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第131号

2016年6月22日

「負けること勝つこと(87)」 浅田 和幸

 

 前号の原稿を書いていました3月から3か月を経過した6月、世界は勿論の事、日本でも多くの出来事が起きました。3月には、まだ共和党の大統領候補のトランプ氏は、予備選挙での過半数を獲得していませんでしたが、現在では、過半数を獲得し、この秋のアメリカ大統領選では、民主党のヒラリー氏と大統領を争うことになっています。

 当初は、泡まつ候補として名指されてきたトランプ氏が、アメリカ合衆国の大統領になるという可能性も否定できない状況になっています。

 そして、その理由が、これまでアメリカの政治を主導してきた既存のエスタブリッシュメント達の政治について、多くのアメリカ国民が不満を持ち、それとは異なった価値観や出自の政治家に期待しているということの現れのようです。

 これは、ある意味、プロの政治家の否定ということかも知れません。特に、民主党のサンダース候補など、「社会主義」や「革命」を口にしているわけで、それだけでも、従来のアメリカの政治家とは根本的に違っています。

 また、トランプ氏は、これまでなら政治家の資質として問題視され、否定されるような過激な発言を連発することで、逆に、上辺ばかりの綺麗ごとしか言ってこなかった既存の政治家の無能ぶりを浮き上がらせる作戦を取っています。

 いずれにしても、日本だけでなく、世界各地で、第二次世界大戦により確立された戦後体制というものに綻びが生じ、その綻びから人々の様々な不満や怒りが零れ落ちているということのようです。

 日本においてもこの傾向は変わっていません。戦争を体験した世代が少なくなり、戦争それ自身の記憶が風化していく中、敗戦時に日本人の大多数が心に誓った誓いも、忘れられたり、消滅したりして行っているという状況にあります。

 その中でも、伊勢志摩サミットを終えた六月一日、安倍総理が、来年四月に二%増税する予定の消費税について、増税時期を二年半再延長し、二千十九年の十月にすると表明した記者会見の中での言葉でした。

 安倍総理は、前回衆議院を解散し、消費税増税を先送りしたいとして国民の信を問うとした際に、「再延長は絶対にあり得ない」と述べたことについて、「新しい選択」を行ったという表現で、その自らの言葉について謝罪を一切行いませんでした。

 こういう場合、一般社会においては、「以前消費税を二%上げると判断した時とは情勢が変化し、現時点での判断では、消費税を上げることは出来ないので、再延長させていただきたい。以前のわたしの判断に誤りがあったことをここで謝罪したい」といった言葉を発するのが当然の態度に思います。

 ところが、安倍総理は、全く自らの責任について言及することなく、「新しい選択」をしたと言うのです。なるほど、「新しい選択」であることは間違えありませんが、その前に出来なかった事実を反省し、謝罪した上で、話すべき言葉ではないでしょうか。

 これを聞いた時に、わたしは「転戦」という言葉を思い出していました。これは、太平洋戦争中に、マスコミに軍部が発表した言葉です。

 アメリカ軍との戦闘に敗北し、撤退した軍隊を、「敗北・撤退」とは言わずに、「転戦」したと表現したのです。確かに、軍隊は移動しているわけですから、その表現が間違っているとは言えません。

 しかし、その移動の原因が敗北によってなのか、それとも勝利によってなのかは、全く異なったものになります。ところが、軍部の発表は、原因を示さずに、ただ、移動した事実を述べるだけに終始したのでした。

 だから、国内にいた国民の大多数は、日本軍は連戦連勝しているものと誤解していました。何故なら、一度も敗北したという報道がされていないわけですから、誰だってそう思ってしまいます。

 それが、いつの間にか、制空権を失った日本の空に、B二九が飛来して、焼夷弾や爆弾を投下して、多くの町で、爆撃と火災により人命が失われることになっても、まだ、日本の国民は、アメリカ軍との戦いに勝利すると信じていたのでした。

