この宇宙を構成するものは、単純で無機質的な物質界であるという見方が適切ではないことは、今日、広く知られている。すなわち、この宇宙には、重力とか、電磁気力とか、原子核を保持したり崩壊させたりする力が存在し、さらに、ダークマターやダークエネルギーといった未知なる物質やエネルギーも充満しているらしいのである。さらに、時間の概念や私たちには知覚しえない他の次元の世界の存在も示唆されている。また、ビッグバンや加速膨張宇宙といったダイナミズムも、私たちの宇宙が静的で無機質的な物質界とはほど遠いことを物語っている。確かに、炭素、窒素、酸素、珪素、鉄などの重い元素が、水素やヘリウムといった軽い元素から、超新星爆発といった核融合反応によって生み出されたということは、重く受け止めるべきことだとは思う。しかし、この宇宙の根底には、私たちの想像をはるかに超えたもっと根源的な原理のようなものが存在しているように思えてならない。
そして、このような理解を踏まえるならば、単純で無機質的とはいえない宇宙空間のなかに、生命が普遍的に存在していてもなんら不思議ではないという気持ちになる。近年、宇宙観測技術の急速な進展によって、太陽系以外の系外惑星が多数見つかっている。なかには、岩石ででき、水が液体として存在できるハビタブルゾーンにある惑星も、いくつか見つかっている。そうした系外惑星に生命が存在するのかとか、人類はいずれそうした他の惑星に移住することが可能になるのか、といった議論に注目が集まっている。
生命を構成する基本物質と言われる有機化合物が、水素やアンモニアの混合物を過熱したり、火花放電をあてたりすることによって作られたとするユーリーミラーの実験も示唆的だが、私は、生命というものは、宇宙全体に普遍的に存在するものであると考えた方が自然のように思う。ただし、その生命の形態や在り方は、その置かれている環境によって天と地ほどに異なるのではないかと思う。生命というものは、基本的に五感のような外界をセンスする能力をもち、その能力を活用して、代謝、生殖、動的平衡といった生命活動を行う存在なのではないかと思う。環境に応じて、生命は、RNAとDNA、単細胞と多細胞、植物と動物など、実にさまざまな在り方をする。
私たちの生存する地球は、たまたま、原理としての生命がもつ自己発現能力をもっとも豊かに引き出す環境を提供してくれているように思う。例えば、多細胞生物が誕生しえたのも、大気中にシアノバクテリアが放出する酸素が豊富になり、ミトコンドリアのような効率よくエネルギーを活用する生きものを細胞核のなかにとりこむことが可能になったためのようである。その他、地球の磁場やオゾン層によって地球外からの有害物質の飛来が遮断されたり、月という惑星をもつことによって安定した四季がもたらされたなど、こうした地球環境の、生命にとっての卓越性は、枚挙に暇がないほどなのだと思う。
以上のような、原理としての生命が基本的に備えていると考えられる自己発現能力を引き出すために、地球はまたとない環境を提供しているという理解を踏まえて、人間の自意識について、四点ほど考察してみたい。
1.人間の自意識の際立ち
生命は、基本的に、環境とは切り離された存在であるということができるが、その切り離された距離感という点で、人間は際立っているように思う。
他の生きものは、外界をセンスする感覚を、人間と同じようにもっているし、環境のきびしい試練や弱肉強食の連環を乗り越え、種としての存続を維持するための実にさまざまな戦略を備えていることは周知の事実である。例えば、カエルは、不凍液を作り出したり、指の間の皮膜で滑空したり、手足に強力な吸盤を持ったり、枯れ葉に擬態したり、死んだふりをしたり、猛毒を身につけてみたりと、人知を超えたさまざまな戦略を生み出している。
しかし、人間は、自然との距離感を自意識によって認識するという点で、他の生きものとは別の世界に踏み込んだように思う。自らの存在を、自らが問うという態度は、単なる物質界や他の生きものにはありえないことではないだろうか。
人間のこうした自意識の誕生は、かつては猿のように森林の中で生存していたヒトが、その森林が気候変動によって草原になり、直立二足歩行を移動手段とするようになり、その結果、大脳が増大し、道具や声や言葉を獲得したことに由来するようである。
さらに、ホモサピエンスと呼ばれる現在の私たちの先祖は、想像力や相互信頼を踏まえた社会を営む能力を身につけ、その結果、ネアンデルタール人のような他の人類よりも優位に立つことができたようである。
2.一神教世界と多神教世界における環境との距離感
このように、人間のもつ自意識は、自然との隔絶を際立たせている。そして、人間の自意識は、宗教や哲学の名のもとに、人間の存在自体の意味や価値を問い、さらに、生きていくことに伴う苦難を解決してくれる方策を得たいと願ってきたのだと思う。そして、私が思うに、その問い方や対応策は、多神教世界と一神教世界とで、大きく異なったものになったように思う。
すなわち、多神教世界では、身近な身の回りの自然のさまざまな対象に感謝や畏怖の念を抱き、仏教や儒教に見られるように、自己の執らわれた不完全な思い込みや欲望を滅し去り、自然と一体化することによって安心をえようとしたのだと思う。仏教や儒教における一切衆生悉有仏性とか、無心とか、万物斉同といった思想は、こうした思いを踏まえたものではないかと思う。
