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第129号

2015年12月15日

「人間の欲望と客観能力」 深瀬 久敬

 

1.欲望と客観能力の基本認識

全ての生き物は、欲望と客観能力を備えているのだと思う。生きていくうえで、これらは必須のものだからである。したがって、わたしは、欲望と客観能力とは、生命原理とも呼ぶべきものであり、宇宙を構成する物質界とともに、宇宙に普遍的に存在するものなのではないか、と感ずる。

そして、人間という生き物は、この欲望と客観能力を、地球上の他の生き物に比較して突出して高度に発達させた生き物と言えるように思う。

人間の欲望と客観能力は、その発展過程において、相互作用的に強化しあい、特に、17世紀のヨーロッパで発祥した科学革命や産業革命を端緒として、爆発的に強化された。そして、今日の社会においては、これらはさらに指数関数的に相乗的におそろしいほどの勢いで高度化されつつある。欲望と客観能力とが、共振状態に入っているのではないか、と危惧されるほどである。

 

2.欲望と客観能力の今日的課題

具体的に言えば、客観能力については、宇宙物理学は宇宙全体から原子核のようなミクロの世界までを統一的に把握しようとしており、ダークマターの正体に迫る勢いである。医療分野においては、生命の設計図とも言えるDNAの解読に始まり、いまや、再生医療やゲノム編集の領域にまで踏み込もうとしている。脳の知的活動や記憶のメカニズムなども、客観的に説明される日も近いのかもしれない。また、情報科学技術の分野では、インターネット、CPU能力、記憶装置技術、クラウド技術、人工知能技術など、眼を見張る勢いで私たちの身の回りを変革しつつある。IoT技術などによって、わたしたちの身近な生活空間が一新される日も遠いことではないような気もする。

 一方、欲望を実現する奔流のような勢いは、人間社会に様々な問題をもたらしている。温暖化ガスの大量の排出に伴う地球温暖化は、気候変動や水没の危機などをもたらしている。産業社会の変質は、格差を増大させ、人々の不平不満の種を撒いている。産業競争力を高めるなかで、グローバル化が進み、それがかつての歴史認識や領土などに関連する様々な摩擦を引き起し、それらが、戦争の端緒になる懸念になったり、難民やテロの脅威を増大させつつある。

 

3.科学技術を絶対視することの誤解

 エネルギー問題と食糧問題は、人間社会の基本的な課題であり、それらが、宇宙太陽光発電や再生エネルギー、人工光合成技術などによって、基本的に解決の見通しがついたとしても、人間は、その技術や設備は自分のものであり、他者には使わせないとか、自分はよりおいしい食べ物を食べたい、などの欲望を主張しあうことによって、人間同志の衝突がなくなることはない、と思う。すなわち、人間社会の問題は、科学技術の進展によって解決されることは、人間が欲望をもつ生き物である限りありえない。この辺の認識の誤解は、政治レベルにおいてもよく耳にするので、要注意だと感ずる。

 

4.欲望と客観能力の両立の仕組み

 人間は、約600万年前に誕生したと言われる猿人から、原人、旧人、新人などを経て、約20万年前に、私たちの直接の先祖であるホモサピエンスが登場し、それが、農耕牧畜や産業革命を経て、今日の私たちに到っているようである。これらの過程で、私たちは、欲望と客観能力の両方を活かすための様々な工夫を凝らしてきたのだと思う。神権政治や原罪意識を深化させるもととなるような宗教、戒律や法律や憲法のような社会の運営のための理念やルールの制定、教育制度や学問体型の整備、出版やジャーナリズムのような世論形成の仕組みの拡充などである。これらは、人間社会の文明や文化の基本をなすものであり、社会の運営基盤を構築している。

身近な日本の社会について言えば、仏教の受入れと浸透、中国の律令制度の導入、万葉集や古今和歌集などにみる和歌や俳句の伝統、儒教の導入による封建体制の理念構築、国学思想のような天皇や神道による世界観の再構成、などがあると思う。中国については、秦の始皇帝に始まる国家を統治するための官僚制度の構築も、欲望と客観能力をバランスさせる仕組みの一端とも言えるものであったと思われる。

 

