この世界は、物質と生命から構成されていると考えてよいのではないかと思う。それは、今日のコンピュータがハードウェアとソフトウェアから構成されているのと概念的には似ているかもしれない。
そして、私が思うに、物質というものは、もともと物質と反物質とが完全な対称性のもとに存在していたのだが、あるとき、なにかの切っ掛けでその対称性が崩れ、対称性の相手を失い取り残されたものが、今の物質界を存在せしめたのと同じように、生命についても、もともと生命と反生命とが完全な対称性のもとで存在していたのだが、物質界の対称性の崩れと同期し、対称性の相手を失い取り残されたものが、今の生命界を存在せしめた、と考えられるように思う。
生命というものが、海水のような水溶液が、過熱とか加圧とか放電といった手段で攪拌されるなかから偶発的に誕生したという説明は、生命のもつ多様な現象をみていると、到底、納得しがたい。また、生命を構成するアミノ酸は、もともと宇宙に存在するものであるという識見も、こういう理解を正当化してくれるように感ずる。
今日、素粒子物理学の進展によって、物質の極小の構成から広大無辺の宇宙の在り方までが、一つの理論的体系として捉えられつつある。同じように、生命科学の今後の進展に伴い、生命というものの根源的側面が次第に解明されていくのではないだろうか、という気持ちにもなる。もし、こうした理解が正しいとすれば、霊魂の不滅とか、輪廻転生といった概念も、ある意味では正当化されるようになるのではないだろうか。
さて、生命というものを、宇宙にもともと根源的に存在する元素的なものという捉え方をするとき、今のわたしたちの生物界というか、人間界というか、人間地球社会というか、そういったものの存在、在り方をどのように捉えるか、が問われなくてはいけないと思う。
生物界は、細菌、古細菌、真核生物といった変化を遂げ、真核生物は、さらに、植物、動物、粘菌類といったものに変化してきたようである。こうした生物に共通する根源的な特徴は、自己と外界を区別する意識が存在していることだと思う。生物の在り方の基本は、食べることであり、生殖することであり、食べられないように逃げることではないかと思う。こうした行動を適切に行うためには、外界の状況を感知し、そうした環境にうまく適合していく能力が必要不可欠である。植物は、食べるという点については、水と二酸化炭素と光があれば、光合成によって澱粉といった有機化合物をつくりだし生きていくことが可能である。しかし、生殖については、風を利用して種子を飛ばしたり、花粉を運ぶのに昆虫や動物などを利用した様々な工夫を凝らしている。さらに、防衛のためには、様々なホルモンを分泌するなどの手段も行使しているようである。したがって、基本的に動かない植物においても、外界を感知する能力を備え、生物としての基本的対応を図っているということである。
生物は、基本的に、自己と外界とを区別し、外界との動的平衡を常に制御している存在である。そして、わたしは、その制御方法を特徴づける一つの基本的な原理が存在するのではないかと思う。それは、やや飛躍のように聞こえるかもしれないが、主観と客観とのレベルの相違と言えるものである。
辞書によれば、まず主観とは、「一、他からの視点を無視した自分だけの考え・見方。二、哲学で、対象となりうる一切をのぞき、対象化できないもの、すなわち意識それ自体。三、外界を知覚・意識する主体。認識主観。自我。四、事物を見たり聞いたりして心の中にえがいた意識内容。」とあり、つぎに客観とは、「一、個人的・経験的意識にとらわれることなく、見たり、考えたりすること。二、人間の行動・思惟には関係なく、独立に存在する物質・自然。外界。客体。三、哲学などで、知るという主観の認識の対象になるもの。認識論上の対象。」といった説明がなされている(講談社刊、日本語大辞典)。
