今年は、戦後七十年という節目の年ということで、戦争に関しての特集や話題が、いつもの年よりも多くマスコミに取り上げられました。
その中でも、ユネスコが制定する「記憶遺産」に関して人々の耳目が集まりました。それは、日本がユネスコに申請し、新たに記憶遺産として登録されたシベリア抑留に関して『舞鶴への生還 1945−1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』と中国が申請し新たに認定された『南京事件の記録』についてです。
どちらも今年新たに認定されたものですが、申請した国は日本と中国ですが、どちらの記憶にも日本が大きく関わっているのです。日本が申請したシベリア抑留については当然ですが、中国が申請した南京事件を引き起こしたのも日本だったということです。
そして、このユネスコの決定に対して、日本政府は『南京事件の記録』が、史実と異なっており、それを「記憶遺産」として、ユネスコが認めることに納得できないと強い抗議の姿勢を示しました。
更に、ユネスコに運営の補助金として出している日本の負担分を、一時的に凍結し、支払わない措置を取るとまで、強い抗議の姿勢を世界に発信したのでした。
さて、日本政府の抗議の内容ですが、中国が申請した『南京事件の記録』が、史実とは異なっているということです。その中でも、虐殺されたとする人間の数が全く異なっているというものでした。
つまり、事件そのものは起きたが、そこで行われた残虐行為で亡くなった人間の数は、もっと少なかった。だから、認定するなら、その数字を使うべきというものでした。
その根拠として、日本の大学教授が研究し、その成果を発表した書物のデーターこそが、正しい数字であり、今回認定されたものは、ねつ造されたものであり、それをユネスコが認定したことは、誠に遺憾であるという趣旨でした。
国際機関や国際会議の席上で、余り激しく自己主張をすることがなかった日本にしては、今回の抗議は、極めて珍しい対応であり、そのことについて国内でも反響を呼び起こしました。
政府の方針に賛成の意を表する方もいれば、反対の意を表する方もおり、最終的には、文部科学大臣が、認定にあたっての公平性を考慮して欲しいとユネスコに申し入れを行い、ユネスコ側も、今後は配慮するという声明を出すことで、騒動は決着しました。
さて、今回の二つの「記憶遺産」ですが、日本にとって、自らが加担した戦争での出来事ですが、全く正反対の立場に立つものでした。まず、シベリア抑留は、「被害者」としての立場に立つものです。そして、南京事件は、「加害者」としての立場に立つものでした。
その中で、日本が加害者側に立つ、南京事件について、日本政府の主張と中国の主張が違うということでの抗議が行われましたが、被害者側に立つシベリア抑留については、現在のロシアからの抗議は無かったようです。
ただ、ロシアにしても加害者側にとっては不名誉なことであり、出来れば、世界の人々の記憶に残るようなことは避けたいといった思惑はあったと思いますが、日本政府とは違う対応となりました。
そして、ロシアに関して言うと、昨年のクリミア併合にしろ、現在大きな問題となっているシリアの内戦にしろ、自分の主張を声高に叫び、例え、近隣諸国との関係が拗れることがあったとしても、その主張を変えることのない国です。
つまり、今回の記憶遺産に関しても、国際社会において不利益が生ずるようであれば、断固抗議の姿勢を示し、強硬な態度を取って来ることは間違いありません。
でも、それを行わなかったということは、現在のロシアにとって、シベリア抑留の記憶遺産は、特に、問題とすべき大事件ではなかったということになります。
一方、日本の場合は違っていました。ただ、これが国際的な問題として抗議したのかと言うと、それは少々違っているように思います。日本の場合は、国内問題としての面が大きいように思います。
それは、これまでも南京事件は無かったといった論調を含め、中国が主張する南京事に一貫して否定してきた経緯があります。極端な場合は、事件そのものを否定することもあれば、否定はしないまでも非常に過小評価してきた経緯がありました。
実際、戦場においては、全体を俯瞰して把握することが難しいこともあり、同じ場面を複数の人間が目撃したことで、犠牲者の数が増えると言ったこともあるわけですが、事件そのものを無いものとすることは、正直無謀に思えます。
ただ、そういう風に思いたいというのは、加害者側の心境としては理解できないことではありません。裁判などでも、加害者である被告側は、自分の犯した罪を、出来るだけ過小なものと主張し、量刑を軽くしてもらうように計らうものです。
