二千十八年六月十二日は、後で振り返って見ると、大きな歴史の転換点となった日として記憶されるかも知れません。
昨年の秋頃、アメリカ合衆国のトランプ大統領は、北朝鮮の金正恩委員長を、「リトルル・ロケットマン」と揶揄し、一方、金委員長は、トランプ大統領を「老いぼれ」呼ばわりし、日本のマスコミでは、アメリカによる武力攻撃が、すぐにでも始まるのではないかといった憶測記事が掲載されていました。
ところが、それから九ヶ月余り経過した今日、シンガポールで二人は満面の笑みで握手を交わす映像が、世界へと配信されたのでした。なにか、「狐につままれた気分」というのが、昨年の秋に、朝鮮半島で、戦争が起きるのではないかと本気で心配していた大多数の日本人の気持ちではなかったでしょうか。
当時、安倍首相は、「朝鮮半島での緊張が高まる中、日本の安全保障という意味においても、安定した政権が必要」ということも政策に掲げ、衆議院を解散し、総選挙を実施し、それで与党が勝利しました。
しかし、実際のところ、その後は、戦争に向かうことなく、逆に話し合いの機運が高まり、そして、今回の米朝首脳会談の実現といった歴史的な事件に繋がったのでした。
つまり、昨年の秋の時点で、日本外交は完全に将来への展望を見誤っていたということになります。その当時、わたしがインターネット上で見つけた「今後の米朝関係」という記事には、現在、わたしたちが目にしている米朝関係が予想されていました。
これは、アメリカのシンクタンクの分析に基づいた記事であり、当時のアメリカの外交の今後を分析していた研究者たちが、安倍首相とは真逆の将来展望をしていたことが理解できます。
そして、わたしもこの記事を読んだ時に、安倍首相が煽っている朝鮮半島の有事や危機と言ったものが、冷静な分析や客観的な事実に基づかない、極めて恣意的な空想であると感じたものでした。
その一つの根拠は、アメリカのトランプ大統領の政治姿勢でした。それは、彼が大統領選挙を通じて一貫して掲げてきたスローガンでした。「アメリカン・ファースト」=「アメリカ第一主義」。この余りにも有名な言葉がそうなのです。
つまり、彼は、この言葉により、これまでアメリカが第二次世界大戦後続けてきた「世界の警察官」という役割を止めて、アメリカ国内の利益だけを追求していくことを宣言したのでした。
そこが、共和党、民主党といった政党に関係なく、トルーマン大統領からオバマ大統領まで続いたアメリカ大統領の基本的外交姿勢と決定的に反するものだったのです。
トランプ大統領は、これまでアメリカが繰り返してきた世界の「警察官的役割」が、アメリカ経済を圧迫し、特に、白人の労働者の生活を困窮へと追いやってきた原因であるとし、そこから手を引くことを政策に掲げたのでした。
そして、それをアメリカ国民の多くが支持したことで、彼はアメリカ大統領に選ばれたのでした。その結果、当選後の彼は、自身が掲げた政策を実現するために動き始めました。
そういった彼の思想を客観的に見てみれば、彼が朝鮮半島で戦争を始めることなどまず有り得ないのです。ただ、彼が心配なのは、アメリカの本土へ届くような核ミサイルを北朝鮮が保有することであり、それが阻止できれば、それ以上の成果を求めないというのが本音なのでした。
多分、この辺りが、これまでアメリカの外交問題を長く研究し、分析してきた専門家の人たちが、将来予測を外してしまう原因だったようにわたしには思えます。
それは、前提が全く違うからです。これまでのように、「世界の警察官」を目指して外交問題にトランプ大統領が取り組もうとしているなら、アメリカ本土の核攻撃阻止だけでなく、日本を含め、極東アジアから核の脅威を排除するための施策に拘るはずでした。
ところが、トランプ大統領は、口では一応「非核化」と言いながら、実際のところ、長距離ミサイルによるアメリカ本土攻撃が阻止されるのであるなら、北朝鮮が核を保有することも認めるようなニュアンスの発言に変化しています。
それについて、アメリカのメディアを含め、各国のメディアが、今回の交渉は北朝鮮の金委員長の要求を、トランプ大統領が譲歩し受け入れたといった立場で伝えています。
しかし、それは、これまでのアメリカの外交戦略に則れば、そういった見方も可能ですが、アメリカの外交方針が大きく変化したという観点で見れば、逆に、アメリカが「世界の警察官」であることから足抜けする記念すべき第一歩になるのではないでしょうか。
ここでわたしたちが冷静に分析しなくてはいけないことは、トランプ大統領を支持したアメリカ国民の間にも、こういった戦後続いた外交への疑問や不信が渦巻いており、それを彼がうまく掬いあげただけで、決してトランプ大統領の個人的なきまぐれではないということです。
