年齢が七十歳近くにもなり、企業の組織のなかでの成果を追い求めた日々も過去のものとなり、また、子育てといった基本的責務からも解放された昨今、ときに、自分は、そして、人間はなんのために生きているのだろう、その存在している意味はなんなのだろう、と疑問に思うことがある。
おそらくこうした疑問に唯一絶対の答えが見つかるとも思えないし、たとえ見つかったとしても、では、それによって存在の在り方が明確になるということにもならないように感ずる。そもそも生きている意味、存在していることの意味を問うなどというのは、精神的に不健康な状態なのであって、生きているというのは、日々、目前の必要にいかに適切に対応していくかということに専念しているのが健全な在り方なのだと言われそうな気もする。
そこで、視点をもう少しマクロ的に広げるならば、人間の歴史というのは、人間存在の自覚を深める軌跡だったのではないかとも思える。自分の存在の自覚を深めるというのは、人間という生き物にあってはじめて可能なのではないだろうか。
人間は、直立二足歩行、そして、道具や言葉や火や文字を使いこなすことを通して、大脳が発達し、少しずつ自分の存在というものを客観的に見る意識が強められて行ったように思う。
いろいろな民族に伝承されている神話は、自分たちの生い立ちの由来がどのようなものであったかを物語り、自分たちのアイデンティティーを打ち立てようとしたものである。旧約聖書には、天地創造から、人間が智恵を獲得し、羞恥心の芽生えや農耕といった労働に従事するようになった由来を記している。
こうした歴史は、人間存在の自覚の深まりを示唆しているように思う。旧約聖書は、さらに、人間が傲慢不埒な生き方をし、預言者の忠告にも耳をかさないでいると、天罰が下るといったことも説いている。仏教においては、自己の利益のみに執着しているものは、無明の世界から抜け出せず、心の安らぎを得ることはできない、といったことを説いているように思う。
人間は、近代社会以前においては、こうした宗教的、因習的な人間観、世界観を通して、人間存在の意味を自覚し、そうした自覚のもとに、社会的権威を打ち立て、それを社会運営の基盤として受け入れてきたと言えるように思う。
少し横道に逸れるが、実際の社会運営における権威には、宗教的分野と政治的分野を担う二つの側面があるようであり、近代になって、政教分離などと言われることもある。
しかし、王権神授説とか、わが民族は天から下った神の子孫であるといった神話的説明からは、これらは本来、表裏一体のものであったように感じられる。政治的権威は、武力や法律を背景とするとともに、建造物、儀式、美術品などを誇示し、その権威をより一層強固なものにしようとする。宗教的権威についても、同じように豪華絢爛たる伽藍を建てたり儀式を執り行ったり、眼を奪うような美術作品によって人々を圧倒し、権威への服従を促そうとする。教義内容を理論的に構築、体系化し、より深遠なものにすることもその一環であろう。
上述したように、近代社会以前の人間存在の自覚の深まりは、もっぱら、宗教的、政治的、形而上学的な権威の深まりという形で行われたと言えるように思う。したがって、それは、根拠が曖昧であったり、因習的であったりしたが、人々は、日々の感謝、畏怖、悲しみを、信奉する権威のもとで共有し、連帯感を培うなかで生きてきたのだと思う。
こうした傾向に大変革をもたらしたのは、科学的知識の獲得であった。現象世界の因果関係を定量的定性的に法則として把握しようとする態度の獲得は、それまでの根拠の曖昧な因習的な人間観、世界観を大きく後退させた。因果関係の曖昧な理解は、その正当性が証明されないので、受け入れるべきではないという態度をもたらした。
そのため、宗教的、因習的、神話的な権威は、根拠のないものとして排斥されるようになり、ある意味で、こうした権威によって、長年にわたって培われた美意識といったものは、その根拠を喪失し、形骸化の途をたどる運命にもなった。
では、科学という現象界を因果法則として理解する視点の獲得は、人間存在の自覚の深まりということと、どのように関係するのであろうか。人間存在そのものを現象として捉えることには、自分自身を現象化することであり、なにか矛盾があるようにも思う。だからといって、科学は人間存在の自覚の深まりと無関係であるとすることにも無理があると感ずる。
こうした理解を前提として、今現在の私たちが向き合っている問題のいくつかを取り上げ、吟味してみたい。
