスと捉えたことも十分に理解てきます。この作戦が成功し、新羅を滅ぼすことが出来れば、「白村江の戦い」で失った朝鮮半島の失地を回復できるチャンスでもありました。

 しかし、彼の野望とは正反対に、戦いを回避したいという勢力も国内には存在していたのです。彼らは、天智天皇の軍事行動により、多大な人的損失を被った有力者たちでした。彼らは、大友皇子の決断を無効にせんとして、大海皇子を擁立するという手段を選んだことになります。

 実際、壬申の乱は、大海皇子がなにかする前に、戦いの帰趨は決まっていました。つまり、各地の有力者のネットワークの方が、大友皇子の勢力を上回っていたということでした。

 大海皇子はその神輿に乗せられて大友皇子を打ち破ることになったのです。その後の歴史は、これをはっきりと物語っています。つまり、一度、同盟を結ぼうとした唐に対しては、政権が変わったということで、先日の約束は無かったことということを通告しました。

 それにより、唐は、新羅を日本と共に挟み撃ちして滅ぼそうという作戦を断念することになりました。そして、壬申の乱後の四年後の西暦六七六年唐は安東郡護府を平攘から移転し、ここに新羅が朝鮮半島を統一することとなりました。

 隋が興ってから百年余り続いた朝鮮半島での紛争は、漸くここに終焉を迎え、朝鮮半島に、久しぶりの平和が訪れることとなったのでした。

 この朝鮮半島の平和は、日本にも大きな影響をもたらしました。天武天皇を中心とした政権により、これまで倭国として一段低く見られていた国名を日本とし、当時の東アジアの文明国家のグローバルスタンダードであった国家体制の整備に着手しました。

 それは、まず法治国家であるための律令整備、続いて、国史の編纂事業、そして最後に条里制による都の建設でした。律令は、西暦七〇一年に持統天皇の下で「大宝律令」として施行されました。

 条里制に基づいた都の建設は、西暦七一〇年に、平城京として奈良に誕生しました。最後の国史は、西暦七二〇年に、「日本書紀」が奏上され、ついに日本は文明国家としての体裁を整えることに成功したのでした。

 そして、ここで生まれたシステムは、その後日本の歴史に連綿と続き、明治維新により西洋文化の導入に至るまで、日本の政治及び文化に大きな影響を与えて来たのでした。つまり、現代にいたる日本の国家の礎が作られたと言っても過言ではありません。

 そういう観点で、「壬申の乱」を眺めて見ると、この古代史最大の内乱が持っている意味の大きさに改めて気づきます。もし、大友皇子が勝利者となり、唐と連携を深め、新羅を攻めるという事態になれば、その後も戦いは続き、日本も多くの犠牲を払い、最悪の場合、新羅に占領されていた可能性もあったのでした。

 しかし、戦いは回避されたことで、東アジアに平和が訪れ、それまで軍備のために使っていたものを、新たな都の建設や文化的なものの整備に使うことで、日本の文明化は進展しました。

 そして、その後六〇〇年余り、外国の軍隊から侵略されることがないという平和な時代を日本が享受できたのも、まさに、この時の決断によってでした。

 百済との「集団的自衛権」による戦いは、敗北に終わり、国内に大きな傷を残しましたが、その反省の基に選択した「戦いの回避」により、日本はその後の長き平和を得ることが出来たのでした。

 さて、日本社会が大きく変化した明治維新は、十九世紀に起きた東アジアの動乱がきっかけでした。欧米列強が、軍事力を背景に帝国主義的な野望により世界各地に植民地を築いていった十九世紀、中国大陸を統一していた清王朝の弱体化により、東アジアの平和は壊されました。

 その危機をバネに、いち早く欧米の文明を取り入れ、特に、軍事力に力を入れた日本は、欧米列強の間隙を縫って、中国大陸、朝鮮半島へ軍隊を派兵しました。

 十九世紀後半から二十世紀初頭に戦われた、日清・日露戦争により、日本は朝鮮半島植民地とし、更に、中国の混乱に乗じて中国大陸にまで侵出を果たしました。

 しかし、中国での戦争が長引き、最終的にはアメリカとの戦争にまで発展したことで、大敗北を喫し、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏により、それまで奪った植民地をすべて失い、戦争放棄をうたった憲法の下に、平和国家として国際社会に復帰することができたのです。