 どうでしょうか。ここまで書いて来た太平洋戦争中の軍部の「転戦」という言葉と、今回の安倍総理の「新しい選択」という言葉、その背後にある思想が、わたしには同じように思えるのです。

 どちらも自らの非を認めない。その上、自らを正当化しようとする。更に、それを他人に伝える時に、自らの都合の良い言葉で伝えるといったところです。

 しかし、太平洋戦争に敗北した後、日本国民は、戦時中のこういった報道管制、自分にとって都合の良いことしか発表しない政府の在り方について、厳しく批判し、再び、こういった愚行が繰り返されないようにと、新たな制度を作ったのではなかったでしょうか。

 ところが、敗戦後七十年を経過する内に、当初に抱いていた理念や理想も消滅し、また、再び同じ愚行を繰り返すことになったのでしょうか。

 さて、昨年は戦後七十年ということで、太平洋戦争に関してのさまざまな書籍が刊行され、わたしもその中のいくつかを手に取り、読む機会を得ましたが、それを読んでいく中で、そこに書かれていることが過去の出来事ではなく、現代に生じている事実とシンクロするような気分を覚えたのでした。

 つまり、ある意味日本人は変わってはいないということです。確かに、敗戦により、日本の政治システムは大きく変わりました。でも、それを運用していく人間は、急に変わることはありません。

 だから、表面的には大きく変化したように見えますが、その中身を見てみると、表面的な変化程に変化していないことに気が付きます。考えて見れば当たり前のことです。

 戦後の日本の礎を築いて来た人たちは、戦前の教育を受け、戦前の価値観に影響を受けて来た人たちだからです。それまで、「鬼畜米英」「天皇陛下は神である」と信じ込まされて来た人たちが、敗戦の翌日に、全く新たな価値観を持つ人間に変身できるはずがありません。

 わたしを含め戦後に生まれた人間は、その経緯を当時生きていた人の言葉や文章で知るだけで、その当時生きていた日本人一人一人の心の内まで知り得るはずがありません。

 更に、その時何歳だったのか、性別はどちらなのか、どんな状況で敗戦の報を知ったのか、その後の人生の軌跡はどうだったのか、といったようなことを詳細に検討していくなら、多分、同じ価値観を共有する人間はいないと判断しても良いように思えます。

 つまり、百人いれば百通りの戦後があったということです。しかし、わたしを含め、戦後生まれの日本人は、それだけ多種多様な価値観が混在しているという想像力を持ってはいませんでした。

 だから、身近な人や知り合いの人が語る戦争や戦時中の生活、更には戦後の人生を唯一の真実として、それを通して戦争を理解しようと考えたのでした。

 わたしの父親も職業軍人として中国との戦争「日中戦争」に従軍していました。上海上陸作戦から、南京攻略と言った作戦に従軍し、負傷もしています。

 ただ、太平洋戦争になると、南方戦線には行かず、中国大陸に駐留し、戦局が厳しくなってきた昭和十九年に沖縄に移動し、その後、台湾の守備隊へと転属し、終戦を迎えました。

 その父親にとっての戦争とは、日中戦争時の経験であり、太平洋戦争時にはアメリカ兵と銃火を交えることが無かったため、アメリカ軍との戦闘経験はゼロということでした。

 更に、軍事機密ということで、太平洋戦争の各地での作戦等について知りうる立場でなかったため、全く知識はありませんでした。(逆に、子どもの頃「太平洋戦史」といった本を買ってもらい読んでいたわたしの方が父親よりも太平洋戦争には詳しかったです。)

 このように、戦争を体験した人たちでも、全くバラバラの体験をしていたため、戦後の日本を築くために、さまざまに構築された新しいシステムも、それを運用する人間の意識が変化していない以上、実は、ほとんど戦前と変わっていないといっても良い状況から出発したことを改めてわたしたちも理解する必要があります。

 これについては自衛隊に勤務し、防衛大学校の助教授を務めていた杉之尾宜生(すぎのおよしお)氏の著書「大東亜戦敗北の本質」(ちくま新書)の中に面白いエピソードを見つけました。

