昨年が、明治維新百五十年ということもあって、日本の近代の歴史についていろいろ本を読んできました。その中で、一つ気が付いたことがありました。
それは、戦前、戦後(太平洋戦争を区分として)に、国際的なルールの変更が有り、そのルール変更をきっかけに、日本社会が大きく変化していったということです。
更に言えば、戦前においてのルール変更は、その後、日本を破滅的な戦争へと導くきっかけとなりましたし、戦後のルール変更は、それまでの日本経済の優位さを喪失させていくきっかけになったのでした。
つまり、上記のルール変更が、仮になかったとしたなら、その後の日本の歴史も大きく変わっていたのではと思えるほどの重要なルール変更であったとわたしは考えています。
そこで、今回は、そのルール変更について考えて見たいと思います。ところで、ルール変更というと、どちらかと言えばスポーツ競技を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
例えば、千九百六十四年に開催された東京オリンピック。その時に、日本国民を熱狂させたバレーボール。「東洋の魔女」として金メダルを獲得した女子バレーのルールは、サーブ権があるチームしか得点が出来ず、一セットの勝利には十五点が必要でした。
それが、来年二千二十年に東京で開催されるオリンピックのバレーボール競技では、サーブ権の有無に関わらず得点が入り、一セット二十五点を先取したチームが勝利するというように競技のルールが変更されています。
これは、サーブ権が無いと得点が出来ないことで、サーブ権の移動が多く、ゲームがなかなか決着しないため、観客も退屈してしまうという問題もさることながら、テレビ中継を実施する際に、ゲーム終了時間が想定できないという問題に対処するため、変更された競技ルールのようです。
いずれにしても、選手の意向というより、観客の意向が強く反映されているのも、スポーツ競技がテレビを含めメディアの強力なコンテンツとして評価されているからと考えます。
そして、このことにより、それまでのゲームの戦い方は大きく変化を余儀なくされました。更に、この変更で、利益を得たチームもあれば、反対に不利益を得たチームもあったことになります。
日本のバレー競技が、男女ともに、オリンピックのメダル獲得から遠ざかった原因の一つとして、このルールの変更が、大きく影響を及ぼしていたのではなかったかと推測しています。
ただ、このルール変更ですが、変更した時には、そういった不公平が生ずる場合もありますが、それは永遠に不公平が固定化することを意味していません。つまり、新たなルールに適応していく事で、当初生じた不公平は解消させられていくということです。
さて、ここまではスポーツのルール変更を考察してきましたが、ここからは戦前、戦後の日本社会に大きな影響を与えた国際的なルール変更について考えていきたいと思います。
まずは、戦前の日本社会が大きな影響を受けたルール変更についてです。それは、第一次世界大戦後に結ばれた一つの条約です。その条約とはパリ不戦条約です。
この条約は、第一次世界大戦後の千九百二十八年に、アメリカ、イギリス、日本などの当時の列強諸国十五カ国が署名し、その後ソ連など多くの国が署名した条約です。
この条約以前、主権国家は互いに対等であり、それ故に紛争解決の手段として、戦争に訴えるという権利を有していると国際法上では考えられてきました。
つまり、「戦争論」を書いたドイツの軍人クラウゼヴッツが、その著書の中で「戦争とは国家間における外交手段の一つである」と定義したように、主権国家においては、戦争という武力による「決闘」が許されているとされてきました。
ところが、二十世紀に入り、ヨーロッパで戦われた第一次世界大戦は、それまでの局地的な争いとは大きく異なり、国民全体を巻き込む総力戦で戦われ、各種の大量破壊兵器が動員されたことで、戦争の惨禍も未曽有のものとなったのでした。
そういう悲惨な経験を経た人々は、それまでの無差別戦争観を否定する新たな戦争観を議論することになったのです。これは、戦争の違法化、国家間の紛争の平和的解決を求めるもので、新しい国際ルールとして認められたのでした。
この中で、戦争は二種類に分類されました。「自衛のための戦争」と「侵略のための戦争」。そして、前者は主権国家の正当な権利と認められる一方で、後者は断罪されるべき戦争として否定されたのでした。(実際、この二つを厳密に区分することは難しい)
