浅田さんの論文=いくつか浅田さんの論点で、気になることを書きたいと思います。
まず、戦争拡大は軍部の独走であり、国民は間違った報道によって欺かれていた、という解釈に多少疑問があります。例えば、南満州鉄道の権益が、中国側による他の鉄道路線の敷設によって阻害されようとしたとき、国民の多くが、中国を攻めるべきと考えていたようです。日中戦争は、基本的に、朝鮮併合から中国東北部併合へと欲望を膨らまし続けた日本社会全体に責任があるように思います。
中国脅威論について、わたしは、日本政府が中国に対して、中国が納得するような謝罪や対応策を充分とっていないことに、最大の背景があると感じます。靖国問題に象徴されますが、日中戦争を正当化したり、なにを反省すべきか国民はなにも理解していない状況が続いていると思います。ドイツやフランスのように、戦争をしても、その後で互いに納得しあえるような関係が、全く築かれていません。こうした不信感を互いにもっているなかで、軍事大国化する中国に脅威を感ずるのは、ある意味で必然のことではないかと感じます。
それから個人レベルでの理解が大切だという点ですが、昨年、NHKから「マイケル・サンデルの白熱教室 日中韓の未来の話をしよう」という番組が放映されました。三国のかなり優秀な若者を集めたようでしたが、個人レベルでの理解を深めることは可能だ、という結論は出ているようでしたが、本当に、互いに許し合えるような理解まで、それで深まるのかという点については、やや暗澹たる思いを感じました。
また中国脅威論に戻りますが、これには米国の意向がかなり反映されているように感じます。米国は、一緒にやっていこうとする人には、オープンで寛容ですが、一緒にやっていけないと判断した相手には、かなり徹底して排除の態度をとる傾向があるように感じます。本来、日本は、中国や米国の文化にも親しんでいて、相互の架け橋になる立場にあるように思いますが、今の日本のスタンスには、そうした気骨があるように感じられないのがたいへん残念だと思います。
薗部さんの論文=次のような記述に、薗部さんの抽象絵画への思いを、垣間見せていただいたような気がしました。
・しかし抽象絵画は目下開拓中で発展の途上である。まだまだ未知数だ。それだけではなく、抽象絵画には西洋とか東洋という区別も具象絵画ほどはっきりしていない、とも思えた。
・しかしとにかく抽象絵画には東洋とか西洋とかの区別もあいまいだ。とにかく物の外観がないのだから。〜しかしここでは対象物としての事物よりも人間の方に…その内面の方へ目が向けられているので、そして人間の内面には、あるいは人間の本質には東洋も西洋もないので……だからそこに……自分に根差して一から始めれば、たとえささやかなものでも、自分にそった何かができるのではないか、と思えたのであった。
・吉田秀和は、臼井氏のものを読んでいて気になるのは、やはり抽象絵画も具象絵画も内部の充溢を必要としているにもかかわらず、〜
・そういえば、わたし自身も内部の充溢が先にあって抽象絵画を描きはじめた…あるいは描いていたのではなかった。むしろ抽象的な造形要素…線や面や色…を触手として内面にむかい、むしろ内部の充溢を探し求めながら描いていたように思う。造形的触手…絵の具や筆によって武装?しているとはいえ、内部に目を向けると、そこは充溢どころかむしろ混沌と混乱のきわみであった。
・現代の抽象芸術はヒューマニズムを何らかの意味で含んでいなければならない。それなら「ヒューマニズムを通り、それを含んだ上での抽象的な表現ができるかどうか、これが第一の問題である。〜その抽象的な手段で人間的なものを強く表現できるだろうか。」と疑問を提示し、〜
私は、人間の進化の歴史は、人間の客観能力を高めてきた歴史だ、と考えています。この客観ですが、人間という生きもの以外に向けられるときは、科学に象徴されるように、かなりの成功をおさめていると思います。しかし、人間自身や人間のおりなす社会全体を客観することは、うまくいっていないとも思います。それから、人間を徹底的に客観するといったいなにが残るのか、という深い疑問にぶつかります。抽象は、客観を通して、無駄なもの、本質的ではないものをそぎ落としていってできるものだと考えれば同じ問いではないかと思います。客観することは人間の本質であり、不可欠な能力だと思うと同時に、人間自身を徹底して客観した場合にみえてくるものとは一体何なのかが、不可解という不思議な矛盾の世界にぶつかります。ヒューマニズムとはなにか、という問いが問われているようにも感じます。
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