だから、日本の軍隊が起こした戦争犯罪についても、出来る限り、過小評価して欲しいというのが、加害者側の偽らざる気持ちなのでしょう。
しかし、それに対して被害を受けた方は全く反対です。如何にひどい目に遭ったのか、どれほど残虐な行為が行われたかを、これでもかというくらいに主張します。
何よりも、現場で目撃したという実体験に基づいての主張ですから、第三者の人間が簡単に否定できない重みがあります。更に、体験した者でしか分からない生々しい記憶が、それにリアリティを与えるのです。
このために、こういった事件を前にすると、加害者側の主張と被害者側の主張は、永遠に交わることのない平行線となり、互いに激しく反発し合うことになるのです。
それが、南京事件の場合では、それにより殺された人間の数ということになります。ただ、当時は南京市が戦場となっており、そこで生じた事件という性格上、それをきちんと統計にして残すという機関はありませんでした。
更に、死体は腐敗し、伝染病などを引き起こすとして、南京市を占領した日本軍は、機械的に死体を処理していったという経緯もありました。
つまり、混乱した状況の中で、きちんとした統計が行われぬままに、数字だけが独り歩きをしたということでした。だから、日本政府の主張する死者の数字に正当性があり、中国の数字が間違っているとか、反対に中国の数字が正しく、日本の主張する数字が間違っているかの議論は不毛な水掛け論に終始するしかないのです。
大事なことは、どちらの主張する数字であっても、日本軍が中国大陸に武力でもって侵攻し、そこで民間人を含めて多くの人たちが殺されたことへの加害者としての反省と哀悼の思いをわたしたち日本人が持っているかどうかということです。
そういう意味では、今回の政府の抗議は違和感がありました。勿論、これまで主張してきたものを止める必要はありませんが、自分たちの主張を認めなかったからと言って、国際機関であるユネスコへの出資金を出さないというやり方は、少々子供じみた振る舞いに思われました。
兵糧攻めという言葉がありますが、その中には、なにか卑怯な、正々堂々とした戦いではないニュアンスが隠されています。相手の弱みに付け込んでの勝利というネガティーブな響きがあるのです。
多分、この日本の声明を耳にした多くの国の人々は、そこに今書いて来たようなニュアンスを感じ取ったのではなかったでしょうか?
さて、現在生きている戦前生まれの日本人にとって七十年前に終わった戦争は、加害者として関わったのか、それとも被害者として関わったのかというと、圧倒的に被害者として関わった人が多いことと思います。
わたしのように戦後に生まれた人間は、戦争に関わると言った体験も無く、あくまでも両親から聞いた話や書物等で読んだ話しか知らず、加害者でも無く、被害者でも無いといった分類になります。
その中で、戦争を体験した人たち、特に、戦場を体験した人たちは高齢によりほとんど存命者がいなくなった現代では、戦争体験と言えば、ほとんど子どもの頃に体験した被害者としての戦争体験と言っても良いように思います。
代表的なものは、空襲により、家を焼かれたり、家族を亡くしたり、友達を亡くしたりといった体験です。その中でも、広島、長崎の原爆体験は衝撃的な体験として語り継がれています。
現在、八月の広島、長崎の原爆投下日の辺りで、小学校や中学校では平和教育として、戦争について考える授業などを行っています。戦争で家を焼かれた人や家族を亡くした人の話を聞き、平和の大切さに心を馳せるといったことが行われています。
または、戦時中に、動物園で飼育されていた動物たちが、空襲により施設が破壊され野放しになると危険だということで、薬でもって殺されたといった実話なども取り上げられています。
いずれの場合も、いかに戦争は悲惨なものであったかということを、戦争を知らない世代に伝えるということでは、大切な教育の一環とわたしも考えています。
しかし、戦争の被害者としての立場だけを強調するのは、どうにもわたしには納得いかないのです。何故なら、戦争は台風や地震のような災害とは根本的に異なったものです。
二千十一年の三月に東北を襲った大地震により発生した津波で、多くの方が亡くなられました。三万人を超える犠牲者の数は、千九百四十五年三月の東京大空襲の際の犠牲者に匹敵するものでした。
でも、亡くなった犠牲者の数は同じですが、その中身は全く異なったものなのです。津波は天災であり、人為的なものではありません。一方、東京大空襲は人為的なものであり、天災ではないのです。
