ホーム ニュース 地球アーカイブ 地球とは? ご意見・ご感想 寄稿

第137号

2018年1月5日

「科学の時代と今後」 深瀬 久敬

 

私たちの今日の地球社会の在り方を特徴づけるものとして、私は、科学、技術、産業、民主主義の四つがあるように思う。以下、それぞれについての見解を述べたい。

 

1.科学について

(1) 科学の基本的態度

科学は、私たちが知覚する現象について、その意味を問うことはせず、その因果関係を、定性的、定量的に捉え、数学的な法則として理解しようとする態度だと思う。こうした態度は、十五〜十六世紀のヨーロッパにおいて獲得されたものであり、典型的な例は、ガリレオ・ガリレイによる物体の運動に関する理解である。それまで支配的であったアリストテレスの意味論的理解が完全に排除された。

 

(2) 科学の態度の獲得の背景

こうした態度が、なぜ、ヨーロッパにおいて獲得されたのであろうか。皮肉なことと言えると思うが、古代エジプトのユークリッド幾何学にみられる論理的思考、および、キリスト教神学における唯一絶対の神の存在証明へのプラトンやアリストテレスの古代ギリシャ哲学の援用、といった姿勢が限界に突き当たった結果、その副産物として獲得されたのだと思う。

こうした科学の態度は、その後、演繹法や帰納法といった方法論によって鍛えられ、伝統的な哲学を形而上学として退け、学問の規範としての地位を与えられるに至った。

 

(3) 方法論としての特徴

自然界の現象を、単にその因果関係から理解するという態度は、今日の私たちから見れば、当たり前のように感ずる。ヨーロッパのみならず、地球上のすべての人々が普遍の態度として受け入れていることは、当然と言えば当然のことなのだと思う。しかし、科学の態度を獲得する以前においては、自然というものは、人間にとって畏怖すべき存在であり、人間の在り方と切り離せない関係をもつが故に、わたしたちは常にその意味を問い、宗教的な視点などから見る態度が一般的であった。自然界の現象を、意味を問わず客観的に見るなどという態度は、畏れ多く傲慢であり、そのようなゆとりは持ち合わせていなかったのである。日本においては、明治維新以降、伝統的な迷信や因習の根拠に疑問の眼が向けられ、井上円了などによって、科学の態度が瞬く間に受け入れられて行ったと言えるだろう。

 

(4) 方法論としての限界

科学の態度は、その現象の因果関係を法則として捉えるのであるが、その前提とすることが正しくなければ、正しい理解にならないことは言うまでもない。ユークリッド幾何学の前提とする公理が間違っていれば、その体系は成立しない。平行線公理が否定された非ユークリッド幾何学の成立、そして、それが相対性理論の定式化に活用されていることも示唆的である。量子力学と相対性理論の統一理論も、互いに前提としているものの矛盾を解消することが求められているのであろう。従って、科学の態度は、全てを常に疑い続けるものであり、最終的な真理を提示するものではないことを確認しておく必要があると思う。

 

(5) 科学と意味論のせめぎ合い

また、科学が万能の学問かといえば、そうではない。わたしたち人間においては、その存在を現象としてではなく存在そのものとして捉える。なぜ自分は存在しているのか、自分はどのようなアイデンティティーをもつのか、自分はどのような在り方をすればよいのか、といった自分自身の存在の意味を問う姿勢は、生きている限りつきまとう。人間社会の動向や人体の構造などが現象としてビッグデータ解析や遺伝子解析などによって、因果関係としての部分的解明がなされたとしても、上述のような疑問に答えてくれるものではない。王室や天皇の存在を願うような心理は、こうした存在自体としてのアイデンティティーを納得したいという気持ちを背景としているのではないだろうか。

今日の科学は、その方法論が確立された結果として、宇宙物理学、生命科学、脳科学など、その適用範囲とその探究の深さにおいて、驚異的な発展を遂げつつある。科学と意味論を問う姿勢とは、相互に影響をおよぼしあいながら、今後、どのように棲み分けし合っていくのか、見守っていく必要があると思う。

 

2.技術について

(1) 技術の基本的態度

技術は、科学の態度によって獲得された自然界の因果法則を逆手にとって、人間社会の便利さや快適さを実現する手段を獲得しようとする態度である。この技術の態度の自覚は、十五〜十六世紀に活躍したフランシス・ベーコンの「知識は力なり」に象徴されている。「知識は力なり」の態度が、蒸気機関、紡績機械、製鉄技術などの源泉となり、産業革命がもたらされた。産業革命は、大量消費社会をもたらし、また、植民地主義や帝国主義といった近代社会のひずみを生み出すものでもあった。日本は、明治維新において、欧米列強のこの技術力に驚愕し、尊皇攘夷から開国に舵を切り換えざるを得なかった。そして、殖産興業、富国強兵の基盤となる軍事技術をはじめとする諸技術の導入に邁進したのであった。

 

