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第143号

2019年7月9日

「俳句と人間存在への問いかけ」 深瀬 久敬

 

 人間とはどのような存在なのか、人間はどのように生き死んでいくのがよいのかといった問いは、人類永遠の問いではないかと思う。

 それに関連して、宇宙はなぜ誕生したのか、銀河系とか太陽系はどのようにして生成されたのか、地球上に生命はどのようにして誕生したのか、植物の光合成のメカニズムはどのようにして獲得されたのか、生命の多様性はどのようにして実現したのか、人類そしてホモ・サピエンスの歴史はどのようなものなのか、等々、問いは尽きない。宇宙の誕生とビッグバン、DNAやRNAを使った生命の複製など、近年の科学のめざましい発展によって解明された部分もあることはあるが、その問いは、より本質的なところに向かって、さらに深い問いを発していくことになるのだと思う。

 

 人間とはどのような存在なのかという問いは、人間社会の在り方と密接に関連している。食糧確保を自然の恵みに強く依存していた時代では、生活共同体として農耕や狩猟の共同作業を円滑に秩序正しく行うことが重視されたであろうし、外敵からその集団を防衛することも大切なことであった。宗教的な権威や身分制度のような仕組みを裏付けとする工夫も様々に構築されたようである。

 産業革命の後は、産業社会の様相を強め、人々は、組織化された社会のなかで、付加価値の高い働きをすることが至上命題とされるようになった。計画の達成のために様々な科学的管理法が導入されたり、インターネットや人工知能を活用したより効率的で正確な管理がなされようとしており、人々の疎外感やストレスの高まりが懸念されている。また、ポピュリズムに走るような絶望的な反動を作り出したりして、憎悪の連鎖に拍車をかけるような傾向も現れている。人間存在への問いを深めていくことの重要性は、ますます高まっていると言わざるをえない。

 

 私自身も、70歳をすぎ、日々、心身両面の老化、劣化を強く意識するようになり、それに伴い、人間とはどのような存在なのかという問いの切実さが実感されるようになっている。最近は、終活とか、断捨離とか、身辺整理とか、店仕舞いとか、死への準備とか、日常的に意識はするが、思うようには進まない。現役のサラリーマンのころは、組織目標を達成するために、組織のなかの一部品として、どのように機能するかといったことに四六時中、追われていたように思う。組織の中の一部品となり主体性のない生き方を強いられるのは、なんとか回避したいと社会人になる前に、それなりに考え、対応策を用意したつもりであったが、能力不足などもあり残念ながら、かならずしもうまくはいかなかった。こうした傾向は、戦国時代が終わり、徳川幕藩体制のもとで、武士が官僚化していった江戸時代にもある程度、あてはまるのではないかと思う。

 

それで、俳聖とも呼ばれる松尾芭蕉についてであるが、芭蕉こそは、人間とはどのような存在なのかという問いに正面かち向き合った人ではないかと思う。40歳を過ぎたころから、それまでの俳諧宗匠としての在り方に疑問を感じ、古来からの漂泊の伝統に身をゆだね、根底に老荘思想や禅の思想を据え置いた問いを深めっていったのではないかと思う。

 

最初の紀行文「笈の小文」の冒頭は、次のようである。

百骸九竅の中に物あり。かりに名づけて風羅坊といふ。まことにうすものの風に破れやすからんことを言ふにやあらん。かれ狂句を好むこと久し。つひに生涯のはかりごととなす。ある時はうみて放擲せんことを思ひ、ある時は進んで人に勝たんことを誇り、是非胸中にたたかうて、これがために身安からず。しばらく身を立てんことを願へども、これがためにさへられ、しばらく学んで愚を悟らんことを思へども、これがために破られ、つひに無能無芸にしてただこの一筋につながる。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。(中略)

 旅人とわが名呼ばれん初時雨

 

 また、集大成とも呼ぶべき「おくのほそ道」の冒頭では、次のように述べている。

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸すうるより、松島の月先づ心にかかりて、住める方は人にゆづり、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住みかはる代ぞひなの家

面八句を庵の柱にかけおく。(以下略)

 

 芭蕉は、40歳を過ぎてから、こうした紀行文のなかに、後世に残る名句を多数詠んだ。それ以前の談林派的俳諧宗匠としての自分には飽き足らず、西行、宗祇、雪舟、利休らの日本の伝統的な美意識を根底とする人間存在の根底に問いを向ける姿勢に転じたと言ってよいのではないだろうか。

 芭蕉の句の凄さは、自然との一体感を基本姿勢とするなかで、人間とはどのような存在なのかという問いを深めたところにあると思う。

次のような句には、そうした深い人間観が感じられる。

・よく見れば薺花咲く垣根かな

・夏草や兵どもが夢の跡

・荒海や佐渡に横たふ天の川

・この道や行く人なしに秋の暮れ

・旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 

 芭蕉の「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」といった人生を仮の場とみる人生観は、日本的伝統には、かなり根強いものがあると思う。豊臣秀吉の辞世句「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」や、織田信長が好んだと言われる幸若舞『敦盛』のなかの「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」もこの系譜につながるものだと思う。さらに、福沢諭吉の「福翁百話」の中の次の文章も、ややこじつけかもしれないが、それに近いように感ずる。