彼が、これまでのアメリカ大統領に比較して、変わって見えるのは、彼の個性と言うより、彼を支持している人たちの要求や要望が、大きく変化してきたことが原因であるということです。
それは、アメリカ人の間に、外国の政治や争いごとに口を出さず、自分たちの暮らしを第一に考え、自分たちの幸福だけを追求していけばそれでいいといった価値観を抱く人が増えてきたことを意味しています。
だから、トランプ大統領は、「国際連合」に対しても、否定的な見解を表明し、これまでのような国際協調路線を否定する言動に終始しているのでしょう。それは、「国際連合」という組織は、第二次世界大戦後、アメリカが主導して作った国際機関だったからです。
そして、この「国連主義」とい名の下に、アメリカは、世界各地で生じた紛争や争いに軍隊を派遣し、「世界の警察官」としての役目に君臨してきたのでした。
だから、その役目を止めるという事は、アメリカが主導してきた「国際連合」による世界秩序の維持といった目的も放棄するということに繋がっていくのです。
そういう視点で眺めて見ると、トランプ大統領の施策は、首尾一貫していることが理解できます。そこにブレはありません。ただ、これまでの常識的な目から見ると、彼の行動は、突拍子も無いことに着手し、世界に混乱の種を撒き散らしているように見えるのです。
しかし、「常識的な目」というものも不変ではありません。わたしの子ども時代から現代に至るまで、大人気の「007シリーズ」。イギリスの諜報員ジェームズ・ボンドが胸のすく活躍を見せるスパイアクション映画。
この映画、六十年代から七十年代は、ボンドの敵は、ソ連を始めとする東側諸国でした。しかし、ソ連が崩壊した後、ボンドの敵は、麻薬王であったり、世界征服を目指す悪の組織といったように、どんどん変化しています。
それは、現実の世界が変化したことで、映画というフィクションの世界においても、その作品のリアリティを確保するためには、ストーリー自身を変化させていかないといけないことを表しています。
つまり、ある時代において常識的だった価値観も、社会環境の変化により、時代遅れになったり、非常識になったりすることが生じてくるということです。
その結果、これまでの常識に立ってものを見ている人たちにとっては、現実に起きている事象は、極めて不可思議で理解不能なものに思えてくることになるのです。
但し、それが良いとか悪いとかいった価値判断をすることは余り意味のあることには思えません。何故なら、変化している中を生きているわたしたちは、俯瞰してものを見ることが出来ないからです。
ただ、変化していることは肌で感じています。それが六月十二日の米朝首脳会談だったのです。半年前まで、憎悪に満ちた言葉をぶつけ合っていた二人が、満面の笑みと握手で、全世界にメッセージを送ったのでした。
わたしが生きてきた中で、自分が生きている内に解決することがないだろうなと予測していたいくつかのことがありました。その一つがソ連の崩壊による東西冷戦構造の終結でした。
多分、スパイ映画を繰り返し見ていたわたしは、このアメリカとソ連との対立が、未来永劫に渡って持続していく関係だと頭から信じ込んでいたことによる固定観念でした。
しかし、それは呆気なく崩壊しました。そして、今回の米朝首脳会談も、近い将来に実現することはないものと考えていました。それは、わたしだけでなく、多くの日本人が感じていたことでしょう。
だから、昨年秋に、米朝関係が緊張の度合いを高めた時に、J アラートによるミサイルからの避難訓練について、それを揶揄する声は少なかったように記憶しています。
つまり、本当に戦争が起こり、それにわたしたちも巻き込まれることになるかも知れないと、本気で考えていた人が多かった証拠のようです。
ところが、前にも書きましたように、同じ頃、アメリカの外交問題を扱うシンクタンクは、百八十度異なった見解により、今後は、戦争ではなく話し合いを通しての関係改善へと進むという結論を導き出していたのです。
そこには、日本政府を始め、外交専門家と言われている人たちが陥りやすい陥穽が潜んでいたようです。それは、過去の出来事から将来を予測するという方法です。
確かに、過去の「歴史」は、未来を予測するためには必要な事象ですが、そこに加味しなくてはならないことがあるのです。それが社会環境の変化です。特に、テクノロジーの変化は、大きな影響を与えるのです。
例えば、第二次世界大戦が終結して七十三年。これまでにも第三次世界大戦の可能性を示唆するような出来事や事件はありましたが、現実には新たな世界大戦は起きていません。