 それから七十年の歳月が流れ、日本は国内外での戦争に戦闘用の軍隊を一度も派遣することなく、豊かな社会を築くことに成功したのでした。

 それが、戦争放棄をうたった憲法を改正することなく、なし崩し的に「終端自衛権」という名目の下に、再び軍隊を海外に派兵する法律を作ろうとしています。

 戦後七十年の歳月は、日本人の記憶から「戦争の現実」を風化させて来たようです。長く続く「平和」を「平和ボケ」と称し、それがなにか悪いような言説が人々の耳に届くのです。

 そして、この七十年の間に、日本を含めて東アジアの情勢も大きく変わってきました。資本主義国家と社会主義国家の対立といった冷戦構造は終結し、かつて「眠れる獅子」と言われながら、長く惰眠をむさぼっていた中国は、本来の実力を発揮し、現在の覇権国であるアメリカに迫る力を付けつつあります。

 明治維新後、アメリカと戦って敗れた後も、日本人は中国を低く見るといった態度を持続してきました。ところが、ここに来て、中国の国力が増強し、覇権国であるアメリカと互角な力を世界に示すようになると、それを認めたくないという感情から、嫌中といったように、中国への憎悪の念が高まりつつあります。

 多分、これは古代より日本人のDNAの中に連綿としてあった中国への脅威・怖れの表れかも知れません。つまり、それぐらい深く、わたしたち日本人は中国と関わって来たということです。

 現在、安倍内閣が進めようとしている安全保障政策の見直しは、国民の間に広まりつつある中国への脅威を背景にして醸成された嫌悪感や恐怖心を餌に肥大化してきた不安感に支えられているように感じます。

 でも、冷静に現在の東アジアの情勢並びに世界情勢を眺めて見れば、いま、日本が慌てて「集団的自衛権」を行使する必要性などどこにも無いことが明らかです。

 もし、日本の敗戦後に「集団的自衛権」が必要という事態があったとすれば、それは「朝鮮戦争」の勃発時、あるいはベトナム戦争が泥沼化し、アメリカが抜き差しならぬ状況に陥った時だったと思います。

 しかし、いずれの時も、日本は「憲法」によって、海外への軍隊の派兵は行わず、後方支援ということで、アメリカとの同盟を維持してきたのでした。

 さて、それではいま、わたしたちの前に「朝鮮戦争」や「ベトナム戦争」のような危機的状況があるのでしょうか?確かに、北朝鮮は、独裁者による軍事的に危険な面をもっていますが、それも、あくまでも可能性であり、それを暴発させないために、周辺各国が協力を行っている段階です。

 そのように考えてみれば、この東アジアは、極めて平和的な状況にあると言って過言ではないと思います。その平和を作り出しているものは、日本、韓国、中国が、経済的に密接な関係にあり、それにより大いに経済的繁栄を享受しているからに他なりません。

 多分、安倍首相の頭の中にあるのは、アメリカへの忠誠と同時に血の同盟の締結ということに思えます。日本をアメリカが「日米安全保障条約」により守っている状況に飽き足らず、より積極的にアメリカと共に安全を守り、そのためには自国の国民の血が流されても厭わないという思いが見え隠れしています。

 勿論、自衛権により作られた自衛隊である以上、日本が他国から攻撃された場合は、当然、自衛のための戦いを行うことは明らかですが、安倍首相は、そういう受け身ではなく、積極的に他国へまで出かけていき、自衛のための戦争を行える仕組みに、この国を変えたいと思っているようです。

 だが、過去の歴史を振り返ってみる時、日本の海外への派兵はことごとく失敗しています。対外戦争に関しては、一時的に勝利することもありましたが、最終的には全て失敗に終わっています。(「白村江の戦い」、「秀吉の朝鮮出兵」、「明治維新後の朝鮮半島・中国大陸派兵」)

 唯一、対外戦争で敵を撃破したのは、元が派兵してきた二度の元寇の戦いだけでした。それも、台風による敵の船団の崩壊といった幸運な出来事によってでした。

 そのように考えて見れば、また再び、対外戦争へのきっかけを作る可能性がある今回の法律は、決して、日本の国のためにはならない愚かな選択に思えてなりません。

 もう一度、冷静に世界や東アジアの情勢を眺め、争いに積極的に関わるのではなく、出来うる限り争いを回避することが、これから少子高齢化を迎える日本社会に、大きな益をもたらす選択であることを、多くの国民が共有できればと思っています。

 古代の人々が行った賢明な選択を、いまに生きるわたしたちも是非学びたいと思っています。(了)

 

 参考文献 「私の日本古代史(上・下)上田正昭著 新潮選書

      「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」

          大山誠一著 NHKブックス

      「天武天皇の企て」遠山美都男著 角川選書



「問われている絵画(118)-絵画への接近38-」 薗部 雄作

「生命における主観と客観」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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