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第145号

2020年1月1日

「負けること勝つこと(101)」 浅田 和幸

 

 今年ノーベル化学賞を受賞された日本人吉野彰氏。リチュームイオン電池の実用化に大いに貢献をされたことが授賞理由とのことでした。確かに、吉野氏が関わってこられたリチュームイオン電池は、わたしたちが普段の生活で使用しているパソコン、携帯電話、電気自動車といった新しい発明品の動力源として、現在では無くてはならないものになっています。

 その吉野氏が、ノーベル賞授賞式の記念講演で、これから訪れるであろうAIEV社会について取り上げられていました。AIは人工知能、EVは電気自動車ということです。

 講演の中で、この二つが合体することで、二千三十年頃には、電気自動車の自動運転が可能になり、現在のように各自が車を一台ずつ所有するのではなく、必要な時に車が配車され、それを利用することで、車の台数を減少させることが出来ると。

 更に渋滞等の問題も解決されることで、地球環境への負荷も減らすことが出来、そして、こういった新しい社会を支えるものとして、リチュームイオン電池の改良が必要であると語っておられました。

 この未来予測は、夢物語というより、より現実に近い予測であることは、門外漢であるわたしにも理解できます。小学生の頃に読んだ漫画に描かれた、携帯電話や空飛ぶ自動車といったものが使われている未来社会を想像した時より、ずっとリアルで手の届きそうな現実であるということです。

 さて、そうなると一つの懸念めいたものが生まれてきました。現在、日本の産業の中心として君臨している自動車産業。この自動車産業にとっては、この吉野氏の描く未来社会は、逆風になるのではないかということです。

 吉野氏の予測する未来社会では、現在の車の台数に比べて七分の一の台数があれば、現在以上に便利で快適なカーライフを送れるというのです。

 つまり、自動車の生産台数は現在の生産台数から比べて七分の一で良いことになります。これでは、現在自動車メーカーとして生産している企業の七分の一が要らなくなるということです。

 これは衝撃的な数字です。現在、日本にはトヨタを含め数社の自動車メーカーがありますが、この予測が的中すれば、多分、一社ぐらいしか残らなくなるということになります。

 勿論、人間の好みがある以上、生産される車が、一種類だけになってしまうことはあり得ないと思いますが、数の上では、無くなってしまう確率は高いということになります。

 こういった状況について、現在の自動車メーカーのトップの方たちは、非常な危機感を覚えていることと思います。そして、それを克服するために、新たな戦略を考えていることと思います。

 しかし、新しい技術が生まれ、それが社会に浸透していくことで、社会の構造が変化し、これまで必要とされていたものが、必要とされなくなり、別のものへと急速に変化していくということは、想像を上回るスピードで進むことを歴史が証明しています。

 実際、六十余年のわたしの人生の中でもいくつか経験してきました。例えば、わたしが小学校に入学した頃。昭和三十三年(千九百五十八年)、今から六十年ぐらい前になりますが、当時、私の住んでいた町には「〇〇屋」さんという個人商店がいくつもありました。

 代表的なものを挙げると、「八百屋さん」、「魚屋さん」、「お菓子屋さん」、「お酒屋さん」といったように、生活・・特に食生活に関したお店が、個人商店としてあったのでした。

 しかし、それから六十年余りを経過して、そういった個人商店はほとんど消えて残っていません。かつて、個人商店をしていた場所は、普通の民家になるか、取り壊されて別の建物になっているかといった状況です。

 多分、これは私の住んでいる金沢に限ったことではなく、全国的規模で、こういった個人商店が消滅しているということでしょう。更に、こういった個人商店に代わり、新しく生まれた街中のスーパーマーケットも、変遷しているのです。

 個人商店に代わり、食料品を売るスーパーマーケットも、店舗は郊外の大規模店が主流となり、街中にあった小さな地元のスーパーマーケットは、取り壊され、駐車場などに変わってしまっています。

 東京などの大都市圏には、現在も各駅に、地元の商店街といったものが残っていますが、金沢のような地方都市では、地元の小さな商店街は縮小、あるいは消滅し、それに代わるものとして、郊外の大規模店舗が、人々の生活インフラを支えています。

 その結果、街中に居住する高齢者たちの一部では、車の使用が出来ないために「買い物難民」などと呼ばれ、生活の不便さを甘受することとなっています。

 こういった生活に関しての変化は、当然、働く人々の職業選択にも大きな影響を与えることになっています。わたしが小学生だった頃、わたしの周囲の大人たちの職業は、自営業の割合が今よりずっと大きかったように記憶しています。

 個人商店は勿論の事、個人経営の鉄工所、金沢は金箔の生産量が日本一ということで、金箔を扱う個人事業の箔職人さんといった家々がたくさんありました。

 しかし、現在、そういう家は一軒も残ってはいません。鉄工所や箔職人を営んでいた家の子どもたちは、そのほとんどが家業を継ぐことなく、別の職業に就き、サラリーマンとして企業に勤務しているのが一般的のようです。

