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第139号

2018年7月12日

「信頼社会について」 深瀬 久敬

 

信頼社会ということについて考えてみたい。

信頼社会とは、その社会を生きる人々の間に信頼関係が成り立っていて、安心してさまざまな交流を通して、精神的にも物質的にも豊かな生活を営むことが可能な社会であると思う。

このことは、この地球上に、ホモサピエンスと呼ばれる私たち人類が大規模に生存圏を広げている根底にある特徴ではないかと思う。

人類は、互いの信頼関係を確立することによって、協力しあい巨大な動物を倒し食糧にしたり、貨幣を使用して幅広い交易を営んだり、共通の世俗的あるいは宗教的な権威を擁立したりして、その生存基盤をより一層確固としたものにしてきたのだと思う。このことは、他の生きものにはない特徴と言えるだろう。

人類の誕生の歴史は、数百万年におよぶが、原人、旧人、新人などと段階的に進化して来た。その過程においては、例えば、ネアンデルタール人と呼ばれる人たちは、肉体的な能力においては、ホモサピエンスを凌駕していたが、信頼関係の形成という点において劣っていたために滅亡していったようである。

信頼関係の意識が芽生えたのは、大脳の巨大化に起因するものなのかはよく分からないが、信頼関係の意識は、人間相互のそれを飛び越え、あらゆる生命を包括する仏教的な思想にまで昇華されたりし、哲学的な文明や様々な芸術を含む文化の成立の基盤になったとも言えると思う。

 

信頼関係の進化が、人類の文明の深化をもたらし、人間観や世界観をより深遠なものにする契機になったのだと思うが、そのことについて思いつくままにいくつかの具体的な側面から吟味してみたい。

統治体制について、古代中国では、堯舜禹の治世が理想とされた。それは、強制力によるものではなく、社会全体が信頼関係に基づくものであったようである。仁徳天皇の「民のかまどは賑いにけり」といった視点も、同じような信頼関係に基づくものであったように思える。すなわち、社会統治の仕組み、社会秩序の維持には、信頼関係が根底にあるべきであり、強権的権力の在り方は最善とはみなされなかった。

民族の由来についての神話は、世界中に残っている。神話も、その根底には、人間を超越した神と人間との信頼関係(その裏返しもある)に立脚したものだと思う。古事記にあっても、自分たちの由来が神的な存在との融合によってもたらされたものであり、広く見られる王権神授説も同様の立場にたっているのだと思う。神との信頼関係が、人間社会の秩序を形成する信頼に敷衍されるということであろう。

世界の根源はなにかを探究したギリシャ哲学は、信頼関係に基づくゆとりある社会運営があったからこそ誕生した学問だと感ずる。信頼関係が、人間という存在を飛び越え、世界の根源にあるものに目を向けさせたというのは、人間の信頼の意識の昇華とみることも可能ではないだろうか。信頼の根源をより確固たるものとして理解したいという欲求の現れとも言えると思う。

一神教としてのユダヤ教、キリスト教、イスラームの誕生というのも、信頼意識の昇華のひとつの現れとみてよいように感ずる。一神教は、人間同志の横の信頼関係より、神との一対一の縦の信頼関係に中心を置いているように思われるが、社会全体の在り方として、信頼に基づく安心をもたらすという点では、多神教的世界観と大きな相違はないと言ってよいように感ずる。一神教のもとでは、人間同志の横の信頼関係は副次的なもののように感ずるが、全体の統制力の徹底という観点からはすっきりしているのかもしれない。

日本の社会における国学の基礎となった「もののあわれ」の心情や武士道的倫理観も、根底には人間同志の信頼関係を大切にしたいという気持ちがあるように思う。義理人情や任侠的な信頼関係というのも、こうしたところにつながるのかもしれない。他者への配慮が江戸しぐさになったり、日本的倫理観の根幹になったことに留意したい。

科学の誕生は、人間の認識能力の限界を覚ることによってもたらされたと思うが、それは盲目的に因習的権威を信奉することを乗り越え、さらに確実な信頼関係に到りたいとする気持ちの現れと考えることも可能のように思う。それが、人間存在などの意味論を探り、それに基づく権威を打ち立てようとすることが欺瞞に陥ることを喝破するものであったと理解することができる。

科学的な人間観、世界観が、今日の民主主義に結実し、基本的人権、個や人命の尊重、自由・平等といった近代的価値観をもたらしたことは、信頼関係の新たな局面を打ち開くものであったことは否定できないと思う。しかし、人間存在の根底をどのように捉えるかによって、保守主義になったり、進歩主義になったり、信頼関係の在り方にも、さまざまなバリエーションが存在することにも注意する必要がありそうである。

 

 次に、信頼社会という観点から、今日の私たちの社会の在り方を眺めてみたい。次のようなことが言えるように思う。

トランブ大統領率いる米国は、アメリカ・ファーストを掲げ、米国が被害を受けている側面を押し出し、他国に抑制を促している。また不法移民の取り締まりも治安などを理由に乗り出している。米国は、人種差別、銃の無規制、アメリカン・ドリームなどに代表されるように、西部開拓時代からの自己責任を強調し、信頼社会とは一線を画す社会を形成してきたように感ずる。新しい産業を生み出すイノベーションの面では、傑出した側面もあり、これからの地球社会の在り方に、今後、どのような影響力を及ぼすのか、注意しなくてはいけいな。