 「宇宙の間にわが地球の存在するは、大海に浮かべる芥子の一粒と言うも中々おろかなり。われわれの名付けて人間と称する動物は、この芥子粒の上に生まれまた死するものにして、生まれてその生まるるゆえんを知らず、死してその死するゆえんを知らず、よって来たるところを知らず、去ってゆくところを知らず。五、六尺の身体わずかに百年の寿命も得がたし。塵のごとく埃のごとく溜まり水に浮沈するボウフラのごとし。蜉蝣は朝に生まれて夕に死すと言うといえども、人間の寿命に較べてさしたる相違にあらず。蚤と蟻と丈くらべしても、大衆の目より見れば大小なく、一秒差の遅速を争うも百年の勘定の上には論ずるに足らず。されば宇宙無辺の考えを持って一人自ら観ずれば、日月も小なり、地球も微なり。まして人間のごとき無知無力、見る影もなき蛆虫同様の小動物にして、石光電火の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、たちまち消えて痕なきのみ。(中略) 人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとせずしてあたかも真面目に勤め、貧苦を去って富楽に志し、同類の邪魔せずして自ら安楽を求め、五十、七十の寿命も永きものと思うて、父母につかえ夫婦相楽しみ、子孫の計をなし、また戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛くるこそ、うじ虫の本分なれ。否、蛆虫のことにあらず、万物の霊として人間の一人誇るところのものなり。ただ戯れと知りつつ戯れば心安くして戯れの極端に走ることなきのみか、時にあるいは俗界百戯の中に雑居して一人戯れざるもまた可なり。人間の安心法はおよそこの辺にありて大なる過ちなかるべし。」

 

芭蕉以降の句については、かならずしも芭蕉の人間観、人生観、世界観への問いかけが正面からは引き継がれていないように私には感じられる。与謝蕪村や小林一茶の句にもすごいものはあるが、なにか芭蕉の根底にあった問題意識はあまり感じられない。その他の江戸時代の句について、詳しくはわからないが、残念ながら芭蕉の句を正面から引き継いでいるような句に出会ってはいない。

さらに、明治時代に入り、正岡子規によって、それまでの俳句は月並み俳句として排斥せられ、西欧の客観を取り入れた写生を旨とし、西欧の文学に対抗するような姿勢が打ち出され、芭蕉の自然と一体化したようなスタンスに基づく人間存在への問いかけは、排除されてしまった。

・鶏頭の十四五本もありぬべし(子規)

・赤い椿白い椿と落ちにけり(碧梧桐)

といった句が写生句の典型のように思うが、人間存在への問いかけは感じられない。

 さらに、俳句は、近代文学に対抗する位置づけを指向したようではあるが、五七五という短い詩型のようなスタイルでそれを望むのには、かなり無理があるように思う。そこから、桑原武夫氏の第二芸術論のような論争が引き起こされることになったのだと感ずる。芭蕉の句は、紀行文のなかに置かれ、紀行文全体としての文脈のなかで、俳句がそのエッセンスを象徴するものとして置かれているのであり、五七五の句を単独でとり出して、それを評価することには、本来無理がある。

 現代俳句も人間探究派とか社会主義運動を支援する俳句とか変遷するが、なにか社会的影響を前面に出した近代文学のような装いをまとおうとする姿勢からか、わたしは全てうまくいっていないように感じられる。

 尾崎放哉、種田山頭火、井上井月といった俳人は、一見、芭蕉の漂泊に似てはいるが、その目的性といった点からは別のもののように感ずる。

 

 芭蕉の俳句には、人間存在の根底を問う言葉の力強さを感ずる。問いかけの奥深さがあるように感ずる。一方、近年の俳句には、表現上の文学性を指向し、「なるほど、いえてる、するどい」といった感慨をもつことはあるが、それ以上のものではないように思う。人気番組である「プレバト」では、夏井いつき氏が、巧みな添削を行うが、表現上の巧拙に止まるものだと思う。したがって、巧みに添削されたとしても、人間存在への深い問いかけやことばの力のようなものは伝わってこない。

 

 最後に、連句について述べたい。連句は、五七五の長句の次に、別の人が七七の短句を付けるという繰り返しで行われる。何番目の句のテーマが限定されていたりといった複雑な規則はあるが、一種の連想ゲームであり、座の文芸として社会的にそれなりの立場にある人々によって相互理解を深めるようなたのしみも含めて行われたもののようである。近年の句会では、一定の兼題で作った句をもちより、共感する句に投票することによって、その数や投票のばらつきなどをたのしむ。こうした句会での出会いに比較し、連句での出会いは、もっと参加者の距離感が短く密着性も強い。俳句は、近年では一句一句の独立性が強く、句会参加者同志の距離感はかなり疎遠になっているように思う。ネットを使った連句のような集まりは、距離感の短い人間相互理解を通して、人間存在の根底に接近することができれば、これもおもしろいのではないかと感じている。


「負けること勝つこと(99)」 浅田 和幸

「問われている絵画(134)-絵画への接近54-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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