その理由は核兵器です。第二次世界大戦中に人類が手にした核兵器。これまでの戦争を根本的に覆す究極の兵器の誕生が、実は、世界大戦の大きな抑止力になっているのです。
もし、核兵器で互いに応酬しあうならば、それは人類の滅亡に繋がるという現実を前にして、それが抑止力となり、核兵器の使用を抑制しているのです。
そういう視点から眺めて見ると、この有り得ない米朝首脳会談が実現した背景にはS NS の普及ということがあるように思います。それは、これまでの外交は、秘密裏に交渉が行われ、外交官という専門家の手に委ねられた特別な交渉術だったのです。
しかし、トランプ大統領の登場により、外交交渉は丸見えになりました。トランプ大統領が個人的に発信するツイッターにより、秘密裏だった交渉事が、全てとは言いませんが一部見える化したのでした。
今回の首脳会談でも、北朝鮮がいつもの手段でごねて、交渉を有利に進めようとすると、トランプ大統領は、ツイッター上で、「やる気がないなら止める」宣言を発表しました。
そのツイッターに対して、北朝鮮は、急に態度を軟化させ、会談への道筋に真剣に取り組むことになったのでした。これは、正直驚きました。秘密裏に進められるはずの外交交渉が、誰にでもその経過が分かるものへと変化したのでした。
これも専門的に外交技術を学んできた外交官たちにとっては、有り得ない事態であったことと思います。このことは、隠すことがテクニックと考えていた外交技術が、ソーシャルメディアに敗北したことを意味したのでした。
これ以降、もう秘密裏に事態が進むことはなくなりました。ポンペオ国務長官が、ピョンヤンに電撃訪問したといったニュースが、ほぼリアルタイムで飛び込んでくるようになったのです。
その発信元は、アメリカ政府ではなく、トランプ大統領の個人的なツイッターによるものでした。まるで、わたしたちは、これまで閉ざされていた外交交渉の舞台裏を簡単に覗くことが出来るようになったのでした。
十二日のシンガポールでの首脳会談でも、ツイッターは大活躍していました。リアルタイムに様々な情報や写真が発信され、わたしたちは臨場感たっぷりにそれを味わうことが出来たのでした。
この変化は、ひよっとするとこれまでの外交交渉を根本的に変えることになるかも知れません。現在は、トランプ大統領という少し変わった人間がやっているということが、やがて、それを使うことが当然になり、逆に、人々は秘密裏に行う交渉を認めなくなるかも知れないのです。
さて、過去の歴史から学ぶという点で、もう一つ注目したいことがあります。それは、トランプ大統領が、決して、歴代のアメリカ大統領にあって異端的な大統領ではないということです。
彼が盛んに口にする「アメリカン・ファースト」の原点には、第五代大統領のジェームズ・モンローが千八百二十三年に議会で行った「モンロー宣言」があるように思います。
この「モンロー宣言」とは、簡単に言うとアメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して、相互不干渉を提唱するものでした。当時のヨーロッパ諸国は、ナポレオン戦争後に作られたウイーン体制の下、かつての秩序に戻そうという復古的な動きが盛んでした。
しかし、アメリカ合衆国も含め、ヨーロッパ諸国の植民地であった中南米の国々では、ナポレオン戦争の影響を受け、独立への機運が高まり、宗主国との間で争いが頻発していました。
そういう中で、モンロー大統領は、ヨーロッパ諸国に対して、中南米の国々は、独立し、自分たちで国を運営していくために、ヨーロッパ諸国による干渉を排除する目的で、相互不干渉を標榜するモンロー宣言を発表したのでした。
これはヨーロッパ大陸の動きに関わらない代わりに、アメリカ合衆国を始め、アメリカ大陸の国々へのヨーロッパからの干渉をシャットアウトするというものでした。
まさに、「アメリカン・ファースト」の原点となる宣言でした。そして、その後の合衆国は、インディアン移住法を定めて先住民の掃討を進めると同時に、隣国メキシコとの間で米墨戦争を始め、メキシコ領土の割譲といった内向きの施策により、アメリカ大陸内で勢力の拡大にまい進して行くことになりました。
これにより、アメリカ合衆国はその力を蓄え、十九世紀末にはスペインとの間で米西戦争、さらにはハワイ併合といった対外的にも勢力を伸ばしていく礎を構築したのでした。
ただ、アメリカ合衆国の外交戦略としてのモンロー主義は、十九世紀の内に終結していましたが、アメリカ国民の意識の中には、この宣言はその後も残り続けたのでした。