但し、「侵略戦争」として判断されたとしても、この時代においては、現在のように国際的に制裁を科すといったことはありませんでしたが、確実に、これまでの国家間の戦争のルールは、変更されることになったのでした。
さて、戦前の日本は、明治維新後に、対外戦争をいくつも経験してきました。その中で、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦までの対外戦争と満州事変から始まる日中戦争、更にはアメリカと戦った太平洋戦争といった対外戦争とでは、戦争に関するルールが大きく異なっていることが、これまでのわたしの説明でご理解いただけたことと思います。
つまり、日清、日露、第一次世界大戦は、パリ不戦条約締結前の主権国家が無差別に戦争を遂行できた時代の戦いでした。だから、日本の国益を守るという名目で、朝鮮半島に、中国大陸に日本軍を侵攻させても、それに対してルール違反を問われることはなかったのでした。
それどころか、日露戦争のように、イギリスと協力しながら、ロシアの東アジアへの侵攻を阻止するといったように、国際的にも多くの支持を得ての戦争も可能だったのです。
しかし、第一次大戦後に日本が満州で仕掛けた満州事変は、これまでのように「日本の国益を守るための戦争」という言い分、国際社会は全く認めてくれませんでした。
当時、日本も常任理事国として参加していた国際連盟は、中国の国民党政府による「侵略戦争」という訴えを受け、調査団を派遣し、そこでの調査の結果、日本が起こした軍事行動は、自衛の戦争ではなく、侵略戦争であることを認める裁定を下したのでした。
勿論、国際連盟においては、あくまでも裁定であり、実際に、軍隊を派遣して紛争を解決することは出来ませんでしたが、この裁定を不服として、日本は国際連盟を脱退することになったのでした。
それまでは、明治維新以後、欧米諸国との協調路線を堅持し、その路線の中で、近代国家として成長を遂げて来た日本は、ここで初めて協調路線を放棄し、独自の外交を開始したわけでしたが、それが大失敗だったことは歴史が証明しています。
ところで、何故、当時の日本政府を始め、軍人、更には大多数の国民は、この国際的ルール変更を認めようとはしなかったのでしょうか?それに、ルール変更がイヤであるなら、それに署名しないという選択肢もあつたわけです。
それが、積極的にパリ不戦条約に署名をし、その後、国際社会で実施された「軍縮会議」という大きな流れにも参加し、軍縮という方向に一度は舵を切っておきながら、それとは百八十度矛盾した行動へと進んでいった理由をわたしなりに考えてみました。
まず、考えられるのは、日本が余りにも巧みに近代化を進めることが出来たということです。明治維新を迎えた当時の東アジアの状況は、日本だけでなく朝鮮や中国も、西欧による侵略主義の圧力を受けていました。
その中で、日本はいち早く、西欧社会のルールに適応するための政治体制に転換することが出来たのでした。それまでの徳川幕藩体制を葬り、西欧型近代社会体制を構築していくために、明治維新が挙行されたということです。
更に、本来なら何年も続く可能性があった内乱状態を抑え込み、急速なテンポで西欧型近代化社会体制を作りあげていったことが、その後の日本の発展にと繋がっていきました。
つまり、日本はこの時点で、ある意味過剰に西欧近代文明に適応するという方法で、東アジアに位置するどこの国よりも早く、近代国家として世界に認められることになったのでした。
この成功体験は、その後の日本人の意識の中に刷り込まれました。自分たちがルールを作るというより、既存のルール、それもその時に最も力を持っているルールにいち早くキャッチアップし、それを取り入れること。
このことが、その後の日本の針路の指針となりました。日清戦争、日露戦争を通して、朝鮮半島に武力進出を果たし、最終的には朝鮮を植民地化したのも、当時の帝国主義的な領土拡張を競っていた西欧列強のルールに則ってのものでした。
ところが、こういう成功体験は、時間を経るに従って、それ自身が絶対的価値として人々の意識を縛ることにもなります。つまり、自分が得た成功体験を、自分自身では否定できない矛盾に陥ってしまうのです。