 その新書の百八十八頁に次のようなエピソードが書かれていました。『陸軍はもともと、敵情を確かめて戦うということをしない。話は少々それるが、私は自衛隊の偵察隊幹部として、陸軍出身の教官から指導を受けていた。そのとき、マニュアルは米軍式であったので、敵情を解明し、態勢を整えて戦うことを徹底的に教え込まれた。フォーマルにはそういう教育をされたが、ひとたび演習になるとその教官は次のようなことを言った。「諸君はアメリカ式の教育を受けていて、まことによろしくない。敵情不明は戦場の常である。敵情解明に汲々として戦機を逸するようなことがあってはならない。任務に基づき断固として攻撃しなければならない。(私はそれを聞いて「だから日本は負けたのではないか)と思ったが、遅疑逡巡して、その疑問を直接ぶつけなかったことを今でも後悔している。教官は私よりも十五歳ほど年長で、中国大陸での実戦も豊富だった。』

 長々と杉之尾氏の文章を引用させていただいたが、まさに、これが一度受けた教育や抱いた価値観が簡単に変わったりしないことの証であろうと思います。

 勿論、ここに登場する教官は悪意があるわけではありません。戦争に敗北し、アメリカ軍占領され、そのアメリカ軍の指導の下に作られた自衛隊に勤務している以上、アメリカ軍の教科書を否定するわけにはいかないことはわたしも理解できます。

 しかし、頭ではそう理解していても、気持ちの上では納得していないというのが、別にこの教官だけの問題ではなく、人間に特有の傾向なのです。

 彼が中国大陸で実際に戦い、戦果を上げて来たという事実は否定できません。だから、彼はその経験を元にして、教科書のマニュアルを否定するのでしょう。

 多分、これは何も特殊な例外では無いように思います。組織である以上、先輩や上司や教師といった指導的な人間の価値観を、新たに組織に参入してきた人間が否定することは難しいことです。

 イヤ、もしそういう暴挙に出たとしたなら、その新入りは徹底的に排除されるか、無視されるかで、彼のその組織内でのポジションはあり得ないと思われます。

 以上のように、わたしを含め戦後に生まれた日本人は、戦前と戦後は大きく変化したと思い込んでいますが、実体はそうではないことを理解できたのではないでしょうか。

 問題は、システムの表面的な変化にばかり目を向けて、そのシステムを運用する人間の変化に無関心であったことだとかんがえます。はっきり言って、システムは変わっても、運用は変わらないということです。

 もっと大胆に言えば、敗戦により日本軍は消滅しましたが、日本軍を支えて来た思想は消滅していないということです。何故なら、組織としての軍隊は消滅しましたが、そこに帰属していた個々人の軍隊的価値観は消滅していなかったということです。

 軍隊という組織が無くなったからと言って、その軍隊で育んできた価値観を持つ人間がいなくなることではありません。それどころか、そういう価値観を持った人間が、軍隊以外の組織に分散することで、その価値観は広く伝播されることになるのです。

 但し、軍隊という組織では無い以上、かつての軍隊と同様に伝播されるわけではありません。変奏曲のように、それぞれの場所で、いろいろ変化して伝播していくことになります。

 その結果、二つの極が生ずるように思えます。一つは、それを否定的に捉えるもの、もう一つは反対にそれを肯定的に捉えるものです。そして、その価値観は現実に軍隊の組織=実態が無いだけに過激な妄想を生み出していくのです。

 昨年、安保法案の改定案が国会に提出され、集団的自衛権について議論された時に、国民の間には、かつて戦前の日本が「自衛」という目的で外国を侵略していった時と同じような理論でもって肯定的に捉える人たちが見られました。

 実は、敗戦により、そういう自衛を掲げた侵略は二度と行わないことを確認し、憲法にも表記して来たわけですが、実は、日本国民の心の奥底には、それを否定したいという感情が消えてはいないということです。