5.欲望を煽ることを是とする今日の社会

 かつては、人間の欲望は、抑制されることによって、社会は安定した在り方を維持することができると考えられたように思われる。例えば、仏教においては、十二支縁起をよく観ずることを通して、悟り、涅槃の境地に至ることができると説いたのだと思う。

しかし、今日においては、逆に、人々の欲望を刺激することによって、産業が活性化し、景気がよくなり、人々は、より便利で快適な社会に生きることが可能になるという考え方に転換し、それが浸透しつつあるように思う。それはビジネスのための企業組織に止まらず、それと一体化した国家組織についても同じである。企業は利益を上げるために、需要をより喚起するような製品開発を目指し、新たな技術開発や宣伝活動を行う。そして、国家も、新しい革新的な技術開発を資金面で支援したり、公共工事や低金利の資金援助を拡大したりする。こうした結果、返済の見通しのたたないような膨大な国家財政の負担を背負うといった今日的な問題も顕在化させている。

 こうした傾向は、人間社会の安定した落ち着いた在り方を指向することよりも、なにか競争を煽るような風潮を強め、成果主義、目標管理、機能主義のような価値観が蔓延する傾向を生み出している。身の回りに、売らんかなの意図的なやらせ的な演技がはびこり、また、演技することが価値のような風潮をもたらし、個人的にはなにか強い違和感を禁じ得ない。

 

6.欲望と客観能力の一人ひとりの多様性

 私たち人間は、一人ひとりが、多様な欲望をもち、また客観能力をもっている存在なのだと思う。それらをどのように表現していくかは、一人ひとりが置かれている集団や組織の在り方に、かなり影響されるのだと思う。それらと照合させながら、私たちは、一人の人間としてなにを欲望として求めていくか、自分なりに客観した状況をもとに判断しながら生きていく、と言えるように思う。

 そうした一人ひとりの人間の表現の在り方として、集団としての国家や民族の全体をリードするような立場の人もいれば、企業組織の運営に強い権限を有する人もいれば、多様な組織の一部でやや手足的な仕事に従事する人もいれば、家族の日常生活を維持するための家事にいそしむ人もいるなど、多種多様である。すなわち、そうした人間社会のなかで、人々の欲望や客観能力の表現、発揮の仕方は千差万別と言ってよいのだと思う。かつては身分制度のようなしがらみによって、そうした自己表現が制約されたりもした。また、今日においても、両親の経済状態などによって、勉学の機会が制約されたりするといった問題もあり、広く問題解決に向けた取り組みがなされるべきだと感ずる。

 

7.欲望や客観能力の善悪判断の不可性

 こうしたそれぞれの自己表現のなかで、人間はそれぞれの立場や既得権などの身近な利害に執着する。それは、それを維持しなければ、今まで維持してきたものが崩壊し、混乱し、自らの生存も危うくするのではないか、という危惧をもつからである。こうした傾向が、人間社会の摩擦を生み出すことは否定できないと思う。しかし、ある欲望の追求が、全体の崩壊をもたらすかもしれないし、一方、その崩壊がより安定した在り方をもたらす端緒になるのかもしれない。すなわち、なにを欲望することが正しく、なにを欲望することが間違いなのか、予測し判断すること不可能なことだと思う。そういう欲望が生き物として存在する限り、そこに善悪の判断を当てはめること自体に無理があるのではないか、という気持ちになる。新たな動的平衡に移行するときには、摩擦はつきものであろう。しかし、その動的平衡の方向が間違えていたときの参加者の悲惨も痛ましい。

 

8.人間という生き物の健全性への信頼

わたしが最近思うには、私たちホモサピエンスという生き物の一人ひとりには、相当な生き物としての健全さが付与されているのではないか、という点である。欲望と客観能力を巧みにバランスさせ、一人ひとりの主体的な参加者意識を確保するような、なにか根底となるものを一人ひとりがもっているように感ずる。疎外感、横暴、いじめなどがはびこっていることも否定はできない。しかし、人間というのは、こうした軋轢を経過するなかで、蝶のように、卵、幼虫、さなぎ、成虫のように完全変態のような過程を経て、いずれ宇宙に飛びたっていくような存在なのかもしれない、などと感ずる。楽観的すぎかもしれないが。



「負けること勝つこと(85)」 浅田 和幸

「問われている絵画(120)-絵画への接近40-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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