人間の在り方には、二つの側面があると思う。ひとつは、社会のなかで具体的に生きていくための活動であり、産業活動などがその典型である。いまひとつは、宇宙のなかのひとりの人間としての自己と向き合い、なぜ存在しているのかとか、死んでどこにいくのかといった問いを吟味する存在である。
今日の社会の二つの側面の状況は、どのようなものであろうか。人間の社会的活動の基盤となっている産業経済社会は、科学と技術の飛躍的な進化によってかつてない活況のなかにあると言えると思う。医療技術、人工知能技術、第5世代通信技術などをベースに新たな産業革命の時代に入ったとも言われている。他方、ひとりの人間としての自己と向き合うといった側面は、人間存在の小ささ、はかなさ、弱さといった面を深く自覚する端緒となるものであるが、前者の猛烈な便利さ、快適さを実現していくパワーの前で、影を薄くしているように思われる。
人間の在り方の上記二つの側面は、古来、俗と聖の世界として共存しあってきた。そして互いに牽制しあうことによって、人間社会の苦悩や悲しみや不安感といったものを解消し、生きる希望を維持してきたのだと思う。具体的に言えば、俗が傲慢になり、暴走するとき、社会全体は悲惨な状況に見舞われるが、その後では、人間の弱さ、小ささを自覚する機運が強まり、俗の世界での行き過ぎを反省し、それに歯止めをかける仕組みを設けたりすることが繰り返されてきた。
今日の国際社会や日本の社会をみるとき、俗の世界の暴走という側面がかなり目につく。組織は特定の目的を効率的に遂行するための仕組みとして必要不可欠なものであるが、米国、中国、北朝鮮、EU、日本など、どこをみても、国家をひとつの組織として捉えた上で、狭い組織の論理に突き動かされて、他を排撃するという風潮があるように思う。狭い組織の論理にとらわれるのは、人間としての傲慢さが基本にあるからであり、人間としての謙虚さを欠いているからと言えるように思う。それは、社会全体の雰囲気が作り出しているものでもある。
例えば、かつて犬養毅首相らが暗殺された五・一五事件のあと、暗殺を実行した海軍の青年将校や陸軍の士官候補生の一団を擁護するような言論がかなりあったと言われている。満州での権益を軍事力で一気に決着をつけたいという風潮が社会に広まっていたからのようである。また、英米との戦争に反対の立場に立っていた山本五十六氏が、太平洋戦争開始時の司令長官にされ、やや不可解なブービンゲル島での戦死といったことにも、そうした社会風潮に抗しえなかった無念さがあるのではないだろうか。同じようなことは、小日本主義を唱えた石橋湛山氏にも言えるように感ずる。国家も、狭い組織の論理に覆われると、愛国主義を強要したりする暴走をはじめるので、注意が必要だと思う。最近、話題になっている森友学園問題の背景にも、こうした傾向が潜んでいるように感ずる。
こうした特定の組織の論理を声だかに叫ぶ人たちが、競争社会や成果主義の傾向が強まるなかでは勢いを増すように思う。人間が、人間存在の小ささや弱さを省みない傾向が強まるとき、危機的な状況に置かれることになる。かつては、こうした状況にあっても、地球全体の広大さがクッションとなり、破壊の限りがつくされても、地球のもつ復元力によってバランスを取り戻せた。しかし、科学技術の急進やグローバル化の深化に伴い、私たちは地球のもつ復元力に依存することが次第に困難な状況に置かれてきているように感ずる。
すなわち、特定の組織の論理にこだわり、声だかに自己主張をする人たちを抑制し、人間存在の根底に謙虚に向き合い、地球全体の生命の存続や多様性の維持を押し進めることは、人類全体に要請されている責務であり、そのための智恵を深く探究する必要があると感ずる。本来、宗教は、人間の弱さ、存在の小ささを教え、人間を謙虚さに導くものであった。一方、伝統的な宗教は、その創始時の伝統に根ざした一定の教義を無条件に受け入れることを前提としており、すべての謙虚さに開かれたものになっていないように感ずる。特定の宗教の枠組みを超えたような人間存在の謙虚さを支える思想のようなものが、今日、要請されているのではないだろうか。
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