 特に、日本の場合は、戦前の軍隊という組織が、戦後完全に消滅してしまいました。(自衛隊はありますが、軍法会議といった組織に司法権を有する軍事的組織ではありません。)その結果、日本では軍人、軍隊や戦争に対する観念的な思考が生み出されやすい環境にあります。

 ここで、わたしの父親の戦後の軍隊とのかかわりについて少し書いていきたいと思います。前にも書きましたように台湾で敗戦を迎え、武装解除された父親は、日本陸軍の軍人としては、非常に運が良く昭和二十年の暮れには日本に帰ってくることが出来ました。

 これが、満州に残っていた関東軍に所属したいたなら、シベリア抑留により、日本に帰国することは叶わなかったかも知れませんが、運よく帰国できました。

 そして、その後は、同じ部隊にいた戦友たちと、一年二一度の戦友会を催し、病により入院するまで幹事役を務めていました。父親は、下士官でしたので、そこに集うメンバーも下士官であったと聞いています。

 つまり、最前線で戦い、生き残った兵士たちが、戦後に集い、かつての軍隊の時代の話に花を咲かせ、一年に一度集まっていたということです。ちなみに、父親の小学校、高等小学校時代の同窓会があり、そこに出席したということを聞いたことがありません。

 まさに、これは命を懸けて共に戦った同窓会と称してもおかしくない集まりが戦友会だったと思います。そして、多分、こういった戦友会が日本全国で行われていたに違いありません。

 そして、そこで語られることは、同じ釜の飯を食い、命を懸けて戦った同僚たちとの青春時代の思い出だったことも間違いありません。はっきり言えば、同窓会より濃密な関係がそこには存在していたのです。

 父親にとって、戦争は悲惨な経験だったかも知れません。(実際に戦場で負傷しています)しかし、戦後の戦友会は、決して悲惨な思い出を語り合う場所ではなかったと思います。

 戦争にも日常はあります。ましてや若い兵士たちです。今の若い人たちと同様に、恋もすれば失恋もする、喜びもあれば悩みもある、そういう生活に命を懸けて浸食を共にしたと言う強い絆があったのです。

 そういう風に考えて見れば、兵士として日本軍に所属し、生き残った兵士たちは、戦争を美化するということではなく、そこで過ごした自分の青春を否定的に捉えたくないといった思いを抱くことは自然なことに思えます。

 だから、父親は、戦争を美化したことはありませんでしたが、戦争自身を否定したことはありませんでした。そして、若い頃、戦争を否定しない父親について、不信感を抱いたわたしも、父親の年に近づくに連れて、父親の気持ちを頭から否定できない気持ちに至っています。

 これまでわたしの父親について書いてきましたが、父親のような気持ちを抱きながら、戦後を生きて来た兵士たちは多かったと思います。そして、そういう父親に育てられた私を含めての戦後生まれの日本人たちが、思想的に大きな影響を受けていることは否めないと思います。

 現在の日本の憲法改正や安保法制を巡る問題が、反対と賛成といった白黒をはっきりつけるといった図式になりにくいのも、これまで書いてきましたように、戦後生き残った兵士たちが、戦後のこの国の礎を築いてきたことにあるように思えます。

 ただ、幸運にも生き残ったわたしの父親とは違い、不運にも若い命を落とし、実現できなかった様々な思い残しを胸に秘め、異国の地で死んでいった多くの日本人がいたことを、もう一度わたしたちは思い起こす必要があるはずです。

 もし、その若い命が、戦争という非人間的な暴力によって踏みにじられなかったなら、どれほど戦後の日本は豊かで、素晴らしい国になっていたのかということを、わたしたちは思い起こす義務があると思います。

 転戦ではなく、敗北を語り、日本の無謀な戦争を一刻でも早く止める勇気があったなら、どれだけの貴い命が救われたかと想像する想像力を、わたしは決して失いたく無いと思っています。



「問われている絵画(122)-絵画への接近42-」 薗部 雄作

「共同体としての地球社会に向けて思うこと」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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