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第141号

2019年1月9日

「負けること勝つこと(97)」 浅田 和幸

 

 第百九十七臨時国会が十二月十日に終了しました。この臨時国会の大きな争点となった外国人労働者の受け入れを巡っての改正出入国管理難民法(改正入管難民法)と改正水道法が、野党の反対を押し切る形で採決され、前者は、来年の四月から運用されることになりました。

 これまでも、安倍内閣においては、安保法制、共謀罪など、野党の反対を押し切る形で法案が制定されてきましたが、この臨時国会で採決された法案は、これまでのものとは少々異質のものでした。

 それは、熱心に安倍内閣を支持してきた人々が、積極的に支持するような法案ではなかったからです。特に、改正入管難民法は、移民を受け入れるきっかけとなるような法案で、在日朝鮮人に対して、ヘイトスピーチなど人種差別的な言動をあからさまに表明しているネトウヨのメンバーには、到底受け入れられない法案とわたしなど考えていました。

 ところが、本来なら「多文化共生」に理解を示すリベラルな考え方の野党の議員たちが反対し、「多文化共生」といった考えをこれまでは排除して来た保守的な人々から反対がなかったことがとても不思議でした。

 確かに、一方で労働者の人手不足という現実があり、経済界を中心に、外国人労働者の門戸を拡大して欲しいという要求は、一部の労働現場では強まっていました。

 ただ、そうなると、これまで難民も含め、出来るだけ国内での定住を危惧される外国人は国内に入れないようにしてきた日本政府の方針と抵触する部分が出てくると同時に、人種差別的な考え方の持ち主にとっては、外国人が大量に流入してくる事態は、回避すべき重大な問題であったはずです。

 ところが、そういった声がほとんど聞こえて来なかったのでした。野党は、現在実施されている外国人の技能研修制度の問題点を指摘しつつ、この改正入管難民法が孕んでいる将来の日本社会の変質等について、きちんと議論をしようと訴えましたが、その訴えを無視するように慌ただしく法案は可決されました。

 これは、法案自身が生煮えであると同時に、将来起きるかも知れない日本人と外国人との軋轢を無視する形で、遮二無二人手不足の解決という目の前の問題にすり替えようとした結果だったとわたしは分析しています。

 つまり、これから起きるかも知れない問題を討議すれば、この法案の問題点ばかりがクローズアップされ、国民どころか、自民党の国会議員ですら、賛成できない可能性があったため、それを回避しようとした苦肉の策だったようです。

 さて、改めてこの改正入管難民法の問題点とはなんだったのでしょうか。第一の問題点は、政府は否定していますが、この法案により日本にやって来た外国人労働者が、将来、日本に定住する可能性があるということです。

 勿論、これまでも来日し、日本に定住する外国人はいました。ただ、その人たちは、大学の教師、研究者、専門職といった人たちがほとんどで、一般的な労働者とは異なった外国人でした。

 それが、この改正入管難民法では、特定技能一号を取得した外国人は、家族を日本に連れて来ることができるようになり、将来的には、その子どもが日本で学校教育を受け、日本人として生活していく道を拓くことになりました。

 つまり、世界ではそういう人たちを「移民」と呼んでいます。ただ、日本政府は、そういう言い方を認めようとはしませんでした。多分、安倍首相を支持している保守層に対して、配慮した結果だと推測しています。

 しかし、呼び方は問題ではありません。現在、アメリカ、ヨーロッパの諸国で、社会を二分する大問題となっている「移民」を、これまで受け入れを拒んできた日本社会が、受け入れに同意したことが問題なのです。

 ところが、政府は国会答弁の場では、そういった現実を覆い隠そうとして、ただ、ひたすら労働現場での人手不足解決方法というテクニカルな問題で収めようと足掻いていました。

 これでは、まるで外国人労働力をヒトではなく、機械といったモノとして扱い、安くて便利だから良いでしょといったスタンスに立つことで、将来、日本社会に起きるかも知れない様々な文化的な軋轢から、国民の目を遠ざける一時しのぎの方策にわたしには思えました。

 そして、これまで「多文化共生」に対して、剥き出しの憎悪を露わにしていたネトウヨを始め、安倍内閣を信奉していたナショナリストたちが、この事態に対して何一つ声を上げないことが、第二の問題点であるのです。

 正直なところ、彼らは来年四月以降に大量に日本にやって来る外国人労働者を前にして、どう向き合うつもりでしょうか?当初は、日本人が選ばないきつい仕事や汚い仕事に限定されるかも知れませんが、能力が認められるようになれば、日本人の労働者の競争相手になる可能性は十分にあります。

 そうなった時に、これまで日本社会では経験のなかった日本人VS外国人といった構図が生まれてくることになります。実際、ヨーロッパ諸国での「移民」を巡る問題は、自国民と移民との職の奪い合いによる不満が発火点となっているのです。

 つまり、それと同様の事が日本でも起こった時に、人種差別的な考え方の持ち主たちは、ヨーロッパのナショナリストたちと同様に、在日外国人の排斥といった過激な行動を取る可能性を、現時点でも拭えないのではないでしょうか。