地震による津波は、どんなに堤防を高くしても、場合によってはそれを乗り越え、一切合切のものを流し去る災害なのです。人間の力ではどうすることも出来ない、地球規模の災害なのです。
ところが、東京大空襲は違っていました。日本軍がアメリカとの無謀な戦いを回避し、平和に外交交渉で問題を解決しようとしていたら、決して生ずることのなかった事件だったのです。
つまり、人間の知恵や努力で回避できた事件だったのです。しかし、そのために三万人を超える人命が犠牲になりました。それは勿論戦争の被害者であることは間違えありませんが、見方を変えれば、加害者故に生じた被害・・つまり、地震の津波で亡くなった方のような純粋被害とは言えないものだったように思います。
マントルが動き、そのマントルに乗っている大地が大きく揺れ、それが津波を引き起こし、多くの犠牲者が生まれたということは、この地球という物体の上で生きている人間にとっては、絶対に回避できない出来事なのです。
ただ、それは一つの確率であり、いつ、誰がその犠牲になるかは分からない神のみぞ知る出来事なのです。それに対して、戦争は全く違っています。戦争は人間が引き起こした事件であり、問題解決のための幾つかの選択肢の一つに過ぎません。
ところが、わたしたち日本人は、いつの間にか、戦争をまるで天災のように考えるようになっています。その一番良い例は、「敗戦」と言わずに「終戦」と呼び変えたところです。
「戦争に敗けた」のではなく「戦争が終わった」という認識は、戦争を台風や地震のような天災と考えたいと思うところから故意に選んだ言葉のせいで生じた結果に思えます。
「敗けた」という言葉は、必ず「誰が誰に敗けた」ということが意識されることになります。しかし、「終わった」という言葉は、「授業が終わった」というように時間が経過してある結果にたどり着いたというものです。つまり、自分が主体になることはありません。
「敗けた」ということであれば、「日本はアメリカに敗けた」「日本は中国に敗けた」「日本はソ連に敗けた」というように、日本が主体として常に意識されます。
でも、「終わった」ということであれば、「戦争」が主語となり、自分が主体になることはありません。更に、「日本がアメリカに敗けた」という言葉には、「日本人がアメリカ人に敗けた」という事実が隠されています。同じように中国人にもロシア人にも敗けたという意味が隠されているのです。
ところが、「戦争が終わった」という言葉には、そういう意味は隠されていません。単純に時間の経過により戦争という状態が終わったということなのです。
まるで、地震が起き、その後に起きた津波が沿岸部を襲い、多くのものが流されたが、やがて、津波は収まり、水は引いていき、津波は終わったというのと同じです。
あの東北大地震の時に、その惨状を目の当たりにした人が、「まるで爆弾に吹きとばされた戦場のような有様だった」とコメントしています。
それは、アメリカのB二十九爆撃機によって焼夷弾を落とされ、炎により廃墟と化した太平洋戦争中の日本の都市の有様を、その時に彷彿したということでしょうか。
確かに、状況は似ていますが、原因は全く異なったものです。しかし、日本人の頭の中には、戦争の被害も津波の被害も同列に捉えようとする思考が働いているように思えます。
それは、わたしたち日本人が、戦後、自分たちは戦争の被害者であると思い込んできたことによるものなのです。本来なら、わたしたちは被害者であると同時に加害者でもありました。
中国大陸に軍隊を送り込み、そこで戦争を遂行したことについての全責任は日本にあるわけです。ところが、その責任を、戦争が敗北した段階で、有耶無耶にしてしまったのです。
一億総懺悔という言葉により、国民全員で反省するという姿勢を見せながら、実は、誰一人戦争責任を自ら取ろうとはしませんでした。東京裁判での戦争責任による軍人や政治家の死刑判決も、戦勝国による裁判の結果であり、日本人自らが裁いた結果ではなかったのでした。
実は、ここに大きな問題があったのです。日本人自らが、戦争責任を徹底的に追及して行けば、当然、加害者として一人一人の責任が問われることになったはずでした。しかし、一億総懺悔などと国民全員が反省しなくてはいけない、更には、悪いのは無謀な戦争を起こした軍人たちであるといったように問題を矮小化し、責任追及の手を自ら放棄してしまったことにあるとわたしは考えています。
その結果、時の経過とともに日本国民は戦争の被害者であり、無謀な戦争を引き起こした軍人たちの犠牲者となったのだという論調が主流を占めるようになったのでした。
それは本当でしょうか?国民は軍部に騙された、現実を知らされなかったなどという説明は正しいのでしょうか?わたしには、そうとは思えません。