そして、二十世紀となり、千九百十四年にヨーロッパで始まった第一次世界大戦。その戦争へのアメリカ合衆国としての参戦について、国民の支持が得られず、イギリスやフランスからの再三の要請にも参戦をためらい、戦争終盤に至り、ドイツ海軍の潜水艦による無差別攻撃で、漸く重い腰を上げたのでした。
更には、第一次世界大戦後、アメリカのウイルソン大統領が提唱し主導した国際機関「国際連盟」への参加の批准を議会が否決するといったように、宣言の影響は世紀を超えて続いたのでした。
以上のように、アメリカ国民の意識下には、このモンロー宣言の遺伝子が残存しているというのがわたしの見解です。そして、第二次世界大戦後、その遺伝子は抑制されてきましたが、トランプ大統領の登場により、再び表面へと現れたのです。
多分、そういったアメリカ国民の無意識的願望を言葉にしたのがトランプ大統領の最大の武器だったと思われます。これまでの指導者が口にしなかったのは、アメリカ合衆国こそが、戦後の国際社会のリーダーであるという強い自負があったからでした。
しかし、トランプ大統領は、そういう自負に共感しない国民の存在を発見し、そこに向かってキャンペーンを打ったのでした。そして、それは見事に成功しました。
さて、こういう形でアメリカ外交が今後進むことになると仮定した時、一番困るのは日本ではないでしょうか。戦後一貫して、アメリカ合衆国の軍事の傘に庇護されてきた日本。日米安全保障条約により守られてきた日本。その立場が揺らぎ始めているのです。
第二次世界大戦にアメリカに敗北し占領された日本は、朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争、その後の北と南の分断により、戦後の東西冷戦の最前線に立つという役目を免れました。
その結果、高度経済成長により、急速に経済発展を遂げ、戦前の貧困な暮らしから脱却することが出来たのでした。その豊かさの代償として、日本人は無意識の下に現在もアメリカ軍の国内駐留を甘受しているのです。
アメリカの軍備の傘に入っていることが日本の平和を保障しているという前提が無かったなら、現在に至るまで、国内での米軍基地返還運動は連綿として続いてきたことでしょう。しかし、現実は、迷惑施設であることを理解した上で、その不便さ等を甘受しているのです。
これは、安倍首相を始めとして、政府与党の政治家だけでなく、国民の大多数が無意識の内に認めている事実なのです。だから、一部の反対者はいても、それが大きな運動といううねりになってはこなかったのです。
正直なところ、現在、日本に暮らしているほとんどの日本人は、現状のこの生ぬるい状態に満足しているのです。つまり、この生ぬるい状態を自らの手で解消したいとは考えていないのです。
それ故、朝鮮半島に平和が訪れ、韓国に駐留している国連軍( 実質はアメリカ軍) と在韓米軍が撤退していくことで、日本の国内からも米軍が撤退していくシナリオも考えられる事態に、非常に戸惑っているのではないでしょうか。
勿論、現時点では、まだなに一つ動いてはいません。ただ、先ほどから書いてきたように、戦後のアメリカ合衆国が一貫して行ってきた外交政策に、大きな変化が訪れたとしたなら、その時、日本にとっても大きな変化がもたらされるということです。
これまでのように、ただひたすらアメリカ合衆国の後を付いて行くことが日本の外交方針であるといった単純な発想では済まなくなる事態が想定されるのです。
しかし、実のところ、他人の様子を伺いながら、大多数に合わせることで、集団から排除されまいと振る舞うことが得意な日本人にとって、自らが先頭に立って進むということは、一番苦手なことで、とても大きな心的負担となるようです。
更に、少子高齢化が急速に進行していく中、益々、軍事に関してはアメリカへの依存が大きくなっていくことも予想されています。( 少子化が進めば、自衛隊、警察官、消防士といった現場職員の確保が困難になっていく)
そういう意味で、今回の米朝首脳会談により、朝鮮半島の非核化が進み、朝鮮戦争が休戦から終戦へと移行していくことは、極東アジアに遺されていた東西冷戦が解消され、新たに平和がもたらされるといった点では、わたしたち日本人とっても喜ばしいことです。
ただ、それにより、戦後一貫して日本人が責任放棄してきた国防という事実にどのように向き合っていくのかを、真剣に問われることになるのだと、わたしたちも想定し、準備しなくてはならないことを忘れてはならないと考えています。
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