現在、国会で審議されている「安保関連法案」は、当初、中東での紛争の際に、石油を中東に依存している日本の国益を守るために、アメリカ軍との集団的自衛権により、この事態を解決していくといった言説で語られていました。
しかし、イランとアメリカとの間にあった核を巡る確執が緊張緩和に向かい、これまで想定していた事態(ホルムズ海峡の機雷による封鎖)の現実味が失われていくに従い、隠されていた本音の部分がはっきりと見えだしました。
それは、対中国の脅威に対して、日本がどう対処していくのか、その際に、アメリカ軍との集団的自衛権の行使を前提に、自衛隊が防衛だけでなく、戦える軍隊として変貌していくことが目指されているということです。
こういう脅威論を前提に、軍備を拡張していくというプロパガンダは、戦前の日本軍の得意とする所でした。国民に対して、危機や脅威を煽り、それに乗じて軍備を拡張していくという手段は、どこの国の軍隊でも行う常套手段でした。
ただ、戦前の日本軍の場合は、この日本列島という、日本固有の領土ではなく、朝鮮半島、更には中国大陸まで、領土を拡張し、その領土を守るために危機や脅威を煽ったのでした。
その結果、日本軍は自国の防衛という目的のために、中国大陸の北東部(満州)に侵出し、その後は、中国大陸の中央部にまで侵出することになりました。
その時に語られたのは、ソ連の脅威であり、中華民国の脅威でしたが、そういった緊張を導いた張本人は、実は、日本軍そのものだったということです。
しかし、国民の多くは、その脅威を他国による脅威として受け止め、日本軍の軍事行動は、他国の脅威を取り除く、必要不可欠なものとして支持したのでした。
実は、現在も同様な構図が語られています。朝鮮半島にある北朝鮮の脅威、千島列島を不当に占領するロシアの脅威、そして、尖閣諸島など南シナ海での中国の脅威。こういった脅威から身を護るために集団的自衛権が必要であるという論理です。
確かに、脅威が存在していないわけではありません。いつの時代においても、他国との間の軋轢や摩擦と言ったものは存在していました。
ただ、その解決のために軍事的行動を取るか、あるいは外交的交渉により解決していくかということは、それぞれが考え、選択してきた歴史があります。
明治維新後の日本は、一貫して、軍事行動による解決という手段を択んできましたが、それ以前の江戸時代の徳川幕府は、外交交渉により、平和的な関係を構築してきました。
そこに至るまでには、豊臣秀吉による朝鮮への軍事侵略による緊張状態が存在していました。その緊張状態を緩和し、平和に国交を回復させるという目的により、徳川幕府は、外交交渉により新たな隣国関係を築いたのでした。
そして、それが二百六十年近く続きました。しかし、徳川幕府を打倒して新たに政権を奪取した明治政府は、それまでの友好関係を投げ捨てて、軍事的な圧力により、自らの野望実現のために戦争状態を作り出したのでした。
当時は、「帝国主義」の時代。日本もいつ欧米列強の植民地として支配されるか分からぬといった厳しい国際環境の中、軍事力を高めることで、国の独立を守るといった手段は、決して間違った選択ではありませんでした。
しかし、当初は、自国を欧米列強の脅威から守り、自主独立を確保していくための軍事力増強政策は、やがて、自国の防衛といった領域を超え、他国への軍事的侵略の手段として考えられるようになりました。
明治十年頃から始まった「征韓論」。それはまさに他国の軍事的侵略の第一歩となりました。朝鮮半島の支配を巡り対立した清国との反目が、やがて中国大陸への軍事的侵出になっていきました。
それから丁度七十年の年月を経て、アメリカとの戦争に敗北した日本は、明治維新以後に、朝鮮半島、中国大陸で築いてきた領土拡張による植民地や占領地を全て失い、再び、明治維新以前の日本固有の領土へと戻り、憲法九条により、「専守防衛」以外の軍事行動を認めない国家へと変身したのでした。
そこから七十年。再び、日本の隣国の脅威が喧伝され、その脅威から身を護るための軍事的目的の「安保関連法案」が、憲法を無視する形で、国会で可決されようとしています。