(2) 新たな技術の光と影

今日の世界においては、デジタル技術、遺伝子操作技術、半導体技術などの飛躍的進展によって、まさにわたしたちの欲望に火がついた状況なのだと思う。私たちが欲望する便利さや快適さには、際限はないようである。デジタル技術をベースとした、検索技術、ネットショッピング技術、シェアエコノミー技術などは、わたしたちの日々の生活の在り方を急速に変えつつある。他方、これらの技術は、監視社会やプライバシーの侵害、サイバーテロなど、なにか得たいのしれない不気味さをも伴っている感じである。さらに、再生医療技術、無人兵器など、次々に開発される新たな技術に、わたしたちは、どう対応していけばよいのか、社会全体が注意していく必要がありそうである。ある日、突然、巨大な怪物のようなものが社会を支配していたということのないようにしなくてはならない。技術開発は、自由競争であるべきだとは思うが、国家の関与といったその開発体制の在り方や倫理的に評価する仕組みなど、社会的な取り組みが必要なようにも思われる。

 

3.産業について

(1) 産業社会の出現

 科学や技術の態度を獲得する以前の人類は、農業、漁業、牧畜業といった自然の恵みを基本とする産業を、封建的身分制といった社会制度のもとで運営するのを常とした。そうした産業の生産性は、歴史的にみれば、多少は改善されたにしても、ゆるやかな成長でしかなかった。それが、科学や技術の態度を獲得するに至ると、産業革命が勃発し、重化学工業を始め、その生産性は飛躍的に高まり、市場のグローバル化も急速に進んだ。明治維新のときの日本の社会が突きつけられた変革は、まさにそうした状況のなかでのものであった。さらに、地球規模でみるならば、資本家層と労働者層の対立から、資本主義と共産主義のイデオロギーの鋭い対立が起きたり、需要と供給の不均衡から深刻な経済不況を招き、世界戦争の端緒になったりもした。すなわち、産業の在り方とわたしたちの社会の在り方とは、産業社会とも呼ぶべき密接な関係を持つものになったのである。

 

(2) 国家の位置づけ

産業社会の出現によって、国家の役割も変化することになった。軍事力を伴った安定を旨とした社会運営は、産業社会の様相を強めるにつれ、大きな変貌を余儀なくされてきた。

例えば、産業の活性化のためにインフラ整備のための公共工事が押し進められたり、特定の産業力を強化するために補助金が出されたり規制強化が計られたりする。また、特定の技術開発のため研究機関やプロジェクトが運営されたり、金利政策を使って企業投資が促されたり、教育機関や保育所の整備といったことまで対応されるようになった。今日、国家、産業、教育機関の関係は、社会運営の中核的な位置づけになっている。こうした社会運営のために、今の日本は、国としての膨大な借金を積み重ねつつある。なにか釈然としない不気味なカラクリがあるように思えてならない。

 

(3) 人々の暮らし

 産業社会における人々の暮らしは、こうした産業構造のなかでのものが中心になっている。企業組織のなかで自己実現を図り、生き甲斐を得るため、高度な教育を受けようと向上心に燃えたりしている。他方、産業社会を支えるさまざまな組織のなかでは、年功序列、終身雇用、企業内組合といった価値観は急速に後退し、成果主義、任期付などの非正規雇用、資格取得など、ストレスの高い働き方が広まりつつある。安定した生涯設計がむずかしい社会に変質しつつあり、拡大する格差社会を自己責任のもとで乗り切ることが要請されている。こうした新たな課題を抱えるなかで、社会全体としての取り組み方も、より一層切実に問われるものになりつつある。

 

(4) 産業社会の構造

企業組織は、個人投資家や投資ファンドなどの株主のものであり、役員は、株主から経営を委託された存在である。そして、従業員は、その経営を実現する手段として参加し、納得する給料を得るという意識が一般的になりつつある。社会そのものが、家族的な共同体的な在り方から、機能化しているといってよいと思う。株主は、より多くの配当金を求めるだろうし、株式の価格が上昇し企業価値が高まれば、それを他に売却することもありうる。グローバル化するなかで、法人税のより安い国に本社を移転したりということもあるようである。なにかわたしたちは、法人という実態のよく分からない、制御不能の組織といろいろ駆け引きをしながら、社会運営に参加しているという感じである。

 

(5) 産業社会と教育

教育は、今後の社会を担ってもらう人材を育成するという社会的要請に基づいて行われるべきものの筈である。それが、産業社会の発展に役立つという観点が重視され、産業組織のなかにおいて必要度の高い専門知識のみに重点が置かれた教育が広まるとどういうことになるのであろうか。法律、経済、理工系といった部門以外は、どのように位置づけられるのであろうか。教養主義のような思想を支える基盤が希薄化しつつあるように思う。

 また、人工知能、IoT、第5世代通信技術などによって自動化が飛躍的に進んでいくと、仕事上に求められる能力が急速に変化し、仕事を失う可能性もありそうである。さらに、海外からの低賃金労働力の流入とか、ベーシックインカム制度だとか、新たな雇用問題が社会的に大きな影響をおよぼす事態になり、生きることの意味が改めて問われる時代が来るようにも感じられる。定年退職した人の生き甲斐や尊厳死など、産業社会のなかでの存在価値を失ったときの人間の在り方が、切実な問題になるように思われる。