中国は、近年、経済大国として急激な拡大を図っているが、その体制は共産党一党独裁によるきびしい情報統制のもとに、一人ひとりの自由を許容するゆとりのない開発独裁的体制が支配的のようである。信頼社会というよりは、強権政治体制に基づく統制監視社会を指向しているようである。軍事面でも強化が計られており、米国をはじめとする諸外国とのさまざまな軋轢が今後、顕在化するのではないか、懸念される。

日本の社会については、昨今、安倍政権のもとでの森友学園・加計学園問題がかまびすしい。官邸主導に端を発した官僚組織による忖度による暴走との見方もあるが、そうした雰囲気を作り出している首相周辺の権力構造の歪みが看過できないと思う。日本の社会は、江戸時代から信頼社会を重視する価値観を大切にしてきたが、なにか世の中の成果主義の傾向に巻き込まれているのか、信頼社会の在り方とは乖離しようとしているかのようである。日大のアメフト部の問題にも、なにかそうした信頼社会に背を向けるているような傾向を感ずる。

日本と、韓国や北朝鮮との関係は、歴史的にも信頼関係を回復することが困難になっているようである。慰安婦・徴用工問題とか拉致問題とか、いつまでも曖昧なまま燻り続けている。信頼関係をひとたび失ったあと、それをいかに回復するかという問題は、生易しくはないと思う。信頼関係を回復するには、どうしたらよいのかは、人間性の深くにまで踏み込まないといけない問題であり、人間社会全体の問題とする気概をもつ必要があると思う。

 

 では、これからの地球社会において、信頼社会を維持発展させていくためには、どのような点が重視されていくべきなのであろうか。二点ほど、検討してみたい。

第一に、信頼社会は、人間同志の敬意をもった関係が基本になる点だと思う。それは老若男女を問わない全てに当てはまるものであり、基本的人権とか、個の尊厳とか、生命の尊重といった近代社会の基本原理に相当する点でもある。身近な例で言えば、セクハラやパワハラは、こうした人間同志の敬意をもった関係を無視した暴挙である。

人間同志の敬意を伴う関係は、そのほか、格差社会、強権社会、密告社会、恐怖社会、疑心暗鬼社会と言われるような社会では希薄化する。「知らしむべからず、依らしむべし」といった秘密閉塞社会もそうであろうし、異文化を背景とした多様な人々がオープンなコミュニケーションのないまま一つの特定の空間に集まるときも同じだと思う。

 一人ひとりの主体的で全人格的な参加者意識が発揮されることのない社会は、自由のない社会であり、相互の敬意に基づく信頼社会とはほど遠いものにならざるをえない。多様な価値観のもとでの多様な教育を自由に誰でもが享受できるような社会は、その前提になると思う。

第二に、近年の人間の学習方式を踏まえたような人工知能の発展は、私たちに多大な影響力を及ぼしつつあると思う。まず、人間の知識というのは、一人ひとりをみれば、専門家といえども、ほんの一部のことしか知らず、それに基づく判断は、正しいという保証はほとんどない。それを前提とした謙虚さが、前述の人間同志の敬意を伴う信頼社会の構築の前提ともなる。身近なところで、敬意を伴う関係が阻害されるのは、どちらかが、自分の知識なり判断を唯一絶対的に正しいと思い込んだ場合である。囲碁のプロ棋士は、最近では、人工知能の囲碁ソフトから学ぶことが多いと言われる。人間社会の多くの面で人工知能に相談してみることは、人間としての謙虚さの自覚、相互の敬意の維持、信頼社会の構築といった点に、かなり有効なのではないかという印象も受ける。

人工知能の進化した状況においては、人間は、なにを調査するのか、どのような方法で調査するのか、どのようなデータを集めてどのような分析をするのか、といった側面に創造力を発揮することになるように感ずる。それは、生きものとしての人間の危機意識、問題意識、人間の感性や本能を踏まえたものになるからである。地球環境問題、経済格差、強権政治、等が、どのような問題を私たちの社会にもたらしているのか、どのように調査分析し、対応策を作るか。こうした課題は、人類がこれまで継続的に行ってきたことのまさに延長線上にあることだと思う。

 

 最後に、相互に敬意を払い、快適な信頼社会を営んでいく上で、八木節に謳われている歌詞は、示唆に富んでいるように私は思う。参考として記しておきたい。

 ア〜ハ〜

 またも出ました三角野郎が

 四角四面の櫓の上で

 音頭とるとは恐れながら

 国の訛りや言葉の違い

 許しなされば本句にかかるが

 お〜いさね〜

 

  (国定忠治のお話。略)

 

 ア〜ハ〜

 もっとこの先よみたいけれど

 上手で長居はまたよけれども

 下手で長居は御座の邪魔よ

 止めろ止めろの声なきうちに

 ここらあたりで段切りますが

 お〜いさね〜


「負けること勝つこと(95)」 浅田 和幸

「問われている絵画(130)-絵画への接近50-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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