また、こういう価値観を下に教育を受けた次世代にも、この影響は受け継がれると同時に、更に、絶対化や神格化は進み、否定すること自体許容されない風潮を生み出すのです。
特に、日本人の場合、個人主義的ではなく集団主義的な傾向が強く、更に、社会内部に同調圧力が強い環境においては、この傾向は一層募っていくことになりました。
もう一つの理由は、第一次世界大戦という二十世紀に行われた世界規模の戦争の直接の当事者ではなかったということです。第一次世界大戦は、ほとんどがヨーロッパ大陸で戦われた戦争でした。
日本政府は、当時の日英同盟によりドイツを敵として戦争に参加しましたが、あくまでも手助けといった程度で、ヨーロッパ大陸で行われた壮絶な戦いをリアルに実感することはありませんでした。
また、現代とは違い、ラジオ、テレビ、インターネットといったメディアも無く、ほとんどの日本人は、新聞紙上に掲載された記事でしか戦争の実態を知ることが出来ませんでした。
そのため、国民を総動員し、新しく開発された大量破壊兵器による総力戦の悲惨さや恐ろしさを体感することがなかったのでした。多分、当時の大多数の日本人の頭の中にあった戦争とは、日露戦争で日本軍がロシア軍に勝利した戦いだったことでしょう。
しかし、わずか十年余りしか時間は経過していませんが、日露戦争と第一次世界大戦とでは、質的にも量的にも全く異質な戦争になっていたのでした。
ここでも、前に述べた成功体験が真実を見るという点で阻害要因として出てきます。日露戦争の勝利(実際は、日本が勝ったというより負けなかった)は、次世代以降の日本人の間で絶対化されていくことになりました。
日本軍は不敗の軍隊であり、どこの国の軍隊よりも精強であり、敵よりも劣勢であっても、精神力により克服し、勝利を掴むことが出来るといった神話化が進行していく事になりました。
以上のように、世界で生じている新しい動きや考え方といった現実を冷静に分析し、理解することよりも、自分たちにとって都合の良い現実を選ぶことを優先させました。そして、それを絶対視したために、パリ不戦条約締結後の国際ルールの変更についても冷静に対応できなかったことになります。
正直なところ、日本人は自らルールを作り、それを国際的に広めていくといった経験を歴史上においてもやったことはありません。古代より、圧倒的な文明を誇る中国文明を取り入れ、それを国内流に変えていくことで日本文化を形成してきました。
つまり、文明のリーダーシップを取った経験のなかった日本人の生き方としては、自らルールを作るより、今あるルールをいかに効果的に運用していくかということの方が性に合っているということになります。
それ故、変更されたルールに適応できず、自らが正しいと思ったルールに則って物事を進めようとした結果が、あのアメリカとの戦争であり、大敗北に終わることになったわけです。
それでは、次に戦後に起きた国際的ルール変更について考えて見たいと思います。上記のように、日本は、アメリカと戦った太平洋戦争において完膚なきまでの敗北を喫しました。
ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏(政府の首脳たちは、天皇制の護持以外は無条件という意図で)により、アメリカ軍に占領統治され、それまでの軍隊は全て解体され戦後が始まりました。
この時、アメリカの占領政策としては二つの考え方がありました。一つは、日本が再び戦争を起こさないように、日本の重工業を、他のアジアの国々に移転するという考えと、そうではなく日本で再び工業化を進めるというものでした。
これは、アメリカ政府の中でも意見は分かれており、どちらに転んでもおかしくない状況でしたが、ある出来事がきっかけで、前者の意見が採用されたようです。その出来事とは、中国大陸での中国共産党政権の樹立でした。
太平洋戦争が終結し、日本軍が中国大陸から撤退した後、中国国内では、毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる国民党の争いは激しさを増していきました。
そして、それが千九百四十九年に、毛沢東率いる共産党軍が中国全土を掌握し、軍事的に敗北した蒋介石率いる国民党は台湾へと逃れたことで、中国に共産党政権が樹立されたのでした。
