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海へ来た。マストのある風景
と、波を蹴って走る汽船と。
どこへもう! 他の行くところ
もありはしない。
はやく石畳のある波止場を曲り
遠く沖にある帆船へ帰って行こう。
そうして忘却の錨をとき、記憶
のだんだん消え去る港を訪
ねて行こう。 |
萩原朔太郎の詩集『青猫』に入っている「まどろすの歌」の部分であるが、この詩を初めて読んだのは二十代初めの頃であった。当時わたしは溝ノ口の学生寮に住んでいた。もう六十年も前である。当時の溝の口は大井町線の終点で小さな駅であった。電車を降りて改札を出るとまっすぐ路地のような細い道がありその両側が商店街になっていて、そこだけが賑やかな場所であった。その商店街の一角に小さな書店があり、通りがかりにときどき寄ったりした。いつもは何を買うわけでもないのだが、その日は文庫本の棚を見ていて、ふと萩原朔太郎の『青猫』(三笠文庫)が目にとまったので買ったのであった。
なぜその詩集を買ったのかといえば、萩原朔太郎は同郷(群馬県)ということもあって、名前だけは早くから知っていたからである。しかしその作品についてはほとんど知らなかった。ただ中学のときの教科書で「小出新道」という詩を読んだことがある。そしてその詩のなかの「いかんぞ、いかんぞ思惟をかえさん」という言葉が、よく意味もわからないまま記憶に残っていた。そんな記憶がよみがえり、手にとってそのまま買ったのだった。
「小出新道」を今あらためて読んでみると、「ここに道路の新開せるは/直として市街に通ずるならん。われこの新道の交路に立てど/さびしき四方の地平をきわめず/暗鬱なる日かな/天日家並みの軒に低くして/林の雑木まばらに伐られたり。いかんぞ、いかんぞ思惟を返さん/われの叛きて行かざる道に/新しき樹木みな伐られたり」とある。
この詩は『純情小曲集』のなかの「郷土望景詩」という彼の後期の作品であるが、そのなかには「中学の校庭」という詩もあり、これは少しのちになってから読んだ。「われの中学にありたる日は/艶めく情熱になやみたり/いかりて書物をなげすて/ひとり校庭の草に寝ころび居いしが/なにものの哀傷ぞ/はるかに青きを飛びさり/天日直射して熱く帽子を照りぬ。」これも記憶に残っている。
とにかくその文庫本をその書店で買ったのであった。そして目をとおしているうちに、先の「まどろすの歌」に遭遇したのだ。たぶん海とかマストなどが呼びおこすエキゾチックなムードがわたしをとらえたのだと思う。また「どこえもう行くところありはしない/はやく石垣のある波止場を曲がり遠く沖にある帆船へ帰って行かう」というところにも何か感じるものがあった。たぶん当時の鬱屈した精神状態にも海は夢想や開放感をあたえたのだと思う。それだけではなく、わたしの生まれた群馬県は周囲のどこも海に接しているところがなく、一種とくべつな存在であった。海を初めて見たのは中学生になってからである。東京湾のどこかで遠浅の海であった。それがどこの駅を降りてどう歩いたのかは記憶にないが、あるとろにくると突然目の前に海が現われた。初めて見る海は広い! ということと同時に何か盛り上がっているように見えた! その時の印象が鮮烈だったので今でも記憶に残っている。
群馬県の前橋に生まれた朔太郎にとっても、たぶん海には何かとくべつなものがあったのだと思う。群馬県には利根川という大きな川はあるが、周囲はどこも海に接していなかった。この詩集には明治初期に出版されたという『世界名所ず繪』のなかから五枚かの小口木版画が掲載されているが、それぞれに詩がそえられており、そのなかの三枚に海が直接登場したり暗示されたりしている。その詩が版画とあいまって独特な情緒を醸し出している。その版画について朔太郎は「画家が芸術意識で描いたものではなく、無知の職工が写真を見て、機械的に木口木版(西洋木版)に刻ったものだが、不思議に一種の新鮮な詩的情趣が漂渺している。つまり当時の人々の、西洋分明に対する驚き……汽車や、ホテルや、蒸気船や街路樹のある分明市街やに対する、子供のような悦と不思議な驚き……が、エキゾチックな詩情を刺激したことから、無意識で描いた職工版画のなかにさえも、その時代精神の浪漫感が表象されたものであろう」と書いている。
次のような詩もある。
ホテルの屋根の上に旗が立って
る。何という寂しげな、物思いに
沈んだ旗だろう。舗道に歩いてる
人も馬車も、静かな郷愁に耽りな
がら、無限の「時」の中を俳廻し
ている。そして家々の窓からは。
閑雅なオルゴールの音が聞こえて
くる。この街の道の盡きるころに
海の海岸通りがあるだろう。すべ
ての出発した詩人たちは、重たい
旅行鞄を手にてさげながら、今も
尚このホテルの五階に旅泊いてい
る。 |
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