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第142号

2019年4月3日

「人間らしさの探究と科学の意識」 深瀬 久敬

 

 人類は、およそ700万年前、アフリカ大陸においてチンパンジーなどの類人猿と別れ、徐々に人間らしさを獲得してきたと言われる。その人間らしさは、初期猿人、猿人、原人、旧人、新人といった段階を踏んで深化し、それは大脳の大きさが次第に大きくなり、それに伴い人間としての認知能力を高めてきたことと関連している。この人間らしさの根底をなす認知能力は、直立二足歩行、犬歯の退化、体毛の減少、自由になった手を使っての道具の制作、言葉や火の使用、家族の形成などとあいまって次第に高度なものになってきたのだと思う。例えば、やさしさ、おもいやり、死者を悼む気持ち、畏怖や感謝の気持ち、美意識の共有なども人間らしさの深化によるものであろう。このような人間らしさは、農耕の始まり(実った種子を落とさないという特種な稲の品種の偶然の発見!)とともに集団生活を営むようになるとさらに深化していった。信頼関係に基づく助け合い、騙しあいの戦闘、貨幣を使った交易などへと展開していった。また、安定した秩序ある集団社会を営むための政治的権威、税制・刑罰などを含む法律を軸とした社会制度、儀式や教義に立脚した宗教的権威、貴族や奴隷などからなる身分制度、などといった複雑な社会制度を作り出してもいった。今日の私たち新人であるホモ・サピエンスは、数十万年前に登場し、ネアンネルダール人などの旧人と多少の交接はあったようであるが、基本的にはそれらの人々を駆逐(?)してしまい、アフリカ大陸からかなりの短期間に南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸などに拡散したようである。

 

 補足A 138億年前のビッグバンによる宇宙の誕生(一定方向に向かう時間も、このときにうまれた。)、46億年前の地球の誕生といったスケールからみれば、700万年という時間は、それぞれ0・0007%、0・015%にすぎない。亀は海洋において、何億年も同じように生きていることを思うと、この地球上において人類がいかに新参者であるかを思い知らされる。

 補足B 人類700万年の時間のうち、はじめの300〜400万年は、初期猿人、猿人の時代だとされている。この同じ地球上で、数100万年も、同じような生活をして生き延びていた人々がいたという事実も、今日のわたしたちからみるとその時間スケールの違いに驚かされる。

 

 このように人類は、数百万年という年月を経たあと、この数千年前くらいには、大河の流域にいくつかの大規模な文明を構築し、自然災害や疫病などとの悪戦苦闘、大規模な民族間の覇権争い、残虐な刑罰などを含む法律に基づく社会体制の確立、宗教的思想的な精神世界の掘り下げ、などを通して、地球上においてそれなりの存在の地位を獲得するに至った。

 

 そして、今日、注目しなければならないことは、300年ほど前に人類は科学の意識を獲得したことである。科学の意識の獲得は、人類が道具を作ったり、火を使いこなしたり、言葉によるコミュニケーションを可能にしたり、農耕生活を獲得したりといったことを、はるかに凌駕する根本的な転換を人類にもたらしたということに注目しなければならないと思う。科学の意識の獲得以前の様々な意識の獲得も人類の人間らしさの画期的な深化をもたらしたが、それは数万年、数千年という時間の経過のなかで浸透されたものである。一方、科学の意識は、300年ほどまえに獲得されたものにもかかわらず、瞬く間に世界中に普遍のものとして拡散し、数十年単位、今日においては数年の単位で私たちの社会や宇宙船地球号とも呼ばれる地球環境を指数関数的ないきおいで変貌させつつあることに留意しなくてはならない。

 以下において、こうした科学の意識はどのようにして獲得されたのか、科学の意識の獲得によって、わたしたちの人間らしさにはどのような変化がもたらされているのかといったことについて、考察してみたい。

 

 科学の意識の獲得の背景には、二つの要因が考えられる。

 第一は、古代エジプトの土地配分や古代ギリシャのポリス(都市国家)運営などにおいて、その運営を円滑に行っていくために論理を尊重する態度を獲得したことである。公平な土地配分は、だれもが納得する正確な測量法を要請し、それはユークリッド幾何学として大成された。ポリス運営は多数の意見を適切に調整するために論理的な説得が尊重された。それが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの論理性に基づくギリシャ哲学に結実した。

 第二は、キリスト教が、その世界宗教に脱皮していく過程で論理性に基づく教義の体系化の重要性に着目し、イスラム文明を経由してもたらされた前記の論理性に基づく学問体系をスコラ哲学として構築していった。しかし、その過程において、宗教上の意味や価値を論理的に証明することは不可能であることを自覚し、それが地動説のコペニクス的転換よりはるかに大きな意義をもつ、意味や価値とは分離された科学の意識の発見につながった。科学の意識は、自然現象の意味や価値を問うことはせず、客観的に因果関係を数式的に捉えるという意識をもたらした。この科学の意識は、産業革命に先行したヨーロッパ諸国によるオスマン・トルコ帝国や清帝国の滅亡、日本の明治維新などの経緯をたどりながら人類普遍のものとなった。そして、それは、いろいろな宗教が人間の苦しみや安定を獲得することを目的に様々な教えを説いたが、そういうものとも無関係な意識として浸透した。

