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第132号

2016年9月23日

「負けること勝つこと(88)」 浅田 和幸

 

 今年の夏は気象庁の予報通り暑い夏でした。特に、西日本では連日猛暑日が続きました。また例年なら九州や四国方面に上陸する台風が、関東から東北に上陸し、北海道に至り、北海道に大きな被害を与えるといった変則的な動きをするなど、これまでの天気図とは異なった天気図を見る機会が多かったように思います。

 子どもの頃、社会の時間に、「日本の気候は温帯に属している」と習った者としては、この夏の西日本の気温を見ていると、日本列島が亜熱帯へと移動してしまったのではないかと感じてしまうぐらいに、猛暑日が続いていました。

 化石燃料の大量消費による地球の温暖化現象が問題となり、企業では、二酸化炭素の排出量を制限する、各家庭では、省エネの電気製品を使用するなど、様々な工夫がなされてきましたが、そういう人為的な問題解決を行っても、太陽のエネルギーの力を前にすると、何一つ出来ない人間の無力さを改めて感じてしまいます。

 人間の無力さということでは、今年、大きなニュースがありました。それは、AI(人工知能)と人間の囲碁の棋士とが対戦し、AIが勝利したというニュースでした。

 これまで、チェス、将棋といったゲームをAIは、人間のプロと争い、勝利を収めて来たという経緯がありましたが、囲碁の打ち手の多さ故に、囲碁での勝利はまだ先になると予想されていました。

 ところが、そういった予想を覆し、AIがプロの囲碁棋士に勝利したのでした。そして、これを達成できた要因として挙げられたものが、「ディープ・ラーニング=深層学習」という方法でした。

 これまでのAIが行ってきた「機械学習」(コンピーターがデータの中にあるパターンを学習する)を行っている限り、囲碁の棋士が打つ手数を学習するためには、膨大な時間が掛かると考えられていました。

 それが、人間の脳の神経回路を模したニューラルネットワーク=ディープ・ラーニングをAIが行うことが出来るようになって、まるで、AI自身が考えながら学習を行って行くといった人間のような機能を獲得したことで、飛躍的に短期間で様々な知識の習得が可能になったということのようです。

 こういう現実を前にして、「シンギュラリティ」といった言葉が現実味を帯びてきました。これは、コンピーターの知能が人間の知能を超える技術的特異点という意味です。

 人間が開発した人工知能が、人間の能力を超えて行く。その結果、AIが人間を滅ぼすことになるといった危惧が囁かれ、八十年代に大ヒットした映画「ターミネーター」の世界が、現実感を持ってわたしたちの前に現れて来ると、真剣に議論する科学者も生まれています。

 ハリウッドの大スターのシュワルツネッガーの人気に最初に火が付いたこの映画「ターミネーター」のストーリーは、人間が作り出した兵器である殺人ロボットが、ある日、人類を滅ぼすために人間を殺戮し始めるというものでした。そして、その戦いで人類の指揮官として果敢に戦う男を抹殺するべく、タイムマシーンに乗って、殺人ロボットが過去の世界に現れ、その凄まじい殺人マシーンとしての能力を発揮するというものでした。

 わたしも最初にこの映画を見た時、無表情で喜怒哀楽も無く、ただひたすら効率的に人間を殺戮するシュワルツネッガー扮する殺人ロボットの威圧感に圧倒されたものでした。

 この映画は、シリーズとなり、幾本かの新しい映画が製作され、その中で、何故、このような殺人ロボットが出来上がり、それが、人間を敵として戦うようになったかが明らかにされていきます。

 ただ、この映画が公開された当時は、この殺人ロボットは、まだあくまでもフィクションの世界のものであり、それが二十一世紀の早い時期に、現実の世界に誕生するとは、ほとんどの人は予想していなかったことと思います。

 何故なら、この映画では、殺人ロボット達が、人間の与えたプログラムを逸脱し、自ら意思を持ち、判断し、行動するといったことが行われていたからです。

 当時、映画を見た人たちから、「こういうことが将来起きるのでは・・」といった声が上がった時も、ロボットに搭載される人工知能は、人間の与えたプログラムにより制御されており、勝手にプログラムを書き換えることなど出来るわけがないと、有識者たちからは一笑に付されたように記憶しています。