第一は、人間はそもそも不完全な存在であるという認識についてである。仏教における無明やキリスト教における原罪意識など、人間は不完全な存在であるという認識は、人間自覚の根底にあるべきだと個人的に思う。それ故に、古来、人間は根拠の曖昧な因習的な権威を受け入れてきたのだと思う。しかし、科学の登場によって切り開かれた近代社会においては、人間の理性は、たとえ今は不完全な様相を示しているとしても、いずれ完全なものに到達できるという視点に立つことがあり、その到達度の比較に堕してしまうこともあるようである。いずれ完全なものに到達できるのであり、問題は、現状の相対的差異だとする議論には根拠がないと思う。とはいえ、なにが不完全であり、その不完全がどのような問題をもたらし、どのようにその不完全を補っていくか、という根本的な議論も充分だとはいえないと感ずる。
具体例として、グローバル化や資本主義が広まるなかで、経済格差の問題が顕在化し、さらには、移民や難民やテロ行為によって、閉鎖主義の風潮が高まっている。極右政党、自国第一主義、ポピュリズムなども広まり、さらに人の移動を抑止する壁の建設といった話題もある。互いの不完全さを乗り越えるために、根本原因にまで遡って智恵を出し合おうという姿勢が追いやられ、力尽くの表面的目先的解決を優先するこうした風潮は、人間存在の自覚の深化を拒絶しているように感ずる。
また、人工知能のめざましい進展は、人間の知識、状況認識、判断能力などの不完全さを、如実に顕在化させつつあるように思う。人間が処理できる情報量や考慮できる要因の数や関係性には、明らかに限界がある。囲碁のゲームにおいて、人工知能がプロ棋士に勝利するのをみるとつくづくそう感ずる。医療分野、会計分野、車の運転など、人工知能の急速な浸透によって、人間存在の自覚の深化は、どのような方向に進むのであろうか。人間は、創造的な仕事をすればよいと言われても、だれもが創造的な仕事に従事する社会を具体的にイメージすることは簡単ではない。
第二は、人間存在の自覚を深めることが、人間社会の在り方や一人ひとりの生き方にどのような影響を与えるのか、という問題である。
科学の登場によってもたらされた近代社会においては、因習的な身分制度や男女差別といった根拠の曖昧な差別は基本的に撤去された。人々の自由、平等は、基本的人権として憲法によって担保され、刑法においても懲罰的意味しかない処罰は影をひそめた。統治主体は、一人ひとりの理性に基づく選挙によって決められ、統治を契約によって委託するという形をとる。統治が不適切と判断されれば、契約を解除して別の人を選び直すということになる。このことは、全人格的な権威というものが近代社会からは消えたということを意味する。 やや本題と外れるが、科学を根拠とする近代社会の在り方の受け入れ方というのは、地域や国によってかなりの相違があることを認めなくてはならない。近代社会の発祥の地であるヨーロッパはともかくとして、日本においては、明治維新から展開され、太平洋戦争の敗戦によってさらに弾みがついたという感じである。しかし、死刑制度の存続傾向などをみると、近代社会の理念をどこまで受け入れるのか、というのは議論のあるところだと感ずる。さらに中国の状況などを見るにつけ、近代社会の人間存在の自覚の相違は、一朝一夕に埋まるものではないと感ずる。付言すれば、伝統的価値観から完全に脱却することは不可能なことのようである。アメリカ合衆国のように地理的にも分離した国家においては可能であろうが、その他の地域においては、その理念の純化はありえない、と言えそうである。
また、遺伝子操作、再生医療、脳科学などの進展によって、人間の願望の達成可能範囲が格段に広がりつつある。全人格的な権威が不在のもとで、こうした利便性の拡大が、どのように進むのか、そして、そうした動向が、人間存在の自覚にどのような影響を及ぼすことになるのか、注意していかなくてはならないと思う。
第三は、地球上の生き物の多様性に関することである。地球上に生命が存在するようになったのは、数十億年まえのことのようである。無機化合物から太陽エネルギーを有機化合物として蓄える光合成をする植物の誕生などを通して、地球上には、昆虫、爬虫類、哺乳類などの動物も生まれ、これらが複雑な共存関係を維持しながら、今日まで弱肉強食の食物連鎖を構成している。こうした人類の歴史をはるかに超えた年月のなかで形成された生態系に対して、今日の私たちの生存の在り方は、甚大な影響を及ぼしていることは想像に難くない。温暖化ガスや大気汚染ガスの排出をはじめ、放射能汚染、森林伐採、人工護岸など、自然環境への影響は計り知れない印象である。こうしたことを背景に、絶滅に瀕する生物も少なくないと言われる。人間存在の自覚の深化は、他の生き物の存在を無視しては成立しないと思う。多様性を排除した後のしっぺ返しを深く自覚することが必須だと思う。
一回限りの人生の残り時間も、そう長くはないように感ずる。宇宙物理学や人工知能や生命科学の進展がめざましいなか、人間という存在の自覚の深まりが、今後、どのように展開されていくのか、少しでも理解を深めることができたら幸せだと思っている。
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