こうした理解を踏まえた上で、ややわたし流の解釈になるとは思うが、主観とは、自己の立場、利害、気持ち、等を中核に据えたものの見方であり、客観とは、自己の立場、利害、気持ちといったものはなるべく排斥し、できるだけ普遍性を指向する見方である、と解したいと思う。主観の最たるものは、がん細胞のそれではないかと思う。がん細胞は、やみくもに増殖し、結局、自分の生が依拠している宿主を死に追いやって、その結果、自分も滅亡する。客観の極限は、全知全能の神であると思う。生き物というものは、左端を主観、右端を客観とする数直線上のどのあたりかに存在しているものではないかと思う。そして、全ての生き物のなかで、人間、ホモサピエンスは、その数直線上で、もっとも右側に存在している生き物であり、客観する能力において、他の生き物に抜きんでた存在ではないかと思いたい。
人間の歴史を振り返るならば、その客観の能力は、道具を作り出し、衣食住にさまざまな工夫をこらし、言葉を使うようになり、そして、宗教を生み出す、といった発展をしてきたと言えるのではないだろうか。例えば、仏教は、我執にとらわれた見方は、社会に争いをもたすものであり、執らわれのない、正しい見方を身につけることの大切さを説いた。鎮護国家の礎に、そうした思想を据え、大仏を建立したり、座禅を広めたり、衆生無辺誓願度といった社会性を強調する教えを広めた。キリスト教は、全知全能の絶対の神を前面にたてることによって、人間の弱さを強調し、それを素直に認めるところに救いがある、と説いたのではないかと思う。こうした客観する能力の深化が、いけにえの風習とか、奴隷制度とか、身分制度といった在り方を排斥し、さらに、文書化された法律や憲法といった客観的に依拠できるものによって、社会を運営しようと努めてきたのだと思う。言うまでもなく、ヨーロッパ近世に起きて科学革命は、物質界を、その現象という側面のみを抽出し、それを数学的表現に基づく因果関係として捉えるという客観のエポックメイキングな成果をもたらした。現代社会は、この科学の恩恵を抜きには語れないものになっている。しかし、客観という切り口からみれば、人間社会には、まだまだ客観できているとは言い難い側面がたくさん存在していると言うべきではないかと思う。特に、物質界の客観にはかなり成功しているが、同じ生命を客観するという側面については、まだこれからという印象が強い。以下、こうした問題意識を踏まえた議論をしたい。
(1) 教育と客観
教育の社会的な仕組みは、人間の客観のレベルを高める上で、非常に重要な役割を担っていると思う。図書館や大学を作ったり、印刷技術の向上、等によって、今日の近代社会が生み出されたことを忘れてはいけないと思う。文化の伝承も、ある意味では教育と同じことだと思う。立ち居振る舞いなどの伝統文化の美しさや公衆道徳の在り方も、広い意味での教育の賜物である。
教育を通して、わたしたちは、今の社会がどのように運営されているかを知り、そうした社会に、自分としては何を自分なりの特徴として身につけ、参画していくかを考える。社会のなかでの自分の役割や存在に納得できないという生き方は、その人にとって不幸であるばかりか、社会的な損失でもある。今日の社会は、急激に複雑高度化しており、どのような知識や能力が必要とされているのか、分かりやすく明示することが社会的に非常に大切になってきていると思う。
こうした教育の仕組みの充実によって、一人ひとりの主体性や全人格性に基づく参加者意識が尊重される社会を構築していくことが可能になるのだと思う。そのためには、インターネットなどのIT技術を活用した高度な教育システムは、社会インフラの一つとみなされてもよいと思う。生き物の本性として、オタク的な生き方も許容されてしかるべきだと思う。
今日の学校教育現場において、学級崩壊、教師の雑用による忙殺、陰湿ないじめ、大学の専門学校化、といった状況がなぜ起きているのか、よく吟味する必要性も感ずる。
また、国の歴史教育の場において、自国の歴史を過度に美化してみたり、他国への憎悪を意図的に駆り立てることは、主観の見方のなせるわざと言わざるを得ない。権力が、「知らしむべからず、依らしむべし」というスタンスをとることは、排除されなくてはいけない。
(2) 美意識と客観