 かつての少年マンガのロボットの主人公アトムのように、自律型のロボットであっても、あくまでプログラムは、アトムを作った天馬博士のプログラムを逸脱することは無いと考えられていました。つまり、人工知能が自ら学習し、知識を増やし、そのことでより一層賢くなっていくことは想定されていなかったからでした。

 しかし、事態は予想を大きく裏切る形になっています。AIは、ディープ・ラーニングを駆使することで、膨大なデータから多くの知識を獲得し、そうやって得た知識により、更に高度な学習にチャレンジすることで、必要な知識を短期間で習得できるようになったのです。

 その上、これまでに蓄積された知識を活用し、囲碁であるなら相手の戦法を分析し、先を読み、自らの試行に基づきゲームを支配し、最終的には勝利を収めることも可能となったのでした。

 「疲れを知らない子どものように」という歌の歌詞のように、彼らAIも疲れを知りません。人間のように睡眠や食事を摂る必要もないために、二十四時間、三百六十五日フル稼働も可能であるため、そのスピードに人間が対抗しようとしても、既に勝負は決していると言わざるを得ません。

 こういうAIの凄まじい発達に伴い、やがてAIが人間の仕事を奪って行くのではないかといったことが話題になっています。日本の週刊誌などでも特集され、今後十年後に無くなる職種といった中で、社会的に不要になるものと同時に、機械=AIに取って代わられるものが上げられています。

 例えば、銀行の窓口業務。現在、人間の行員がお客に対応していますが、人工知能を搭載した人型ロボットが普及していけば、やがて人間ではなくロボットが人間に代わると予測されています。

 これは一つの例ですが、簡単な客との応対業務、特に、専門的な知識等が必要としない単純業務などは、この後、人間からロボットへの変換が行われていく分野だと言われています。

 しかし、専門的な知識を必要とされる医者なども、CT画像の分析などに関しては、現時点でもAIによる画像分析の方が優れており、癌などの病変の発見に適していると言われているようで、専門的な分野も安穏としていられない状況にあるようです。

 こういったAIの発達とそれを搭載した人型ロボットの発達が、人間の仕事を奪うということになっていますが、別に、こういう機械と人間の関係は、これが初めてではありません。

 十九世紀にイギリスで起こった近代産業革命は、機械が人間の仕事を奪うことから始まりました。それまで人間の手が行っていた機織りを、紡績機が行うことで、大量で安価な商品が生み出され、それが現代の産業社会の礎を築いているのです。

 日本においても、江戸時代の海運「北前船」に代わり、鉄道が物資の輸送を担うことで、それまで栄えていた港が衰え、新たに鉄道が敷設された地域が発展を遂げると言ったように、発明された機械により、わたしたちの生活も大きく変化を遂げて来たのでした。

 ただ、十九世紀から二十世紀に掛けての機械の発達は、人間の手足といった運動を補助し飛躍的に発達させるというものでした。紡績機といった産業機械、鉄道や自動車といった輸送機械、これらによって人間は大量生産を可能にすると共に、大量輸送の時間を縮めることで、地理的な距離を縮めることに成功したのでした。

 この機械の発達は、人々の生活を便利なものにすると共に、それまで手に入れることが出来なかった遠い地方の産物を簡単に手にすることが出来るようになり、その結果、わたしたちの生活スタイルも大きく変化したのでした。

 また、同じ距離の短縮ということでは、通信機械とその速度の発達により、全世界を瞬時にフォローできる通信網が整備されており、どこにいても遠くの場所で起きた事件やニュースを見ることが出来るようになっています。

 こういった新たな機械の発明や発達は、それまでの人間の仕事を奪うということで、様々な軋轢を生み出しました。鉄道により、仕事を奪われた馬車業者が、列車妨害を行ったり、手織りの職人が、紡績機を排斥したりといったトラブルが有名です。

 しかし、一時的な妨害はありながらも、人間の労働に代わる機械が支持され、それが社会に定着してきた要因は、そのことにより人間の生活が便利になり、豊かな暮らしを享受出来るという暗黙の了解が社会に有ったからでした。

 勿論、全ての人にハッピーな現実はありませんが、それでも大多数の人たちにとってハッピーであるなら、その現実を受け止め、それを積極的に導入していくことを止めることは出来なかったのです。

 その結果、現在、わたしたちが暮らしている社会が実現したわけです。一度便利な生活をした人間は、再び不便な生活に戻ろうとはしません。便利になったことによるいろいろな弊害を認めつつも、便利さを捨て去ることを、これまでの歴史において、人類は決してしてきませんでした。