さて、現在の日本国民の考えを二分する「安保関連法案」に関して、新聞の読者投稿欄に、それぞれの立場で書かれた意見が掲載されています。ある人は、法案に反対の立場で、ある人は法案に賛成の立場で。
その中で、わたしが気になっているのは、わたしより年配の投稿者の法案賛成意見の中で、常に語られる「国際環境の変化による日本の安全への脅威」という言説です。
彼らが、男女の区別なく必ず書き付けている理論は、「現在の日本を巡る国際環境が緊張状態あり、隣国の脅威から日本を護るためには、この法案が必要だ」というものなのです。
前にも書きましたが、現在の日本を巡って「脅威が無い」とは言えませんが、それが、戦後七十年継続してきた戦いは自衛だけに限定した平和主義を放棄する程に深刻なものとは思えないのです。
更に、そういうことを述べている人が、平成に生まれた若い世代に属する人たちで、過去の歴史については知らないということであれば、それも納得できますが、わたしより年配の方たちが、そういう認識であるということが、わたしには到底理解できないのです。
何故なら、わたしがもの心付いた頃の世界は、現在よりずっと国際的に緊張状態にありました。わたしが生まれた千九百五十一年には、朝鮮戦争が終結し、現在のように朝鮮半島が南北に分断されることになりました。
その二年前には、中国大陸で、中華民国が中国共産党に敗北し、中国大陸は、中国共産党により支配される中華人民共和国になっていました。
千九百四十五年の八月に日本がポツダム宣言を受諾して、千九百三十九年から続いていた第二次世界大戦は、漸く終結し、束の間の平和が訪れたように思いましたが、実際は、その後、アメリカとソ連との対立により、世界は大きく二分されることになりました。
「東西冷戦」という言葉は、わたしより年配の方たちにとっては、新聞を始め様々なメディアで目にした言葉であると思います。自由主義と社会主義、資本主義と共産主義といった政治・経済的対立により、世界は二つの陣営に分かれていました。
「冷戦」という言葉ですが、第二次世界大戦の最中に開発された核兵器。日本の広島と長崎に落とされた原子爆弾の想像を絶する破壊力に、核兵器を使用した戦争となる「第三次世界大戦」は、人類を滅亡に追いやる戦争として認識され、核兵器を使用しないで戦う戦争という意味が込められていました。
ただ、六十年代初頭に起きた「キューバ危機」のように、もう一歩で、世界は核兵器を使用した戦いの脅威に晒されることもありましたが、基本的には、局地戦であり、通常兵器を使用した戦争、あるいは情報戦といった様相でした。
つまり、わたしが子ども時代を過ごした千九百五十年代後半から七十年にかけての日本の国際的環境は、現在のように安穏としたものではなかったということです。
わたしの記憶の中に一枚の世界地図があります。その世界地図は、それぞれの国々を三つの色に分けていました。一つは赤。それはソ連や中華人民共和国といった社会主義国で、ユーラシア大陸の大部分を真っ赤な色で染めていました。
もう一つは青。アメリカやイギリスそして日本など自由主義国で、アメリカ大陸やヨーロッパの西半分を染めていました。三色目は白。それはアフリカ大陸やインドといった国々で、当時は「第三世界」と呼ばれていました。ただ、この白色の国々は、経済的な開発が遅れており、赤陣営と青陣営の陣取り合戦の草刈り場といった様相を呈していました。
その世界地図では、日本の周辺は朝鮮半島の南半分にある大韓民国を除いて、真っ赤な壁が立ちふさがっているように見えました。ソ連、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、東アジアに面する国々は、真っ赤な色に染まり、大韓民国と日本がその防波堤として存在していますが、相手方の圧倒的な大きさに比較して、なにか頼りなげな様子に見えました。
そういう記憶に比較すると、現代は全く様相を一変しています。赤色の総本山であった社会主義国ソ連は崩壊し、ロシアという国に代わっており、資本主義経済と選挙による国家運営がなされています。