さて、第二次世界大戦後の国際状況と言うと、ドイツや日本に勝利したアメリカとソ連の二大大国との間では、イデオロギーを巡っての対立が生じていました。
それを「冷戦」と呼び、時を経るごとに緊張関係は高まっていきました。そして、中国大陸が共産化したことで、この緊張の高まりはピークに達したのでした。
そのことで、日本は対中国を含め、東アジアにおいて、共産勢力に対決するための前線基地として、アメリカの世界戦略にとって重要な地位を占めることとなりました。
更に、翌年起きた朝鮮半島での朝鮮戦争により、南北朝鮮が生まれ、北緯三十八度を境に、アメリカが支援する資本主義圏の大韓民国とソ連や中華人民共和国が支援する共産圏の朝鮮人民共和国が対峙する事態となりました。
その結果、ますます、東アジアにおける日本の地勢的、軍事戦略的重要性は増大し、日本の重工業を移転させるという政策は一挙に葬り去られ、逆に重工業化を一気に進めていくこととなりました。
また、政治的には、千九百五十一年にサンフランシスコ平和条約が締結され、事実上のアメリカの占領は終わり、日本は独立国として国際社会に復帰することとなりました。
その際、アメリカは日本の軍事的重要性を鑑みて、日米安全保障条約を締結し、東アジアで勢いを増して行く共産勢力の防波堤としての役目を与えたのでした。
多分、その見返りとして、日本の工業化を認め、その後の高度経済成長へと繋がっていく経済政策を推し進めることを許したということでしょう。
かつて、「軽武装軽負担」ということで、アメリカの安全保障体制に日本が組み込まれることで、軍事費を抑え、予算の多くを民生用に転化し、それが日本の奇跡的な高度経済成長を支えたのだという議論がなされたことがありました。
確かに、戦後の日本にとって、中国が共産化されたということは、千載一遇のチャンスだったことは否定できません。もし、毛沢東率いる中国共産党が敗北し、蒋介石率いる国民党政権が中国国内に樹立されていたなら、その後の朝鮮戦争が起きる可能性は少なくなっていたでしょうし、また、ソ連と対峙するのは日米ではなくも米中であったことでしょう。
そうであったなら、日本の奇跡の高度経済成長も遅れ、その後の歴史も大きく変更を余儀なくされたことと想像できます。いずれにせよ、第二次世界大戦後に、「東西冷戦」という構図が無かったとしたなら、戦後の日本社会は、現在とは大きく変わっていたということとわたしは想像しています。
さて、このように奇跡的な高度経済成長を成し遂げた日本は、千九百八十年代には、アメリカに次ぐ経済大国として君臨するまでになりました。
その中で、かつて強力なパワーを保持し、アメリカと激しく対立して来たソ連が、計画経済の破綻ということで、その経済的パワーを失う事態に立ち至ったのでした。
アメリカとの軍拡競争に疲弊し、国民経済が破綻していく中で、東側の社会主義政権は次々と崩壊していく事になりました。東西に分裂していたドイツは千九百八十九年、ベルリンの壁の崩壊、その後、東西ドイツの統一という方向に進み始めました。
このヨーロッパでの大きな流れの中で、千九百九十一年、ソ連は崩壊し、新たにロシアを含め、いくつもの独立国が生まれることとなり、第二次世界大戦後、世界を二分していた「東西冷戦構造」が、終焉することになりました。
つまり、新たな国際ルールが生まれたということです。それまでの資本主義圏と共産主義圏といった枠組みは崩壊し、一部の国を除いて、世界は資本主義経済をルールとする新たな世界に変貌を遂げたのでした。
ここで賢明な読者の方は気づいて下さることでしょう。実は、ソ連が崩壊した千九百九十一年は、日本経済のバブルが崩壊した年でもあったのです。
これは偶然ではありません。つまり、このソ連崩壊により、それまでの国際ルールが変更されたこともバブル経済の崩壊とは無縁ではなかったのです。
それは、これまでに書いてきましたように、戦後の日本の経済発展を支えていたのは、アメリカとソ連が対立した「東西冷戦構造」だったからです。
アメリカは、資本主義陣営のパートナーとして、日本を認め、互いに協力し合ってきたわけです。朝鮮戦争、ベトナム戦争といったアメリカが主体となって戦った戦争に、日本の自衛隊が巻き込まれなかったのは、パートナーとしての配慮もあったからでしょう。
しかし、東西冷戦構造が崩壊し、世界は資本主義経済体制に変化した時以来、日本とアメリカの関係は微妙に変化し始めたのです。それは、アメリカの資本家たちにとって、日本よりもっと魅力のあるマーケットを発見したからでした。