 ところが、そういう議論を真面目にやっていくと、今回の改正入管難民法では穴が大き過ぎて、最終的には廃案にするしかないという結論に達することを十分に理解している政府並びに官僚たちは、議論をしないという形で押し切る選択をしたわけのようです。

 こうして来年の四月からの五年間で、十四業種で最大三十五万人の外国人を日本に受け入れることになりました。但し、あくまでも試算であり、実際に、それだけの数の外国人労働者が日本にやって来るかは分かりません。

 ただ、もし、試算通りに外国人が日本にやってくれば、確実に、日本の社会は変質していくことになると思います。特に、人手不足が深刻な建設業界、介護業界では、外国人労働者のウエイトが増大していくことになるはずです。

 また、飲食業界、小売業界などにも外国人の進出は目覚ましいものになっていくことと思いますが、そのことにより、これまで想定外のトラブル等も増大する可能性もあると推測されます。

 いずれにしても、この法案が国会を通過し、来年四月から外国人労働者が日本に大量にやって来る現実を、正確に理解し、それにどう対処していけば良いのかを、一般国民だけでなく、地方の公務員も理解していないのではないかとわたしは危惧しています。

 それは、外国人労働者が国内に入って来て生活を始めれば、当然生ずる様々な問題に最初に向き合うのが地方公務員、市役所や町役場の職員だからです。

 生活すればゴミも出ますし、近隣とのトラブルも生じてきます。しかし、現時点で、そういったトラブルに対処する専門の窓口も出来てはいません。多分、それぞれのセクションが個別に対応することとなりますが、言語の違い、生活習慣の違いを解決するノウハウもない自治体職員は大いに混乱することは目に見えています。

 最悪なのは、そのことをきっかけに、外国人労働者を排斥する地元民たちと外国人労働者が対立を深め、暴力沙汰にまで発展するようなことになれば、コミュニティの存続も危ぶまれます。

 何故、こういうことが生ずると言えば、政府が、外国人労働者を移民と見なさないからです。つまり、あくまでも一時的な措置であると強調する余りに、恒久的な外国人の受け入れの制度を作ろうとしなかった結果なのです。

 かつて、わたしはニュージーランドで地元市役所での研修を受講したことがありました。勿論、一週間ばかりの短期間でしたが、その際に、ニュージーランドに移民としてやってきて、市役所で職を得たマレーシア人と話す機会を得ました。

 そして、ニュージーランドでは、外国からの移民(彼の場合も家族四人での移民でした)に対して、どのような制度で受け入れに対処しているのかを、彼の言葉で聞くことが出来ました。

 まず、移民申請をして認められると、半年間に渡り、語学研修を含め、ニュージーランドでの生活についての研修があったそうです。更に、彼は造園土木の資格を持っており、それを仕事としてやっていきたいということで、職業訓練も並行して行われたそうです。

 その結果、半年後に、市役所に勤務し、造園土木の仕事に携わっても、それ程戸惑いもなく業務に入れたと語っていました。また、彼の家族、妻や子どもたちにも、年齢や性別等に応じた研修が施され、ニュージーランドでの生活をサポートするサポーターも、税金で配置され、生活していく上で問題があれば、すぐに相談できるという体制も出来上がっていました。

 これは、ニュージーランドが移民により構成された国であり、現在も移民を受け入れているということで、こういった体制が確立されているということでした。

 さて、翻って日本ではどうでしょうか。これまで、外国人の移民や定住を認めてこなかったため、日本社会の中に、そういった機関や制度はありません。(民間などで多文化共生の支援を行っている団体等はありますが)

 当然、自治体においてもそういうセクションはありません。基本的に、日本人のみに対応している制度設計となっています。そういう中で、大量の外国人労働者が日本にやってくるわけです。

 一応、母国では、日本語の習得なども行ってはいると思いますが、日本に来てからの研修やサポートは皆無といった状態です。これは、日本にやって来る外国人労働者にとっても不安なことですが、彼らを受け入れる日本人にとっても不安なことです。

 更に、家族もやって来て、その子どもたちが、日本の学校で教育を受けることになる時、現在の日本の義務教育制度で対応が可能なのでしょうか。

 モノであるなら、いらなくなれば破棄し、新しいものに交換できますが、ヒトである外国人労働者を、そういった扱いで遇することは出来ません。健康保険、年金といった将来にわたる問題も何一つ議論されていません。

 これ程杜撰な法案を、ほとんど審議もせずに通過させたことに対して、何故、日本国民は怒ろうとはしないのでしょうか?安保法制や共謀罪といったものは、直接、自分に関係がないと無関心を装っていた人たちも多かったように見受けられますが、この改正入管難民法は、来年の四月より、直接、わたしたちの生活に関わって来るものなのです。

 そうであるにも関わらず、能天気な反応しかしない大多数の国民の姿を見て、政府関係者は、ほくそ笑んでいることでしょう。実際に、自分の生活が脅かされない限り、想像力すら働かないという意味では、随分、嘗められた存在ということです。