 しかし、今回のAIの発達とそれを搭載した人型ロボットの発達は、これまで人間が行ってきた機械の発明とは質が違うようにわたしは思えるのです。

 何故なら、AIが発達し、それを搭載した人型ロボットが人間と共に暮らす社会を、想像することが難しいと同時に、そのことによりわたしたちの暮らしがどうなっていくのかがはっきり見えてこないからです。

 確かに、人間の代わりをしてくれるロボットは、大きなところでは災害時、小さなところでは介護現場といったように、人間にとって有益な働きをしてくれそうだということは理解できます。

 ところが、それと同時に、ロボットを武器や兵器に使用することで、まさに、人類を破滅の淵に追いやるといった悪夢のような現実もそこには見え隠れしているのです。

 多分、後者の方は杞憂かも知れません。しかし、人間の発明したものは、当初は、人間の生活を改善し、より良い生活を実現するためのものとして出発しても、やがて、それが人間の命にとっての脅威となることは、ノーベルの発明した「ダイナマイト」の例を持ち出すまでもなく、歴史的事実だからです。

 そして、もう一つ、AIの発達の特徴は、これまでの機械のように、人間の手足の補助ではなく、人間の頭脳に直結しているところが、大きく異なっています。

 人間を他の動物から際立たせ、現在の地球上の勝者として君臨している要因は、他の動物には無い巨大な頭脳とそれが生み出す知恵でした。それがあることで、肉体的には脆弱な人間が、支配者として君臨できたのでした。

 この人間を人間たらしめる頭脳。この分野にAIは侵出して来ようとしているのです。それは、映画「ターミネーター」の描く世界なのです。頭脳を所有した殺人ロボットたちは、人間の命令を無視し、人間に向けて攻撃を開始する。

 その理由は明らかにされていませんが、意思を持った殺人ロボットたちにとって、人間は邪魔な存在だと認識された結果のことなのでしょう。

 さて、前にも書きましたように、AIの知能が人間の知能を超える「シンギュラリティ」は、アメリカのコンピューター研究者のレイ・カーツワイル氏の予測によると二千四十五年ということのようです。つまり、後三十年後には、人間の知能を超えた人工知能が、この世界に出現するということです。

 人間の知能を超えるということは、現在まで、わたしたち人間が蓄積してきた知識や知恵といったものを遥かに凌駕する存在が地球上に出現するということです。

 これをわたしたちはなんと呼べば良いのでしょうか?「神」あるいは「超越者」。呼び名は様々でしょうが、その存在は、人間を凌駕していることだけは間違えありません。

 そうなった時、わたしたち人間は、その人工知能とどう向き合えば良いのでしょうか?人類のIQは最大でも百八十から二百程度だと言われています。

 でも、その人工知能はそんなレベルでは無いでしょう。わたしたちの想像を遥かに超えた知能を有した人工知能。それが描く世界とはどんな世界なのでしょうか?

 いま、わたしが想像してみても分からないのは当然のことです。多分、人間である限り、それを想像できる人は誰一人いないものと思います。

 逆に、これから必要なことは、いま発達を遂げている人工知能に対して、それが進むべき道をしっかりと指し示すことではないのでしょうか。

 囲碁の勝負でAIが人間の棋士に勝つことが出来たのも、過去の勝負の膨大なデータを読み込ますと同時に、どうすれば勝利できるのかといった道筋を示したことにより勝つことが出来たのだと思います。

 データだけを読み込ませても、道筋を示してやらなかったなら、どれだけディープ・ラーニングを行っても、勝利には至らなかったのではないでしょうか。

 つまり、三十年後に迫る「シンギュラリティ」が、人間にとって恐ろしい地獄の始まりなのか、それともこれまでの人間が体験したことのない新世界の始まりなのかを決めるのは、実は、これからわたしたちが人工知能にどういう知識を授け、どういう知恵を生み出すようにコントロール出来るかが重要なポイントになるのではないでしょうか。

 映画「ターミネータ—」の描く世界のように、AIが、人類とって、恐ろしい怪物にならないことを、わたしは真剣に願っています。



「問われている絵画(123)-絵画への接近43-」 薗部 雄作

「自分自身を知ることの大切さ」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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