どうでしょうか。あの当時の中国は、技術的にも遅れており、大多数の国民は貧困にあえいでいました。その大量な労働力に目を付けたアメリカを始め先進工業国の国々の企業家たちは、一斉に中国に進出を始めました。
瞬く間に、世界の工場となった中国は、富を、技術を蓄えて、共産党政権のまま経済発展を進め、現在では、世界一の工場であると共に、世界一の消費大国を目指す勢いで存在感を増してきています。
かつて、遅れた国、貧しい国と侮っていた中国が、恐ろしい勢いで国力を増して行き、日本の国民総生産を抜いて、アメリカに次ぐ経済大国になったことを認めたくない「嫌中日本人」にとっても、二十一世紀が中国の時代となることを否定することはなかなか難しいことに思えます。
ところが、日本及び日本人の意識は、まだ東西冷戦構造のままフリーズしているのです。確かに、隣国の朝鮮半島では、東西冷戦が化石のように残っています。
そして、その構造を権力基盤として国内に君臨している独裁者も残っています。更に、彼らは、体制維持のために核兵器を開発し、アメリカと軍事的に対峙しようとしています。
それ故、わたしたち日本人の意識の中に、東西冷戦構造がしっかりと刻み込まれ、簡単に消滅させることが出来ないことも理解はできます。
ただ、ルールは変わったのです。かつてのルールを懐かしみ、再びそこに戻ろうとしても戻る場所など無いのです。と言って、わたしたち日本人が新しいルールを作るだけの力も持ち合わせてもいないのです。
さて、アメリカ大統領がトランプ氏に代わり、アメリカ・ファーストを唱える彼は、これまでの軍事同盟の在り方を見直すよう要求しています。世界各地に展開しているアメリカ軍の駐留経費の負担増、朝鮮半島での朝鮮戦争終結に向けての動きといったように、東西冷戦構造時代のシステムの見直しが始まっているのです。
ここに至って、わたしたち日本人も漸く、世界のルールが変更されたことを実感せざるを得ない状況に晒されています。現在、沖縄で行われている辺野古での飛行場の建設は、東西冷戦時代において沖縄が重要な基地であったことを引きずったままの愚かな事業に思えるのは、わたしだけの偏見でしょうか?
兵器の進化、更には、アメリカの世界戦略の変更に伴い、沖縄の地勢的・軍事的重要度は格段に減っているにも関わらず、そこに安倍政権が執着しているのは、アメリカの意向といった隠れ蓑を着て、対中国への脅威を、アメリカと共に食い止めたいと言う焦りではないでしょうか。
しかし、そんな日本の思惑に考慮する積りは、アメリカ側には一切無いことと思えます。駐留費を負担するなら駐留してやるといったスタンスで向き合おうとしている相手に、わたしたちは自らのお金を出し、更に平伏してお願いしなくてはならないのでしょうか。
正直なところ、大多数の日本人は、この現実を直視しようとはしていません。確かに、不都合な真実があったとしても、自分自身が当事者になるより、アメリカが当事者になってくれることを望んでいるように見えます。
ただ、少子高齢化が急速に進行している日本社会。東西冷戦構造が崩壊したことで、それまで守られていた日本の権益が失われていき、経済的敗北を迎えつつある日本。更には、これまでの世界の警察の役目から手を引き、自国第一主義に進もうとしているアメリカの姿勢を前にすると、この現実を直視することがこれからのわたしたちに最も必要なことと思われます。
以上のように、日本は、戦前・戦後において、二つの国際的ルール変更により、それ以前において強みであったこと、守られていた地位を失うこととなりました。
ただ、どちらにしても、その現実に気づくのが遅く、気付いた頃には事態が取り返しもつかぬまで進行していたという共通点があります。一度刷り込まれた成功体験を、自ら放棄することが難しいと前に書きましたが、厳しい足元の現実を直視し、自己批判をし、一部自己否定をして、新たな道に踏み出すことも難しいことです。
しかし、それが難しく困難なことであったとしても、わたしたち日本人がやっていかないことには、根本的な解決もあり得ないことも確かな真実に思えています。(了)
参考文献 ちくま新書「昭和史講義」 筒井清忠編
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