また、中国は、中国共産党が運営する国家という体裁を遺しながら、経済的には資本主義経済を導入し、世界の工場として機能し、世界経済に占める重要さでは、アメリカと肩を並べる程の成長ぶりを見せています。
唯一、変わっていないのは朝鮮民主主義人民共和国で、世襲制による支配者交代と軍事優先の国家体制のため、経済発展もままならず、世界最貧国の一つに数えられる状態ですが、核兵器使用を匂わせて、冒険主義的外交で、東アジアの平和を乱しているといった状況です。
ただ、北朝鮮の脅威は、軍事的には非常に小さなもので、現在の金正恩体制が、なにかのきっかけで崩壊すれば、その脅威も解消されるといったレベルです。
こうして、改めて日本を取り巻く状況を冷静に眺めて見るなら、わたしが子ども時代に存在した厳しい対立構造は消滅し、特に、中国においては、経済に関して、もう切っても切れない重要なパートナーであることは否定できない事実ということです。
正直なところ、「東西冷戦」の時代は永遠に続くとわたしは思っていました。六十年代当時のハリウッド映画では、東側のスパイの暗躍を阻止すヒーローとして007が人気でした。
更に、国外ではベトナム戦争が勃発し、当時は、「ドミノ理論」という言葉が盛んに使用されていました。一つの国が社会主義国に変わると、その隣国の国々も多大な影響を受け、社会主義国に変わっていくというものでした。
まさに、「ドミノ」の牌を並べ、その一つを倒すと、並べられた牌が次から次へと倒れていくという遊びのように、政治革命が伝搬していくから、その元を断たなくてはならないという理論でした。
それにより、インドシナ半島では、アメリカを中心にした資本主義国家とソ連・中華人民共和国を中心にした社会主義国家との間で激しい局地戦が戦われました。
日本の国内に目を向けると、千九百六十年のアメリカとの間の安保条約の締結により、それを阻止しようとして活動した大学生や労働者を中心とした政治運動は、それまでの日本共産党の指導を離脱し、反代々木(日本共産党の本部が東京の代々木にあったことで)勢力として、日本にも社会主義革命を起こそうと激しさを増していました。
そして、正統性の無いベトナム戦争へ介入し、国家の威信を賭けて戦争に前のめりとなっていったアメリカへの批判は、それを後方で支援する日本政府への批判と重なり、「ベトナムに平和を」といったスローガンの「べ平連」など市民団体も含め、日本の若い世代の政治活動は活発化していました。
そういう意味で、当時、現在の「安保関連法案」で審議されている「集団的自衛権」の行使ということが、議論されていたなら、まさに、直面するベトナム戦争に、日本としてどうすべきなのかというシリアスな問題になったことと思います。
しかし、幸いなことに、その当時の日本政府は、憲法九条を盾にして、日本の自衛隊がベトナム戦争に行くといった事態を回避することとなりました。
一方、大韓民国では、アメリカ軍との集団的自衛権という名目の下、韓国の正規軍がベトナム戦争に参戦し、その中で戦死した兵士たちも数多くいたようです。
わたしが思うに、もし、「集団的自衛権」に関して議論されるのであるなら、多分、このベトナム戦争を巡ってのこの時以外になかったのではないでしょうか。
それは、インドシナ半島が共産化されることで、当時、防衛問題として大きくクローズアップされた「マラッカ海峡防衛」ということが、現実味を帯びてくることになったのでした。
中東からの石油に現在以上に依存していた日本にとって、インドシナ半島が共産化され、南シナ海や東シナ海を安全に航行できなくなるということは、まさに国家的な安全保障問題だったのでした。
しかし、その時にアメリカ軍からも日本政府からも「集団的自衛権」の発動という議論はありませんでした。その結果、最大の危機を乗り切った日本は、その後も武力を使用することなく、憲法九条の下に平和な繁栄を謳歌出来たのでした。