人間は、美意識をもった存在である。美意識は、なにか崇高なもの、普遍的なもの、主観の世界を超えたもの、といったものに寄せる気持ちではないかと思う。高い山や奥深い森林、空全体をおおう夕陽の輝き、母親の子に対する慈しみの態度、といったものに美を感ずるように思う。言い換えれば、人間は、生存レベルの主観の世界には、美しさを感じないが、外界から切り離された個物を超越したような普遍性には憧憬の美意識を持つ存在と言えるのではないだろうか。恐竜や爬虫類を見ていると、なにか生物本能一辺倒のように思えて恐ろしさのみがあって美しさが感じられない。古代のアテネとスパルタとの間にペレポネソス戦争というのがあったが、なにかアテネには、普遍性を指向する姿勢があるのに対し、スパルタは力による強さのみを指向したような印象であり、アテネに美意識を感じたりする。人間社会の客観のレベルを深めるという観点からも、芸術としての美意識の社会的在り方を大切にしていくべきだと感ずる。
(3) 集団・組織と客観
生き物は、基本的に個物として存在するものであり、極端に言えば、自己責任を担う存在である。しかし、個物としての存在は、集団に属することによってその生存基盤を強化することが可能になる。家族、民族、宗教、企業、組合、国家といった組織集団は、そうしたものの典型である。大企業は、中小企業に比べて、資金力や人材の豊富さによって、より大きな仕事をすることが可能である。また、粘菌は、飢餓的な危機に直面すると、個別に行動していた菌が樹状の一つの固まりとなり、効率よく移動を開始する。
集団に属することは、こうしたメリットもあるが、集団としての存続を図るために、個としての個人が犠牲を求められることもある。太平洋戦争で、特攻隊員として死を強要された若者もしかりだし、企業の存続のためのリストラにより解雇されるサラリーマンもしかりであろう。
日露戦争の終結を図ったポーツマス条約の内容に不満をもつ人々が日比谷焼打事件を引き起こしたし、連合艦隊司令長官山本五十六氏は、個人的には太平洋戦争を避けたいと思っていたが、国民的な熱狂の中で真珠湾攻撃に踏み切った。また、今日の中国、韓国、ロシア、等との領土問題も、主観同志のぶつかりのように思う。集団と個人との間で、主観と客観の衝突にどう対応していくかが、問われなくてはいけないと思う。
集団は、なにかそうした熱狂に煽られ、客観を失い、主観のみで暴走することがある。ナチスドイツのユダヤ人大虐殺、関東軍による南京大虐殺(なにを根拠としているのかよく分からないが、そういう事実はないと主張する人もいるが)、等をその一例として挙げることができるだろう。
こうして見てくると、集団としての客観は、多数決という民主主義のルールによって担保されるような単純なものではないと思われる。なにかそこに生命としての客観に対する基本的な思想なり、地球環境問題の深刻化も踏まえ、指針を確立していくことが必要不可欠になっていくように思われてならない。
(4) 人工知能と客観
情報処理技術の進展には、眼を見張るものがある。アナログ電話回線やウィンドウズ95によるパソコン通信、そして、ネットスケープナビゲータによるウェッブ技術などを使っていた20年ほどまえに比較するとき、今日の情報処理技術には隔世の感を禁じ得ない。わずか20年ほどの間に、CPU能力、記憶容量、通信の速度と容量、ネット検索技術、表示技術、クラウド技術、ディープラーニングに基づく人工知能技術、ビッグデータ分析技術、IoTなどの新技術が次から次に開発された。
このような急激に革新的な技術が登場にした時期を、これまで人類は体験したことがあったであろうか。GPS技術やドローン技術といった周辺技術も、わたしたちの社会の在り方に、大きな変革をもたらす可能性が高いと思う。
特に、人工知能の発展は、ゲームの世界から、医療分野、軍事分野、行政分野などに広まり、2045年ころには、人間の知能を上回るとも予測されている。
国家の指導者が、偏った歴史認識をもっていたり、特定の集団の利益に偏向していたり、重要な情報を無視した判断をしていたりといった弊害を、人工知能は、抑止してくれるのだろうか。有能なブレーンを補佐役として持っていたとしても、どのような人をブレーンとするか選ぶのは、たぶんその指導者自身であろう。その人選に偏りがあれば、結果は偏ったものにならざるをえないと思う。主観から、できるだけ客観を高めることが大切であると思うが、人間の客観能力をいかに人工知能で補完していくか、これからの人類にとって大きな課題になっていくと思われる。
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