 

4.民主主義について

(1) 民主主義と科学の態度

 現象界を、客観的に因果関係を根拠に見るという科学の態度が、人間社会に向けられたとき、民主主義の思想が生み出されたのだと思う。そうした状況を背景にしたフランス革命は、王制を排し、理性を平等とみなし、基本的人権、言論などの自由、選挙権など、今日の民主主義の基本的理念を誕生させた。選挙によって選ばれた者に統治権を付与する契約を結び、その契約内容が満たされない場合には解任できるというジョン・ロックの社会契約論の理念もその一環と言えるだろう。

 

(2) 日本の社会の民主主義

 明治維新当時の日本の社会は、民主主義という思想には躊躇があった。自由民権運動なども起きたが、明治政府は、当時のプロシャ帝国の在り方を範とした大日本帝国憲法を成立させた。これは天皇が全権を持つとするものであり、太平洋戦争敗戦までは、天皇は現人神であり、選挙も男子に限られ、今からみれば、本来の意味での民主主義とはほど遠いものであった。このような見方に立てば、日本は太平洋戦争に完膚無きまでに敗北した結果として、近代的民主主義にめぐり合うことができたとも言える。女性が選挙権を得たのは、戦後のことであるし、天皇という因習的権威が権威でなくなったのも戦後のことなのである。わたしたちは、民主主義という制度のもとで、自由、平等、基本的人権といった基本理念を享受している訳であるが、その意味するところを、科学の態度などを含めて、改めて自覚する必要があるように思えてならない。

 やや横道に逸れるが、戦没者は靖国神社に祀られているという。わたしが思うに、戦没者には、国家の要請を無条件に受け入れ戦地に赴いた人ばかりではなかったと思う。そういう自由のない社会で戦没した人たちを一緒くたに祀ることは、自由を享受している今日のわたしたちからみれば不適切だと思う。まして、靖国神社は、今現在の民主主義の社会とは別の社会で権威づけられた仕組みである。今日、民主主義を享受しているわたしたちの立場からすれば、改めて別の仕組みによって戦没者を祀るのが筋ではないかと思う。このことは、今日、わたしたちが享受している民主主義とは、どのようなものか深い理解を通して可能になることだとは思う。

 

(3) 世界における民主主義

 民主主義は、今日の地球社会では普遍的な理念と思われるかもしれないが、地球社会全体を見るならば、決してそうではない。中国は、共産党一党独裁の仕組みのもとで運営されており、自由な発言は抑圧され、監視カメラなどによる個人情報の管理も相当なレベルに達しているようである。北朝鮮、ロシア、インド、等々においても民主主義を標榜していると思うが、その中身については、よく吟味する必要があるように感ずる。

 この点について、福沢諭吉の著書「学問のすすめ」のなかの、次のようなことばを想起したい。『西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。』

 権力を握った政府にしても、甘い顔をすると調子に乗った人々によって、社会が混乱させられ、社会秩序が崩壊させられるという危惧が強く働くことになる。そうした状況は否定できないように感ずる。しかし、政府が意図的な教育手段を通して、「知らしむべからず、依らしむべし」的な社会風潮を作ろうとするのならば、やはり問題だと思う。

 民主主義は、本来、多様な思想を許容する仕組みの筈である。宗教、民族、人種などに起因する差別は、民主主義の根底にある科学の見方に矛盾すると言わざるをえない。過去に、日本は大東亜共栄圏を構想したり、ナチス・ドイツはアーリア民族の優位性を謳ったりし、今日、アメリカに白人至上主義が盛り上がったり、EUの結束が揺るいだりし、多様性に対する許容度が低下しつつある。人間存在のより深い理解、専門知識教育だけではない教養主義的理解の重視などが期待される。具体的な課題になるが、宗教の自由とはいえ、イスラム教徒の女性が、真っ黒な服を全身を覆うように着ているのは、異様に映る。他の宗教を持つ人と接触するときに配慮した対応を期待したいと思う。

 

5.まとめ--多様性の大切さ

 今日の地球社会においては、グローバル化に伴うさまざまな経済格差、宗教や民族や政治体制の相違による紛争、地球環境問題、自由に行き来するマネーの問題など、人類や他の生物の存続を危うくするような状況が身近なものになっている。

人類全体、地球上の生物全体の存在の意味を問う姿勢を忘れてはならないと思う。多様性をどのように維持発展させていくか、科学とは別の学問姿勢を立ち上げる必要があるように感ずる。人工知能や抽象的思考なども参考にしつつ、意味論の問いにどう向き合っていくかが、問われているように思われてならない。


「負けること勝つこと(93)」 浅田 和幸

「問われている絵画(128)-絵画への接近48-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

- もどる -

編集発行:人間地球社会倶楽部

Copyright © Chikyu All rights reserved.
論文募集