今日のわたしたちの日常生活の便利さや快適さの向上といった点については、本当に目を見張るものがあると感ずる。
パソコンやスマホは、CPU能力、メモリ容量、表示の鮮明度など格段に改善され、ネット接続によって、メールの送受信、ウェッブを通しての多様な情報の参照検索、ネット通販の活用など、日常的なものになっている。こうした情報技術社会は、サイバー攻撃など、負の側面もあるが、車や宿泊施設のシェア利用といった新たなサービスも取り込もうとしているようである。
社会インフラとしては、コンビニの普及、高速道路鉄道網、高速通信網、GPSや気象衛星、など画期的な広がりをみせている。
医療技術の進歩も驚異的である。がん治療技術や再生医療技術など、日進月歩のようである。わたしの個人的な体験としては、白内障の手術や胃カメラによる鮮明な体内の画像に驚嘆した。
さらに、最近では、人工知能、IoT、自動運転、ドローン、素粒子物理学など、私たちの社会や認識を一変させる可能性を秘めた技術が目白押しの印象である。
こうした状況は、数十年くらい前までは、想像すら困難なものだったと思う。はたして、これから五年後とか十年後には、いったいどのような便利さや快適さが享受される社会になっているのか、思うだけで複雑な気持ちになる。
さて、こうした便利さと快適さを日々、享受していられる一方、さまざまな深刻な社会問題に見舞われていることも事実である。
国際状況でいえば、IS国と呼ばれるテロ的集団の台頭、シリア難民のEUへの逃避行、ロシアとウクライナの紛争、サウジアラビアとイランの宗教上の相違も踏まえた対立、などがある。また、近隣では,北朝鮮の独裁体制の強化策は、周辺に不気味さを漂わせているし、中国の一党独裁体制も、内部に権力闘争の火種を潜め、そのとばっちりが周辺諸国に苛立ちを引き起こしている印象も受ける。
国内に目を転ずれば、企業競争力向上、コスト削減のため、アウトソースが浸透し、非正規社員の比率が高まり、それに並行して、格差問題や雇用不安、少子化、等の社会問題を顕在化させているように感じられる。他方、正社員の方は、成果主義が課せられ、長時間労働やストレスの増大などにさらされている印象である。こうした状況は、グローバル化の影響もあるようであるが、かつての「みんなでがんばろう」といった共同体意識は希薄化し、なにか個人主義的な個優先の、なんのために働いているのか納得できていないような、なにか刹那的な気分もあるように感じられる。
科学技術の進展によって、便利さや快適さは、物質面やサービス面での消費社会として実現された一方、世界状況は混迷し、共同体意識は希薄化し、格差意識や疎外意識は深まり、人間の心の側面は、必ずしも幸せになっているとは言い難い状況になっている。では、それはなぜなのであろうか。
その理由を理解するには、科学技術とはなにかを振りかえる必要があると思う。科学は、ヨーロッパ中世からのキリスト教神学が、その教義の確立に向け、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどに代表されるギリシャ哲学、および、ユークリッド幾何学を模範とする論理構築術を土台に、スコラ哲学として営々と積み上げてきたものが、結局、意味論や価値観としての唯一絶対のものに到達することは不可能であるという破綻限界意識から生まれ出たものであることを理解する必要があると思う。意味論、価値観から解放された結果、自然界の現象の側面のみをとりだし、その因果法則を数学的に把握するという態度の獲得が、科学の土台になったということである。コペルニクス、ガリレオ、ニュートンなどが、その偉大な先駆者となったが、これらの人達は既存の因習的な権威を葬り去り、フランシス・ベーコンの言う「知は力なり」の時代を切り開いた。科学の力は、その後、産業革命を押し進め、植民地主義、帝国主義、社会主義、アメリカ合衆国による大量消費文明に基づく覇権、といった歴史の潮流を方向づけたと言えるように思う。
科学は、確かに、今日の社会の便利さや快適さを実現する原動力になっていることは、既に、指摘した通りである。そして、科学は、人間とはどのような存在であるのか、人間はどのように生きるべきなのか、といった意味論、価値観に関しては、なんら答えようとしていないことも事実である。では、共同体として私たちの人間社会、他の生きものも加えれば地球社会と言ってよいと思うが、そうした社会は、今後、どのようなあり方を、どのように仕組みのなかで、追い求めていけばよいのであろうか。
今日の社会では、国家から企業まで、さまざまな組織によって運営されるが、その組織は、激しい競争に晒されるなかで、効率を追求し、分業専門化を必然のものとする。一方、人間は、人間関係に煩わされることなく、一人で気ままに生きていきたいという欲求をもつものであり、田舎生活よりも都市生活に憧れる面も否定できないようである。
人間は一人では生きてはいけないし、生まれてもこれない。共同体としての社会のなかで、適当な位置づけと存在意義に納得して、はじめて健全な生き方が可能になるのだと思う。そういう共同体であるためには、利己的な願望を乗り越えた他者への配慮を尊重する社会であることが求められる。本来、宗教と呼ばれるものは、そうした姿勢を教え導くものであったのだと思う。宗教というと、因習的権威を立てるものとも理解される。これからの地球社会においては、一人ひとりの人間の全人格的な視野と主体的な判断力を尊重し、そうした一人ひとりの社会への参加者意識が充分に発揮されるような社会であるべきだと感ずる。人工知能やIoTなどの技術が進歩するなかで、そういう仕組みを補助的なものとして作っていくことも不可能ではないように感ずるのだが、どうなのだろうか。
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