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第129号

2015年12月15日

【編集あとがき】

 

浅田さんの論文=加害者か被害者かという単純な議論にしてしまうと、なかなか難しい面があるように感じます。

第二次世界大戦は、世界不況を端緒として、経済ブロック化が進むなかで、植民地をたくさんもっていた国ともたなかった国同志の対立という見方もあるようです。

日本も、欧米やロシアなどを脅威、競争相手と捉えると、朝鮮半島や中国大陸への進出ということも、ある程度やむをえないという感情があったのだと思います。

客観的な見方として、そうした侵略行為をどのようにみるかという点については、石橋湛山をはじめ、多様な意見があったことも事実です。

しかし、ときの政府は、一部の声だかにいさましい主張をする人々を抑えるだけの抑止力を欠いていた(近衛文麿首相の人格も影響したように感じます。敗戦とともに自決しましたが。)ので、山本五十六連合艦隊司令長官のように、仕方ないので、短期決戦でなんとか収拾を計るという覚悟で、太平洋戦争に突入せざるをえないような雰囲気があったことも認めざるをえないようです。

今日、景気がよくないと政府が財政出動を行います。景気浮揚のため、公共事業などに多額の予算をつぎ込む訳ですが、その財源は赤字国債でまかないます。はじめて赤字国債を発行して対応したときはうまくいったせいか、その後、この国債発行の対策は常態化し、いつのまにか、一千兆円を超える借金を抱えるようになり、毎年、国債を発行することを前提に予算が作られるようになりました。補助金をもらう人は、それを利権のように考えるようになり、社会保障費の恩恵を受ける人は、自分の受ける給付が減額されるのは困ると主張します。子孫の使える資金を先取りするような行為が、客観的にみて正しいのか、よく見極める必要があると思いますが、こうした惰性的行為が、将来的にどのような結果をもたらすか、だれが責任をもって対処するのでしょうか。目先の都合、満足のための無責任は、いまでも続いているように感じてなりません。

 

 薗部さんの論文=芸術というものは、人間のもつ欲望と客観能力を総合的に表現したものを身近に置くことによって、日々の自分たちの在り方を反省するとっかかりにするという意味があったように思います。

 第一次世界大戦や第二次世界大戦の大量殺戮の体験を経て、人間の残酷な側面が過度に顕在化したあと、人間の欲望を直視するのではなく、高度に高尚化された抽象絵画に注目が集まったような気がします。涅槃やさとりの世界は、欲望が高度に抽象化された世界なのではないでしょうか。深い山奥の森林のなかの寺院に立てこもってもいい訳ですが,それでは日常生活がなりたちません。

 人間の欲望と客観能力が、具象画にしても抽象画にしても、正面から問われるような状況であればいいのだと思いますが、人間の欲望は刺激され続け、客観的にどうなるかは目先のことしか注目されないような社会風潮のなかでは、絵画芸術本来の反省材料の提供という役割そのものが、ないがしろにされてしまうのだろうか、などと感じられます。なにか欲望と客観能力が共振状態に陥り、発散してしまうのではないか、という危惧すら感じられますが、今後、どうなっていくのか気がかりです。



「負けること勝つこと(85)」 浅田 和幸

「問われている絵画(120)-絵画への接近40-」 薗部 雄作

「人間の欲望と客観能力」 深瀬 久敬

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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