 

 次に、この科学の意識が、今日の私たちになにをもたらしたかについて述べてみたい。

 第一に、私たちが生きている自然界を現象として捉える態度が、私たち人間自身に向けられたとき、個々の人々の人権(自然権)の発見をもたらした。人々に理性は平等に与えられているのであり、基本教育の大切さが見いだされた。また、そうした新たな人間観は、「目には目を」的な残虐な刑罰、みせしめの処刑、拷問などのもつ非人間らしさの自覚ももたらした。身分制度、封建制度、独裁的統治体制なども、因習的権威が正当な根拠のあるものとはいえないという自覚によって排除されるようになった。言い換えれば、今日の民主主義社会の運営の基本は、こうした科学の意識の産物であることに注意しなくてはならない。このことは、個々人の様々な自由を尊重すべきことをもたらし、それは人間の意識改革という観点からいえば、一人ひとりの主体性の意識の覚醒を呼び起こしたのだと思う。それは、一人ひとりの独立自尊の精神といってもよいかもしれない。それは、権力に盲従したり、無知のままに従属することを廃し、ある意味では自己責任の透徹を促すことにもなった。

 

 第二に、この側面が今日、最も喚起されなければならないものと考えるが、全体のなかでの主体性に基づく自己の存在を適切に位置づける全人格性の意識の深化が求められていることである。科学の意識は、今日、人工知能、高速ネットワーク通信、遺伝子編集などの技術開発を通して、私たちの生活様式は目まぐるしいまでに進化させつつある。こうした技術進歩は、私たちの生活を便利で快適なものに変え、かつては宗教が解決しようとしてきた課題のかなりの部分も科学技術の進化によって解決されるような気配さえある。人間は、科学技術の進化によって、かつてのような村社会的集団生活に頼ることなしに、都会のなかで一人でかなり快適に生きていくことも可能になってきた。しかし、人間は一人では生きていけないということは、人類存在の初めから自明なことであり、科学技術は、この事実を完全に解決するものではない。科学技術の進歩は、全人格性の問題をますます私たちに切実に突きつけている。サイバーテロなど自己中心的な行動が、社会におよぼす悪影響は切実である。全人格性の問題は、伝統的に宗教が解決しようとしてきた課題でもある。その基本は、他者への敬意であり、相互の信頼関係を確立維持する気配りではないかと思う。多様性の許容もその一つであろう。人間は、古来、相互不信によって残虐な戦争をくり返してきた。主体性と表裏一体の全人格性の深化が重視されなくてはならないと思う。

少し話題が逸れるかもしれないが、死刑制度について述べてみたい。人間は、長い年月をかけて人間らしさを深化させてきたが、残虐性の払拭もそのひとつだと思う。残虐な刑罰は、今日ではほぼなくなりつつあるが、日本、韓国、中国などでは、今日でも死刑制度が残っている。私は、人間らしさの観点からも死刑制度は廃止されるべきだと思う。被害者の関係者も、加害者が死刑になったからといって問題が解決される訳ではない。未解決のまま問題は残されたと感ずる。「罪を憎んで人を憎まず」ということばもある。戦前の日本帝国主義の暴走に起因する今日の日韓、日中の深い亀裂も、死刑制度を容認する社会風土のなかでは解決されることはないと思う。日本は、率先して死刑制度を廃止し、人間らしさの深化に向けた姿勢に舵を切るべきだと思う。

 

 第三に、人間は科学技術という他の生物を圧倒するような強力な道具を手にしたのと同時に、地球上の全ての生きものへの責任を負う立場になったことを改めて自覚するべきだと思う。人類は、わずかこの数百年の間に、二酸化炭素排出に伴う地球温暖化、天然資源開発などに伴う森林破壊、放射能やプラスチック廃棄物による海洋汚染、遺伝子組み換え食品の開発などによって、数億年、数万年という時間を経て構築された生態系のバランスを破壊しかねない状況を作り出している。これは全人格性の自覚の延長線上にあるものともいえるが、改めて、そうした広い視野をもつ必要があることを社会全体が意識するときにきていると感ずる。

 

今後、科学の知識や技術開発は、どのようなスピードでどのような方向に進むのであろうか。人工知能、医療技術、暗黒物質・エネルギーなど、わたしたち人類の在り方は、かつてない変革の時に直面しているように思う。そして、人間らしさの深化とその究極の姿とはどのようなものなのかも問われているように感ずる。


「負けること勝つこと(98)」 浅田 和幸

「問われている絵画(133)-絵画への接近53-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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