「人間とはどのような存在なのか」とか、「自分とはどのような存在なのか」という問いは、わたしたち人間にとってのみ可能な問いなのではないか、と思う。
存在が存在の意味を問うという行為そのものに、なにかとても奇妙というのか、問いを発している自分の存在そのものになにか不思議な感覚を覚えたりする。
しかし、人間の歴史を振り返るならば、こうした問いは、宗教、芸術、哲学思想といった活動分野の根底に置かれてきたものであり、こうした活動の結果が、その社会の運営の根幹を形成してきたと言えるのだと思う。
「人間とはどのような存在なのか」という問いは「わたしたち人間はどのような社会運営をしていくべきなのか」という問いでもあり、「自分とはどのような存在なのか」という問いは「自分は一人の人間として、どのように生き、そして、死んでいくべきなのか」という問いでもある。
人間が、こうした問いを問い続けてきた理由としては、人間は自意識に目覚める一方、自然の恩恵や脅威への、感謝の念、畏敬の念、恐怖の念といったものを深めざるをえなかったことによるのではないだろうか。洪水、火山噴火、地震、津波、日照り、飢饉、疫病など、人間の歴史はこれらとの闘いでもあったし、これらは今日の課題ともなっている。
近代科学の知識を獲得する以前において、人間にとってこうした闘いは、かなりきびしいものであった。災いが起きれば、自分たちの日頃の行いが悪いため、それに神がお怒りになり、鉄槌を下したのではないかなどと解釈し、大規模な祈祷の儀式を行ったりするといった感じであった。こうした催しのときには、宗教や芸術が大きな役割を果たしたことは間違いないだろう。個人としての在り方については、平安時代の往生要集などをみると、地獄の悲惨さや極楽の素晴らしさを説き、日頃の生き方の善さや集団としての助け合いの精神などが説かれているようである。
しかし、近代科学の知識の獲得に成功して以来、人間社会の様相は一変した。自然の脅威については、その因果関係が定量的定性的に分析され、結果と因果法則を逆手にとって、人間にとって望ましい結果を人為的に作り出す術を身につけるようになった。
産業革命は、こうした変化の端緒となり、大量消費に象徴される物質文明の拡大が推進された。エネルギー、生産技術、医療技術などの急速な進歩は、それまでの遅々とした変化を一変させ、それらは、瞬く間に世界中に普及したと言って過言ではないだろう。
さらに、人間社会の在り方については、科学的知識に基づく物質文明的側面とともに、基本的人権をベースとした「自由・平等・博愛」の精神が普遍化され、民主主義の考え方が基調として広まった。こうした科学的知識に基づく新たな価値観の拡大は、植民地主義や帝国主義に起因する二度の世界大戦を引き起こしたり、自由主義と社会主義のイデオロギー対立による米ソ冷戦構造をもたらした。今日においては、こうした大きな争点はなくなったとはいえ、伝統的価値観からの抜け出し度合いの相違や新たな価値観の受容の仕方の相違など、より複雑な対立を生み出しているように感じられる。
今日の人間社会の様々な様相をみるとき、物質文明的な側面としての日常生活における便利さや快適さは加速度的に進歩し、その速さには空恐ろしい感じすら覚える。そして、そうしたなかで、「人間とはどのような存在なのか」というわたしたちの在り方の根幹に関わる問いがないがしろにされていることに対する不安を禁じ得ない。
インターネットや物流技術の進歩によって、グローバル化の勢いはとどまるところをしらない。しかし、今日の国際状況をみるならば、その縄張り争いとも言える国際紛争の次元の低さや国を追われる難民の多さには、人間はこうした面ではほとんど古代と変わっていないのではないかという印象すら受ける。核爆弾で相手を脅かしたり、国境に鉄柵の壁を作ったり、問題の解決能力には、ほとんど進歩がみられない。
身近なところでの人間の在り方をみるならば、企業組織のなかで、成果主義や目標管理に追われ、過労死と隣り合わせであったり、コスト削減のための派遣社員的立場で部分的参加者意識によって疎外され、不安定な立場や経済的格差に起因するストレスにさらされている状況があるように感ずる。職業の尊厳さは、安定した社会運営の基盤だと思う。
今日、人工知能の進化が著しく、現状のかなりの職業がAIに置き換わるのではないかと予測されたり、遺伝子編集技術の進化は、デザイナーベイビーの可能性すら指摘されている。こうしたこれまでにない別次元の状況とすさましい技術進歩のなかで、わたしたちは、問題のより根源的な解決を図る必要に迫られていると思う。そのためには、「人間とはどのような存在なのか」という問いに再び立ち戻って人類の智恵を絞る必要があると思う。それは、過去における人間の理性主義に基づく知とか、生命主義といった知見に、あらたな近代の知見や人間社会の状況を踏まえて、新たな視点も加えて、問い直す必要があるのだと思う。
「人間とはどのような存在なのか」という問いを、改めて根本から問い直すというとき、私は、二つほど、留意したい点を提起したい。
ひとつは、もし、人類がこの先、他の宇宙からの別の高度な知的生命体と出会ったときに、互いに相手に「あなた方の存在とはどのような存在なのですか」と問いあうことになると思う。そのとき、わたしたち人類は、どのように答えるかという観点から考察してはどうかと思う。わたしたち人類は、銀河系にある太陽系の地球という惑星に数十億年前に誕生した原始的生命体が進化し今日にいたっていることや、多様な生命体同志がどのように共存しているのか、などを説明することになるだろう。しかし、大切な認識は、人間がなぜ、こうして存在しているのかということを明確に説明することはできないのだと思う。他の宇宙から来た知的生命体も同じように答えるのではないだろうか。そのとき、私たちの存在とはどのようなものか、互いに互いの知見を表明し、その理解を吟味しあうというのは、SF小説的に興味深い話ではないだろうか。こうした点から、生命体としての謙虚さがより深まるように思う。
いまひとつは、「人間とはどのような存在なのか」という問いに、社会的に広く取り組む仕組みを作ることが大切ではないかと思う。伝統的には、宗教、芸術、哲学は、特定の人たちが担ったものだと思う。しかし、これからは、例えば、ある一定の年齢になった人たちは、こうした問いに向き合うことに専念する場を与えられてはどうかと思う。徴兵制における軍隊に隔離されるのと形は似ているが、することは全く異なる。また、国連大学のようなこうした問題の探究を専門とする国際機関があってもよいのではないだろうか。ともかく、「人間とはどのような存在なのか」という問いを、宗教や芸術のように身近なものにする方策が必要なのではないかということである。
|