これに対し、一神教世界では、人間は、基本的に神によって創られた不完全で罪深き存在であるという認識にたち、生きていくうえでの苦難は、神からの試練であり、神の御心であるという伏線を辿り、広く行き渡ったイエス・キリストによる贖罪の考えに行き着いたように思う。
3.科学の誕生と現代社会の課題
さて、こうした意味や価値を問う二つの自意識が存在するという理解のもとで、一神教世界においては、人間存在の意味や価値を問い続ける姿勢が、ユークリッド幾何学や、プラトンやアリストテレスのギリシャ哲学と融合し、神の存在そのものを客観しようとすることになった。そのような人間存在の意味や価値を明らかにしようとした努力が、ある時、破綻し、自然現象の定量的な理解のみに限定し、人間や世界の存在の意味や価値を問う姿勢を放棄するという態度を獲得することになった。この転換こそが、近代社会の科学や民主主義の基盤になったのだ、と私は思う。
私たちの今日生きている近代社会は、人間存在の意味や価値を問うことをしない科学技術や徹底した人間中心主義を基本軸にして運営されていると思う。医療、宇宙物理、情報通信などの分野の科学技術の進歩はまさに日進月歩の観がある。さらに、その成果を応用した産業経済分野の発展もとどまるところをしらない。
しかし、こうした意味や価値を問う姿勢を背後に押しやり、目先の便利さや快適さを追求する今日の社会は、それに起因するさまざまな課題を抱えることになったことも明らかだと思う。
身近な例としては、ポピュリズムや極右思想や自国優先主義の蔓延、独裁体制の横暴、テロ活動の頻発、成長優先主義・成果主義・競争主義・貧富格差問題・パフォーマンス主義の蔓延、地球環境問題の深刻化、などを列挙することができる。
現在の私たちの人間社会が抱えているこうした問題は、多神教世界と一神教世界を伝統としてきた地域が、そうした伝統的状況の根本を問うことなく、一神教世界の意味や価値を問う姿勢を放棄することによって獲得された科学技術や人間中心主義に席巻され、それによってもたらされる目先の便利さ快適さに翻弄されてしまっていることに起因していると言えるように思う。
4.今日の地球社会の抱える課題への対応について
先述したような課題への対応として、私は、次のような取り組みをしてはどうかと思う。
第一は、人間存在の意味や価値を問うことは、形而上学として、正しい答えはえられないものとして、過去に放棄されているが、しかし、新たな科学的知見も踏まえて、より深く問い直すことは可能ではないかと思う。より深く問うことの価値を社会的に認識するべきだと思う。
第二は、人工知能のような科学技術の成果を積極的に取り入れようとするものである。現在開発されている様々な人工知能は、深層学習として、膨大な教師データを蓄積したり、人工知能同志が切磋琢磨し、より深く因果関係を読み進むことも可能なようである。人間の知識というものは、細分化、専門化されていて、それぞれが自分の専門とする分野の知見を正しいとして表明するが、いずれも、社会全体からみれば、部分的、一面的なものであることは、囲碁や将棋の人工知能ソフトをみれば、明らかだと思う。
第三は、多神教世界と一神教世界の相互理解を地球規模で進めることである。この点については、三点ほど、論点があるように思う。
一つ目として、多様性の受け入れについては、多神教世界の方が許容度が高いように思われているが、しかし、意味論や価値論におけるどの程度の相違までを許容するのかとか、多様性を受け入れる仕組みがどうなっているのか(秩序と多様性の両立は単純ではない)、などについて吟味しないと一概に判断できないように感ずる。自分たちの生存が脅かされるような事態になったとき、人間は、都合の悪い相手や仮想敵国をでっち上げ、それを滅亡させることに懸命になる。それは、一神教世界、多神教世界を問わないように思う。今日、極右政党やポピュリズムや自国優先主義が広がったり、第二次世界大戦のときには、ナチズムなどの独裁国家が暴走したり、大東亜共栄圏の思想が喧伝されたりしたことに思いをいたらせるべきだと思う。
二つ目として、コントラストのあてられ方について、一神教世界では全体よりも個に、多神教世界では個よりも全体に、焦点が向くように感ずる。キリスト教が、ルネサンス期以降、人間中心主義から、一人ひとりの信仰の在り方を重視する宗教改革に向かったのは、こうした側面があるように思う。それに対し、多神教世界では、明治維新までの日本の社会を例にとれば、儒教や国学が隆盛であったように、全体の在り方が問われ、その秩序のなかでの個が問われるという構図であった。
三つ目として、今日の科学技術や産業経済の指数関数的進展をどのように受け入れるかという点について、一神教世界と多神教世界とでは、どのような相違があるのか、吟味すべきだと思う。一神教世界では、それは人間の努力による成果であり、その進展と正面から向き合い、人類の存続とのバランスを考察しつつ、人知にって制御しながら対応していこうとするのだと思う。他方、多神教世界では、そうした驚異的な進展に眼を奪われ、その成果の追求に狂奔しつつも、なにか居心地の悪さを感じながらも、取り敢えずは、眼前の便利さや快適さを享受してしまうという感じではないだろうか。米国は一神教世界の国家だとは思うが、建国の歴史から見るならば、伝統的な意味論や価値論からの束縛のより弱い立場にあり、より大胆に、進展を押し進めようとするように思う。
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