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第133号

2016年12月20日

「宗教について改めて思う」 深瀬 久敬

 

 今日の社会において、宗教とはどのような位置づけになっているのであろうか。私には、なにかその根底にあった精神性を希薄化させ、日常生活のなかにエンターテイメント的要素を持込み、人々が集まって歓談をたのしむ場を提供するようなものになっているのではないかとも感じられる。

 キリスト教のクリスマスや仏教神道系の初詣も、そんな感じがしないでもないし、イスラム教の毎日の礼拝、ハラル食、ラマダン、女性の服装など、たのしみ的要素を含めてやっているのではないかと思うこともある。

 

 改めて、宗教とはなにかということを辞書で確認してみた。講談社刊の日本語大辞典によれば、「仏教語で、おおもとである究極の真理(宗)を指し示す教えの意から、神・仏・霊といったような超人間的存在やその力・意志をよりどころに、平安を得ようとして求める信仰。およびそれに基づく儀礼や行事、あるいはそれから派生する精神文化の総体をいう。一般的には、信者によって教団が営まれる。」とあり、ウィキペディア・フリー百科事典によれば、「宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」とのことであった。

 こういう定義は、確かに正しいように思うが、今日の私たちにとってあまり身近に納得できるものとは言い難いようにも感ずる。それは、「超人間的存在やその力・意志をよりどころに」、「人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念」といったものが、近代ヨーロッパにおいて獲得された科学的観点やその成果のあふれている現代社会においては、なにか疎遠なものと言えるためではないかと感ずる。

 

 またウィキペディア・フリー百科事典からの引用になるが、今日の世界や日本における宗教問題として、次のようなものが挙げられている。

・聖地をめぐる争い(例、エルサレム)。

・宗教戦争(異教徒間、異宗派間で、時として戦争や紛争を引き起こすことがある。このような問題が狭い区域の宗教的多数派の住民と宗教的少数派の住民の間に発生した場合、ヘイトクライムの形をとることが多い)

・共産主義を標榜する全体主義国家による宗教全般に対する弾圧、信教の自由の侵害(中国、北朝鮮など)

・日本における政教分離の原則とその解釈、適用範囲の問題として、

−靖国神社問題。

−キリスト教徒の自衛隊員の護国神社合祀、およびその遺族による取り下げ要求の拒否。

−自民党・民進党の支持団体に宗教団体が含まれる問題。

−統一教会と一部の保守政治家(自民党・民主党など)の関係

−公明党と創価学会が政教一致であるとされる問題。

−宮津市清め塩啓発問題。

・宗教と学校教育(教育基本法九条の改正をめぐる議論など)

・信教の自由と人権(人権尊重と人権侵害をめぐる議論、あるいは新宗教をいかに処遇するかについての議論、エホバの証人の輸血・武道教育拒否問題に見られる子どもの人権と教義の衝突など)

 これらからは、宗教の負の側面のみが見え隠れし、なにか宗教をやっかい者扱いするような雰囲気する感じられる。

 

 では、宗教の根底にあるものを私なり改めて確認してみたいと思う。人間は、生きていく上で、次のようなできごとや課題に悩み苦しむ存在なのだと思う。

・身近な愛する人や自分自身の死の悲しみや恐れ。

・欲望を抑えられない結果としての殺人、強奪、欺瞞などの犯罪的行為への悔恨。

・疫病、老化、地震、日照り、洪水、噴火、気候変動などの自然発生的な災害に起因する生命の危機。

・集団化された相互の利害対立や憎悪に起因する戦争の惨禍。

・自分たちはなぜ存在しているのかといったアイデンティティーの問題。

 

 こうした悩みは、人類誕生のころからすでに始まり、人類は、こうした悩みに対処する手段として宗教をもち、それに最高位の権威を付与し、社会運営の基盤にしてきたのではないかと思う。確かに、こうした悩みは、近代社会になり、客観を旨とする科学技術や民主主義といった思想を社会運営の基本に据えることなどを通して、かなりの解決を見いだしたように思う。医療技術、刑法を含む法律の整備、社会保障制度の充実、気象予測技術、等々、枚挙にいとまがない。では、こうした近代社会の生み出した成果によって、宗教の存在意義は消失しつつあると言えるのであろうか。かつて私たちを苦しめた課題の大部分は、近代社会のなかでは、完全に解決されたとはいえないにしても、解決の見通しを得ていると考えてよいのであろうか。

 

 私は、どうもそうではないと感ずる。例えば、急速なグローバル社会化への変化は、工場移転や移民に起因する失業や様々な軋轢を生んでいる。また、グローバル競争の激化は、非正規雇用、成果主義、任期付雇用、アウトソースといった働き方に変革をもたらし、自己責任を浸透させ、かつての共同体のなかでの安定感のあるあり方を駆逐しつつある。医療分野や情報通信分野の急激な技術進歩も、私たちの身の回りを便利にする側面もあるが、人工知能による代替えなど、かつての合理化反対や打ち壊し運動を想起させるような変革をもたらすのではないかと不安視されている。地球社会全体をみれば、民主主義もあれば、王制や世襲や政党の独裁国があったり、その統治体制は様々であり、相互理解の困難さは深刻化しているようである。民主主義の前提とした、人権、自由平等、理性の平等、等の輝きは失われつつあるようにさえ感じられる。さらに、エネルギー、鉱物、食料などの資源の乱獲は、大量消費時代とともに進み、熱帯雨林の消滅、海洋汚染、地球温暖化といった地球環境の劣化をもたらしつつある。

 身近に報道されている、経済格差問題、少子高齢化問題、地方の過疎化問題などの根本には、上記のような要因が関係しており、その解決は一朝一夕にはいかないように思う。

 

 宗教に戻るが、宗教の起源としては、先に述べたような事情があると思うが、では、宗教の基本的なメッセージは何であったか、改めて問いたいと思う。私が思うに、それには次の三つほどがあると思う。

 一つ目は、人間の不完全性の自覚を促すことである。自己自身の不完全性を深く自覚することなしに、相互理解の道はないと思う。仏教は、そのための手段として坐禅を教え、執着心から離脱することを説いた。キリスト教は、人間の原罪意識を説き、キリストによる贖罪に基づく救済を教えた。

 二つ目は、宇宙のなかに存在する私たち人間の存在の根底と向き合うことの必要性である。私たちは、どのような存在なのかを自問することは、私たちはどのようなあり方をするかを問う足掛かりとなるし、相互理解の共通ベースにもなる。

 三つ目は、人類以外の全ての生きものを含めて、互いに助け合って生きることの大切さを説いていると思う。大乗仏教の思想の根底ともなっていると思うし、キリスト教も、他者へのいたわりを説いている。

 

 こうした宗教の基本的なメッセージは、人類が存続する限り普遍のものであると思うし、今日の社会の抱えている上述したような不安要因に適切に向き合う上でのベースとなることも否定できないと思う。今日、遺伝子解読、宇宙物理学、脳科学などの進展によって、宗教の発したメッセージに対する新たな問い直しも可能になりつつある。それも含めて、こうしたメッセージを社会運営の基本とするような社会を構築することは果たして可能なのか、問いたいと思う。個人的には、既存宗教との関連、憲法の上位に位置づけることの可否、政教分離との関連、などクリアすべき課題は山積みだとは思う。しかし、数百年後、数千年後の人類の地球社会でのあり方を思うとき、避けては通れない課題のように思われてならない。



「負けること勝つこと(89)」 浅田 和幸

「問われている絵画(124)-絵画への接近44-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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