何故なら、大多数の国民は、満州事変、それに続く、日中戦争を全面的に支持していたという事実がありました。勝利を収めた軍事作戦に、国内では提灯行列を行い祝ったことは一度や二度ではありませんでした。
つまり、その当時生きていた日本人は、日本軍の中国大陸侵攻作戦を全面的に支持し、中国を朝鮮のように植民地化することを望んでいたということでした。
ところが、アメリカとの戦争に敗北し、全てを失った瞬間から、実は、わたしたちは軍部に騙されて、こういう無謀な戦争に引きずり込まれた犠牲者であると主張し始めたのでした。
確かに、アメリカとの戦争においては、敗北したにも関わらず、勝利を収めたといった嘘の大本営発表を連発し、国民の目を欺いたことは間違いありませんが、しかし、それ以前の中国大陸での戦いについては、ほぼ正しい報道が行われていました。(軍事機密などで公表できない部分は除いて)
だから、全ての国民が騙され、無謀な戦争に引きずり込まれたという説明は、全く正しくありません。責任を擦り付けられた軍部自身が、戦後消滅したため、それに対しての反論も出来ないことを良いことに、責任転嫁をしたといっても過言ではありません。
その結果、先にも書きましたように、日本人の頭の中で、自分たちは戦争の加害者ではなく被害者であるという意識が強く醸成され、それが現在までも続いているということです。
そして、中国や韓国から、侵略戦争への反省が足りないと批判されると、「こっちだって被害者なのだ。いつまで謝らなくてはならないのだ」といった反発を覚えてしまうのです。
確かに、わたしたちは空襲や原爆により多くの犠牲者を出してはいます。しかし、沖縄を除いて、敵軍が上陸し、そこで地上戦が戦われたことはありませんでした。更に、これはアメリカ軍が日本に侵略戦争を仕掛けた結果でもありませんでした。
それに対して、中国本土、朝鮮半島では地上戦が行われ、多くの犠牲者が生まれています。これは日本具の侵略戦争の結果です。つまり、犠牲になったという結果は同じですが、原因が全く異なっているということです。
アメリカ軍の日本本土の空襲と原爆投下は、敗北が決定的な状況でありながら、抵抗を止めず、自軍の兵士が傷つけられることを阻止するための手段でした。
勿論、非戦闘員を大量に虐殺する行為は許されるものではありませんが、戦争終結のための作戦としては有効なものだったと言うほかありません。
この原因を作っていたのは、無謀な戦争を遂行し、初戦の戦果に舞い上がり、統一的な戦略もないままに、ずるずると敗北を重ね、誰一人、敗北の責任を取らぬまま、敗北を垂れ流した陸軍、海軍の指導者達でした。
中国本土、朝鮮半島の犠牲者は、その原因が日本軍の侵略戦争によるものとはっきりした原因がある一方、日本本土の犠牲者は、アメリカ軍というより、自国の指導者の無能に原因があったということでした。
しかし、戦後、大多数の日本人は、この事実を隠蔽してきました。何故なら、それを認めると、自身の責任も問われるからです。そういう無能な指導者を頭に抱き、無謀な戦争にまい進した過去の自分に向き合うことを嫌ったのでした。
そして、過去の厳しい現実と向き合うことなく、自己責任を放棄したまま、戦後の社会を築いていったことで、わたしたちは加害者であることを忘れ、ひたすら被害者であることを強調するようになったのです。
これは、イデオロギーとは関係ありませんでした。左翼も右翼も、どちらも加害者であるより被害者であるといったスタンスを取ってきました。
ただ、違うところは、右翼は「犠牲者を多く出したが、あれは自衛のための戦争で戦争遂行は正しかった」と主張しているのに対して、左翼は「あれは侵略戦争であり、それにより日本人も含め多くのアジアの人々が犠牲になった」と主張しているところです。どちらも加害者という視点は欠落しています。
さて。これまで書いてきましたように、戦後の日本人は、かつての戦争を災害のように感じ、それに巻き込まれた自分たちは被害者であったという考え方を正しいと信じてきました。
しかし、この被害者であるという立場に立ち続ける限り、中国や韓国の人々との意識の差は永久に埋まらないように感じています。被害者であると共に、自分たちは加害者であった、その加害者の責任を背負いながら、実は、被害者でもあったのだということを認めた時に、初めてかの国の人々と連帯の絆を持つことが可能となるのではないでしょうか。
その時、漸く、日本人は敗戦を乗り越えて、新しい第一歩を踏み出すことが出来るのではないでしょうか。
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