 そして、もう一つの法案の改正水道法も同様に国民を嘗め切った法案と考えても良いのではないでしょうか。それは、世界では一度水道事業の民営化に踏み切った諸国や自治体が、再び、公営化へと舵を切ろうとしている中で、敢えて民間の参入を認めるという法案だからです。

 勿論、政府が答弁しているように、単純に民営化へと舵を切ったわけでないことは理解しています。施設の所有権はこれまで同様に自治体にあり、運営権を民間企業に売却するコンセッシヨン方式であることを強調しています。

 そういう意味で、今回の法律をもって「水道事業の民営化」ではないと言う専門家もいますが、問題は、世界各地で、水道事業が民営化したことで大きなトラブルが生じ、その結果、再び公営化へという動きが加速している中で、何故、今こういった法案を提出し、可決したかということです。

 更に、民営化によるトラブルが頻発している中、わずか三件の事例を上げ、民営化に問題がないといった趣旨説明ですまそうという政府の姿勢です。

 戦前ならまだしも、現在のように世界的情報網が完備されている中、そんな詰まらない嘘を述べれば、すぐにあからさまになることが分かっていながら、敢えて、そういう虚を並べて、やり過ごそうという不誠実な対応は、完全に国民が嘗められているとしか思えないのです。

 どうせ、大多数の国民は、なにも文句も言わずに従うだろう。そうであるなら、不誠実な対応をしても構わないだろうといった下心が見え見えの政府の姿勢に、予想通り、なんの反応もない国民がいるということが不思議に思えます。

 そして、多分、こういう人々の心の在り方が、戦前のあの無謀な戦争を誘発し、それに反対することも無く受け入れ、とてつもない犠牲を払わされることになったのだなと納得してしまいました。

 つまり、戦後、軍部が勝手に独走し、未曽有の被害をもたらした戦争を招いたのだといった言説が流布されてきましたが、それは、多分半分は真実でしょうが、残りの半分は偽りに思えます。

 決して軍部が独走したのではなく、軍部が独走しやすいような環境を国民自らが選び取り、それを後押しした結果、最終的には、誰も止めることのできない無謀な戦争を遂行してしまったということです。

 まるで、国民は、軍部に騙され、やりたくない戦争を遂行したように伝えられていますが、それは戦後ねつ造されたフィクションであり、そして、それを信ずることで、自分たちの責任逃れを果たそうという、誠に醜く卑怯な心根だったようです。

 こうして、きちんと自分自身との罪に向き合うことなく、戦後に訪れた東西冷戦構造を利用して、経済復興を果たし、豊かな国へと仲間入りした日本でしたが、メッキが剥げると同時に、過去の亡霊が再び蘇り、無責任で自分勝手な国民的心性が剥き出しになったということです。

 これはあくまでも推測ですが、改正された法案でなにか不都合なことが起きた時、自分たちがその時に反対の声を上げなかったにも関わらず、その不都合な現実をもたらしたことを非難するに違いありません。

 でも、それでは遅いのです。その時に反対と言わなければ、時計の針を戻すことなど出来ないのです。しかし、現実は、そうではありません。なにも反対しないまま法案は可決され、来年以降、この法律により新しい状況が生まれてくることでしょう。

 現在、フランスでは、マクロン大統領が決定した「燃料税の増税」に反対する、大きな抗議デモが起き、その結果、増税の延期、更には凍結が宣言されました。

 ただ、それでもデモは終息にはならず、マクロン大統領の退陣を要求する動きも活発化しているようです。つまり、国民はデモということで反対を表明しています。

 ところが、日本ではデモどころか、声すら上がろうとはしていません。怒りが無いのでしょうか?いえ、怒りはありますが、なにか別のところに向けられています。

 会社や組織でのパワハラやセクハラ。客が店員に向ける理不尽な怒り。ネット上での言葉への過剰な反応。怒りに身を任せ、強いストレスを感じていながら、政府の横暴には目を瞑り、文句も言わない構図が、現代の日本社会ということでしょうか。

 今回の改正入管難民法に関して、ほとんど反対の声を上げることがなかつたコアな安倍内閣支持者たち。彼らは、第一次安倍内閣の際に首相が書いた「美しい日本」に共鳴していました。そこには、日本の伝統的な文化や価値観を大切にし、天皇を中心として、戦前において理想とされた国民的道徳を実現しようという強い欲求がありました。

 そういう彼らにとって、天皇になんの価値も認めず、日本の伝統文化に関しても価値を認めない外国人が、大量に流入してくる状況は、喜ばしいものとして受け入れることが出来るのでしようか?

 逆に、彼らの沈黙が不気味です。実際に、日本社会に外国人労働者が進出し、その勢いが増して行く時に、どういった反応が起きるのかが不気味です。それが日本社会を分断し、コミュニティに亀裂が生ずることが無いことをいまは祈っています。


「問われている絵画(132)-絵画への接近52-」 薗部 雄作

「これからの地球社会の運営理念」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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