今日の、科学技術の進展とそれを基盤とした産業経済の発展は、眼を見張るものがある。その指数関数的、爆発的ともいえる変貌ぶりには、空恐ろしささえ感ずるほどである。
例えば、生命科学におけるDNAで作られる遺伝子についての知見は、これまで不可能であった癌の治療や再生医療を身近なものにしようとしている。また、エクソソームによって多様な臓器間でやりとりされる信号の解読が進めば難病と呼ばれる病の治療への道も開かれそうである。
情報通信科学の分野では、デジタル化の波が広範囲におよび、人工知能、IoT、5Gモバイル通信、ブロック・チェーンなどの技術が浸透し、身近な生活を一変させようとしている。
科学技術とそれを活用した産業経済の発展は、まさに、私たち人類がかつて経験したことのないような医療、労働、移動、通信などの幅広い分野における便利さや快適さをもたらそうとしている。
このように私たちの身近な生活を一変させようとしている基盤となっている科学は、16世紀ころのヨーロッパにおいて獲得された世界観と言ってよいと思う。自然界の現象の因果関係を定量的定性的に客観する態度は、自然科学分野に止まらず、それまでの因習的な権威に盲従する姿勢を退け、人々の理性が平等に与えられていることを前提とする近代的民主主義の思想の形成の土台ともなっている。
科学技術の獲得によって産業革命がもたらされ、それは、大量生産を可能とする資源や市場を獲得するための植民地主義や帝国主義を生み出した。これらの競争が地球規模で展開されるなかで、かつてない戦死者をもたらした二度の世界大戦の引き金にもなった。その後は、自由主義経済と社会主義経済とのイデオロギー対立という米ソ冷戦構造を作り出したが、これも、自由主義経済が優位になり社会主義経済を敗退させた。
今日、科学の知見を信奉し、自由、平等を前提とする競争原理が社会運営の第一義的なものになったと言えそうである。科学技術の開発と産業経済力の発展とは、人類普遍の活動エンジンとなったと言っても過言ではないように思われる。もう少し踏み込めば、共同体としての在り方よりも、個々人の能力と自己責任に立脚した競争重視、イノベーション重視の社会運営が主流になっていると言えそうである。
このような科学技術とそれに基づく産業経済の在り方は、地球規模で普遍的なものとなり、グローバル化が急速に進んでいる。その一方、科学技術力や産業経済力の競争の激化は止まるところを知らず、地球規模での様々な歪みをもたらしていることに注目しなければならない。
例えば、国家間の産業競争で破れた業界で働いていた人々、新しい技術によって開発された製品によって駆逐された製品を製造していた人々などは、失業を余儀なくされる。さらに、こうした場合に、競争相手の企業が、その国の政府から多額の援助を受けていたり、また、新しい技術を不当に模倣したような場合には、敗退に追い込まれた企業やその従業員は、その競争がフェアではないのではないかという不満を抱くことになるだろう。
競争そのものの公平性といった問題になってくると、過去の歴史問題にまで遡り、競争の在り方の公平性の議論は、泥沼化する可能性がある。歴史問題と密接に関連する領土問題と同じような様相を帯びることになる。
外国人労働者の流入や難民の流入も、流入される側の国の、そうした人々によって既得権としての仕事を奪われたり、異文化の流入によって精神的安定を失ったりした人々にとっては脅威となる。今日、外国人排斥の右翼的社会動向が強まったり、自国第一主義を標榜する政治体制が台頭する背景には、こうした問題があるように思われる。
自由競争によって、経済格差の拡大が社会の隅々にまで広がることは、人々の不満が高まり、社会の秩序と安定が脅かされることにもなる。
人間は、その生存に脅威を感じたり、既得権益を失うことになりかねない状況になったりすると、理性の抑止力は外れ、戦争をも厭わないことになる。動物が、自分の縄張りに進入してくるものを必死に撃退するのと同じことである。科学技術や産業経済がどれだけ進化しようとも、生きものとしての生存が脅かされたり、既得権益を侵害されたりという状況がなくなることはないのであり、両者は別次元のことと理解しなくてはならないだろう。
科学技術の開発とその成果に基づく産業経済力の激しい競争が、地球規模で繰り広げられ、急速なグローバル化が浸透する今日、私たら人類は、これまで経験したことのないような全く新たな局面に立たされていると言って過言ではないように思われる。このような認識に立って、これからの地球社会は、どのような点について留意していくことが大切なのか、以下、私見を述べてみたい。
第一に、今日の近代的民主主義の思想は、ジョン・ロックらによって唱えられた自然権を基盤としている。これは、国王や君主が王権神授説のような絶対的因習的権威を振りかざし、人々に一方的な抑圧を強いる体制を排除するために提示されたものである。一人ひとりの人間は、国家権力の介入を受けない私的な領域をもつことを前提とすると言ってもよい。フランス革命やアメリカ独立宣言などの基本思想であり、今日の日本国憲法もこの思想に基づいている。この思想は、今日のグローバル化が進み、地球規模の社会運営の在り方を考えるときに前提とする人間存在の基盤のものとしては、充分なものとはなっていないように思われる。
私としては、全人格的で主体的な参加者意識を尊重する姿勢を基盤としてはどうかと思う。これは、社会全体の在り方に寄与することに、個人としての責任を担いながら社会参加していくことを一人ひとりに期待するというものである。独立自尊の思想につながるかもしれない。競争の存在を認めながらも、共同体としての地球社会の運営を重視することを意味する。自然権が含んだ生存権、自由権、財産権などを包摂しながら、共同体の一員としての存在の在り方に注目したものである。
今日、地球上の生命の約50億年の変遷史、生物多様化の推移、私たちホモサピエンスに至る人類の歴史、人体の精緻なネットワークシステム、量子物理学や宇宙物理学など、人間存在の理解を深める上での知識はかつてないほどに深まっている。こうした科学的知識も踏まえながら、人間存在とはどのようなものか掘り下げながら、より豊かな地球社会の運営理念を探っていくことが要請されているように思える。
第二に、地球社会の政治体制についてである。今日の地球社会は、国境によって国に分割され、それぞれが独自の法律をもち、独自の税制や社会保障制度などを構築している。基本的に、一人ひとりの人間は国籍をもち、他の国に移住することは制限されている。国の政治体制も、全てが近代的民主主義の思想で統一されている訳でもない。世襲制度に基づいた独裁体制や自由な言論を排除した一党独裁体制をもつ国もあれば、宗教的色彩を色濃く残した政治体制をとっている国もある。
果たして、今日の地球社会は、日本において、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などが跋扈した戦国時代のようなものなのだろうか。いずれは、どこかの国が地球社会全体を統一して統治するようなことになるのであろうか。日本が徳川幕府によって統一されたのは、天皇制というイデオロギーが存在したから可能だったのではないかとか、パックス・ロマーナとかパックス・ブリタニカとか言われたが、多様性を許容する仕組みが充分でないといずれ破綻せざるをえないのではないか、などよくわからない。今日、欧州連合としてEUが存在するが、英国の離脱騒動とか、EUの官僚組織化とか、気になるところである。では、アジア連合というのは可能なのかとか、いずれ地球連合に統一することは可能なのかなど、疑問の枚挙に暇がない。しかし、今日の米中貿易摩擦とか、移民・難民問題などの解決には、人工知能の助けも借りた、より深い政治体制の探究が必要なのではないかという印象である。
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