 更に、もう一方では、農業を営んでいる家も多くありました。わたしの通っていた小学校のエリアには、田んぼが広がっており、そこで稲作に従事する農家も数多くありました。

 あくまでもわたしの記憶ですが、当時の同級生の親たちの職業構成は、農家が三分の一、自営業が三分の一、サラリーマンが三分の一といったような割合だったように思います。

 多分、わたしの通っていた小学校は、金沢市内の中心部から少し離れた地域にあったことで、こういった比率になっていましたが、逆に、郊外の学校では、ほとんどの家庭が農家だったと断定しても間違えではなかったように思います。

 さて、ここまでわたしの思い出話を綴ってきましたが、わずか六十年前の日本の話をしても、現代の若い世代にとってみると、なにかとんでもなく昔の出来事に思え、そういった生活がかつてこの社会で営まれていたということが、想像することすらできない状況にあるのではないでしょうか?

 この変化の要因は、わたしが小学生だった時代に始まった高度経済成長でした。それまでの農業中心の産業構造から、工業を中心とした製造業へと大きく舵を切り、田舎にあった大量の若い労働力を大都市へと転出させることで、千九百六十年代に日本は、農業国から工業国へと転身することになりました。

 更に、それまで工業製品と言えば、繊維や雑貨などを中心とした軽工業だったものが、機械や電気といった重工業へと産業構造の転換が急速に実施され、その結果、日本各地で営まれていた中小の繊維産業などの地場産業は壊滅的な被害を受け、新しい産業への転換を迫られたのでした。

 ただ、古い産業は淘汰されながら、新しい産業が勃興することで、余剰人員を吸収し、一時的な経済不況や人員整理といったものはありながら、日本経済は規模を拡大し、経済大国として世界をリードしてきました。

 こういった産業構造の転換は、昭和が終わる頃まで続き、その間に日本社会の雇用を含め、産業構造は大きく変化したのでした。そして、平成を迎える辺りで、東西冷戦が終焉し、バブル経済が崩壊する事態を迎えました。

 当時の日本経済は、「ジャパン・アズ・№ワン」などと呼ばれ、日本企業には世界をリードする企業が名を連ねていました。その企業は、国際的に競争力を持ち、世界に向けて新しい商品を供給していたのでした。

 しかし、それから三十年余りが経過した現在、日本経済はかつての勢いを失うと共に、世界的な規模の企業として君臨していた日本企業も、すっかり勢いを失い、新しく生まれた後発の企業の後塵を拝することになっているのです。

 特に、電気製品を製造していたメーカーにはその傾向が強いように思えます。東芝、シャープなどといった日本を代表する電気製品のメーカーは、製品部門の一部の経営権を外資に売り渡す、経営権そのものを外資に売り渡すなど、厳しい状況に追い込まれてしまったのです。

 辛うじて、かつての国際競争力を維持している産業が自動車産業であることは誰の目にも明らかです。つまり、自動車産業が日本経済の屋台骨を支えていると言っても過言ではないようです。

 ところが、前にも書きましたように、これから十年後に訪れるであろうAIEV社会においては、車の生産量は現在の七分の一となり、日本経済の屋台骨を支える自動車メーカーの存立が危ぶまれる可能性があるというのです。

 こういった状況に対して、高度経済成長を遂げていた頃の日本社会は、素早く対応し、産業構造の変換にいち早く着手し、新たな成長産業を見つけ、その成長にまい進したものでしたが、正直な所、現在の日本社会にはそういったパワーは感じられません。

 それどころか、多くの国民が、不都合な現実に目を瞑り、これまでの実績を過大に評価し、目の前にある危機から逃れようと藻掻いているように見えるのです。

 もう一つ、同じような現象が金融業界にも起こっています。アベノミクスによる日銀の「ゼロ金利政策」により、銀行の疲弊が一段と進行しているのです。

 メガバンクと呼ばれる巨大銀行は、これまで大学生を始めとする新規就職者の受け皿として、毎年大量の社員を雇用してきましたが、昨年あたりから雇用者数を減少させると共に、支店の統廃合などによる余剰人員の配置転換に着手しつつあります。

 更に、地方銀行はもっと深刻です。これまで地方経済を支えるということで、各都道府県で一行ないし二行と営業をしていた地元資本による地方銀行は、県を跨いで統廃合しなくてはならないほどに、経営環境が厳しさを増しています。

 多分、この趨勢は今後衰えることなく進展して行き、地方銀行の統廃合を含め、現在の金融業界は、大きな変革の波に晒され、呑み込まれて行くことは避けられない状況にあります。

 これもわたしの目から見ると驚異です。かつて、倒産しない企業の最有力候補として君臨し、商工会議所など含め公的にも私的にも地方経済をリードしてきた地方銀行が、その存在意義を喪失していく姿を目にしているからです。

 更に、AI化が進むことで、銀行の窓口業務から人間の姿が消えると同時に、支店といった銀行が張り巡らせていたネットワークそのものも消えていく将来の姿が見えているのです。