さて、こういう過去の歴史を振り返ってみて、現在は、どれほどの危機が存在しているのでしょうか?確かに、北朝鮮には危ない側面もありますが、当時に比較すると兵器なども含め、余りにも旧態依然とした装備品の軍隊は、取るに足らぬと切り捨てても良いように思います。(八月に中立地帯での地雷爆発による韓国兵の負傷をきっかけに大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との間で生じた緊張関係は、後者の謝罪ということで解決しました。この理由は、最早朝鮮民主主義人民共和国の兵力が、大韓民国の兵力と比較して、雲泥の差であることを共和国が知っていたからと考えます。ガチンコで戦えば敗北は必至ということで、体裁を重んじる共和国が謝罪に応じたことに、現在の共和国の事態の深刻さが伺われます。)
それでは、日本人が恐れている中国はどうでしょうか。彼らは、「中華思想」の持ち主であり、体面を重んじてはいますが、現在の中国の経済的発展に対して、どれだけ日本が大きな影響を及ぼしているのかということを無視して、闇雲に攻撃してくることなど、ほとんどあり得ない夢物語に思えます。
前にも書きましたわたしが子ども時代の日中関係は、隣国でありながら、政治的だけでなく経済的にも全く接合点のない関係でした。しかし、現在は全く違っています。互いにそれぞれの国を無視できない、いや、無くなれば次の日から経済面で多大な問題が生ずるほど緊密かつ相互依存の状態なのです。
五年ほど前に尖閣諸島を巡って、中国国内で大きな反日デモが起こり、日本の企業や日本の製品がボイコットされる事態がありましたが、それで損をしたのは、日本ではなく中国人であることに彼らは気づきました。
それ以降、今年の「抗日七十年」においても、かつてのように大きなデモや反日的な言説は、中国本土から聞こえてきません。それどころか、日本への中国人による「爆買いツアー」は、一向に衰えることなく、多くの中国人が日本を訪れているのです。
こういう現状を見るにつけ、一体全体、日本の周辺の「危機的状況」とは、なにを指し示すのだろうかと考えてしまいます。わたしの子どもの頃のシリアスな国際情勢に比較して、実に、牧歌的な光景が目の前に出現しているのです。
正直なところ、わたしより年配の方たちの「危機感」は、なにか偏った思想を喧伝するマスコミが作り出した妄想を一方的に信じているようにしか思えないのです。
勿論、中国が尖閣諸島周辺に進出していることは否定しませんが、六十年代から七十年代には、北朝鮮の工作員が日本各所に侵入し、日本人を拉致する、韓国の大統領候補だった金大中氏が、日本のホテルから韓国CIAに拉致され、強制的に韓国で移送されたといった事件に比較すれば、全く取るに足らぬ問題に思えてなりません。
その時代、いま危機感を表明している方たちは、どんな気持ちで暮らしていのでしょうか?多分、日々の仕事に追われて、そんな国際情勢について考える余裕もなかったとおっしゃるのでしょうか。
つまり、漸く暇になったから、改めて周囲を見回してみたら、日本の周辺は危機的状況であるということに気が付いたということでしょうか。
いずれにしても、あの厳しい国際環境の中でも、憲法九条により個別的自衛権のみで、平和を護って来た日本において、それよりも厳しくない国際環境で「集団的自衛権」による国防が必要なのか、わたしには疑問に思えてなりません。
そして、そういう妄想に囚われている方たちは、多分、個人的に韓国人、中国人といった人たちと触れ合ったことのない人たちに思えます。
実際に、韓国人、中国人と会って、話をすることで、それまでは恐怖の対象だったものが、全く違う、友好的で穏やかな存在であることに気が付くのではないでしょうか。
見たことがないこと、無知であることは、人間の心の中に恐怖とそれに伴う憎悪の感情を惹起させます。更に、それがエスカレートして行けば、相手の存在を抹殺しても当然と言った考えに及びます。
それを心の中に生じさせないためにも、互いに良く知り合い、理解し合い、それぞれの立場を尊重し合うことが必要なのだと思います。「集団的自衛権」ではなく、「集団的相互理解」こそ、日本だけでなく、世界の平和を守るキイワードに思えます。
(了)
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