人間とはどのような存在なのかという問いに、理論的に確実にその正解に向かっていくことはできるのであろうか。今現在、私たちはそのような方法を知っているとは思えない。
しかし、古来、人間は、この問いに向き合わざるを得なかった。私たちはどのような存在なのかという問いに対する答えを、正しいかどうかのはっきりした根拠がなくても、そういうものだと決めて、それをみんなで信じ合って、それに基づいて社会運営の安定と秩序を計ってきたからである。具体的には、神話や宗教や哲学思想といわれたものが、そうした役割を担ってきた。
神話や宗教は、その社会の運営における権威を支えるイデオロギーであり、それに基づいて権力者の地位や身分制度などの社会体制が構築された。私たちは、どのような存在なのかという自己理解に基づいた社会運営を行うことによって、人間社会に安定と秩序がもたらされたのだと思う。
そして、古来からの社会では、そのような自己理解に基づく権威のもとで閉鎖的な社会体制が敷かれることを常とした。身分制度は、その最も身近なものであり、その家庭に生まれたら、その人がいかなる資質を持とうが持たなかろうが、基本的に親と同じ社会的立場を引き継ぐものとされた。
そのような自己理解のもとで、特定の権威を敬い、その上位にある神を通して自然との共生を祈り、感謝や畏怖の念を維持し続けたといってよいのではないだろうか。
しかし、旧約聖書の創世記に記されているような人類の自意識の自覚に継いで画期的と思われるのが、西洋近代に「科学」が発見され、その結果、それまでの因習的閉鎖的社会体制が根底から覆されたことである。科学は、一人ひとりの人間が、この世界を客観的に見る能力をもっているという理解をもたらしたのである。すなわち、閉鎖的な権威者のもとで、盲従するしかなかった人々を、そうした呪縛から解き放ったのである。
このような科学の発見は、一人ひとりの個人としての存在というものにスポットライトを当てた。それ以前の閉鎖的な社会においては、個人の存在というものが着目されることはなかった。社会の安定と秩序の維持を最優先するなかで、個人の存在はほとんど省みられることはなかった。
一人ひとりの人間が、個別にこの世界を現象界として客観し、様々な因果関係として理解できるという認識の広まりは、科学技術および産業経済社会の指数関数的な興隆、そして、社会統治体制としての民主主義を広めるに至ったことは言うまでもない。
このような科学が人類によって見いだされてから、まだわずか三百年くらいしか経っていないが、科学は猿人や原人を含めた人類の数百万年といわれる人類の歴史をあっという間に塗り替えようとしている。そして、その変容の速さは、近年になって、ますます加速しているかのようでもある。
今現在の私たちの置かれているこのような状況を振り返るとき、私は次のような三点に注目したいと思う。
第一に、人間は、この科学の目を自覚することによって、自然界へのとてつもなく大きな影響力を手にし、それによってそれまでには想像すらできなかったような便利で快適な社会を構築する術を獲得した。
その一方、私たちは、それ以前の私たち人間に最も根本的な問いであった私たち人間とはどのような存在なのかという問いを発することを忘れてしまったかのようである。ひたすら、目前の便利さをさらに便利にしようと追求したり、その競争相手に勝つことに熱中したりし、謙虚に、自分たちとはどのような存在なのかと問うことをほとんど社会から退場させてしまったのである。
そして、目前のさらなる便利を追求し、競争相手に勝つことに熱中している間に、科学の力の活用法の相違や人間の様々な欲望の衝突が、複雑先鋭化するなかで、地球社会全体の安定と秩序が危ぶまれるような状況をつくり出しつつある。米中貿易戦争、英国のEU離脱、中東の不穏などを具体例として列挙することができるだろう。
さらに、地球の自然環境そのものにも影響を及ぼすようになり、地球上の他の生物の生存責任すら問われなければならない状況に迫りつつある。
私たちは、改めて、私たち人間とはどのような存在なのか、一つの地球社会全体としての視野から問うことが要請されているように思う。その問いにどのように立ち向かうか、今、人類が問われている。
第二に、科学は、一人ひとりの人間が世界を客観的に見る能力をもつことを教えてくれ、そして、一人ひとりの人権とか尊厳といったものが尊重されるべき価値であることを教えてくれた。
しかし、一人ひとりの人間が、世界を一人の人間として客観する能力をどの程度発揮するのかは、それぞれの置かれている状況や資質などによって異なる。それはそれぞれの個性であり、多様性の源になっていることでもある。
マゾヒズム的に、そんな客観する能力なんかはいらないと叫ぶ人もいるかもしれないし、独裁的な権力をもつ人々や身の回りに安定した秩序をもつ人々が、もし、その権力や安定が脅かされるそうになると、客観する能力とかは捨て去り、ともかくそうした原因を目先的でもいいから解決してくれそうな権力指向の存在を担ぎ出してきて、取り繕いの解決を求めるかもしれない。こうした傾向は、今日の地球社会では日々強まっている印象である。
そのような客観する能力を放棄してしまおうとする傾向に、どのように対応していけばよいのか、考えなくてはならないと思う。
第三に、今日の科学の発見の能力は、飛躍的に高まりつつあるようである。自動運転やビッグデータ解析などの人工知能、IoTや5Gのネットワーク、量子コンピュータ、クラウドや検索技術、万能細胞を使った再生医療、遺伝子編集、ダークエネルギーやダークマターの本体解明など枚挙に暇がない。このような急激な科学技術の進歩は、私たち人類をどのようなところに連れて行くのであろうか。ネアンデルタール人が滅亡し、私たちホモ・サピエンスに追われたように、私たちとは別の新たな人類が勃興してくるのであろうか。それはともかく、私たちは、このような急激な変容のなかにあっても、私たち人間とはどのような存在なのかという根源的な問いと謙虚に向き合っていく姿勢を忘れてはならないのだと思う。それはどのようにすれば担保されるのであろうか。そういう姿勢を失うと、人類はまさに滅亡の崖っぷちに立たされることになるように思われてならない。
|