 明治維新後、日本社会は、いち早く西洋近代社会に転身していくために、銀行を設立し、そこで集めた資金で、近代工業化を図ったのでした。その功績が認められ、福沢諭吉の肖像画に代わり、新しい一万円札の肖像画は渋沢栄一に決まりました。

 彼の様々な功績の中でも、銀行の設立というものは非常に大きいものであったことは、現代に続く、日本経済の発展を支えた重要なインフラが銀行であったからでした。

 ところが、その銀行が役目を終えようとしているのです。と言って、銀行が現在有している機能等が、社会から必要とされず、消滅するという意味ではありません。

 新しい企業を育成する、人々のお金を預かる、支払等の決済を行うといった業務がこの社会から今すぐに消滅することはありません。そうではなく、これまで銀行というものが担っていた役割が、大きく変化の波に晒されるということです。

 アメリカのSNSの一つフェースブックが提唱し、当初は、今年にも発行されると言われていたデジタル通貨「リブロ」。現在の所、アメリカを含め、多くの国々での承認は得られていませんが、もし、こういったデジタル通貨が発行され、世界で使われるようになれば、既成の銀行は必要なくなってしまいます。

 この「リブロ」に関しては、国家が自国通貨を発行できる権限との折り合いが調整されない限り、拙速に発行されることはないと推測されますが、もし、何らかの形で折り合いが付けば、フェースブックは、銀行に取って代わる企業になる可能性は十分にあります。

 また、中国が進めようとしている電子マネー=キャッシュレス社会が急速に進展し、それが世界スタンダードとして、多くの国々で採用されることになったなら、多分、現在の日本の銀行の中で、その激流の中で生き延びることができる銀行がどれほどあるのか、正直な所分からないというのが現状に思えます。

 公務員と並んで潰れない企業として地方経済に君臨していた銀行。企業の生殺与奪権を握り、資本主義社会が続く限り、その役目を終わることが無いと思われていた銀行も、いよいよ断末魔が近づきつつあるということでしようか?

 さて、ここまで書いてきて、今年(二千十九年)五月に発表された統計資料を参考に示したいと思います。それは、日本の総労働人口数とその中で占める会社員の数です。総労働人口は六千七百三十二万人、その内、会社員は五千九百九十三万人。九割が会社員ということになります。

 前にも書きましたが、わたしが小学生だった頃の職業従事者の比率とは大きく異なっています。つまり、この六十年の歳月の間に、農業を含め自営業の労働者は減少の一途を辿り、それに代わり会社員が増えたということになります。

 その結果、労働者は、自分の勤めている会社に生殺与奪権を握られてしまったということです。現在、経済的格差問題で注目されている正規と非正規といった区分も、労働者の九割が会社員であることにより引き起こされている問題なのです。

 そして、ここへ来て、日本の産業社会において重要な役割を果たしてきた自動車産業と金融業が、その足元を脅かされる事態に至っているのです。

 驚くことに、政府の試算によると、現在のように非正規労働者の給与等が改善されず、個人的に老後の蓄えと言ったこともままならぬ状況が続くようであれば、将来、生活保護を必要とする高齢者が増大し、その費用だけでも二十兆円余りの財源が必要になると言うのです。

 新たな成長産業を見つけることが出来ず、少子高齢化により人口減少が加速化し、国内の経済的規模が急速に縮小していくことが予測されている中で、この経済的格差だけが拡大して行くということは、日本社会の安定を揺るがすことにも繋がっていくのです。

 また、AI化が進行していけば、これまで人間が担っていた仕事がAIを搭載した機械等に取って代わられるといった未来予測もされています。

 これは、千九百六十年代以降、コンピューターやオートメーションが、労働現場に導入され、それまで人間の手と頭で行っていた作業や計算の処理を担い、大量かつ正確かつ迅速に処理していくことで実現して来た、大量生産システムを更に大きく変化させることにも繋がっています。

 つまり、コンピューター化もオートメーション化も、それは人間の労働をサポートするものだったのです。ところが、AI化は、人間のサポートが必要なくなってくるのです。

 特に、ディープラーニングによって膨大な知識を取得したAIは、プログラミングされた目的に関して、人間と同様に自分で考え、判断し、実践に移すことが可能になったのです。

 こういった未来予測を前にして、正直な所わたしは複雑な気持ちを覚えています。吉野氏が予測する未来を素晴らしい未来だと感じながら、一方で、どんな社会にこれから変化していくのか不安も覚えるのです。

 それは、わたしに変化に関するトラウマめいたものがあるからです。ベルリンの壁が崩壊、ソ連が崩壊という冷戦終結後の世界について、当時のわたしは争いのない、平和で豊かな社会が訪れることだろうと期待していました。

 しかし、それから三十年余り、残念なことに、わたしが期待した平和で豊かな世界は実現していません。イヤ、それどころか、反対に、争いは世界各地で頻発し、経済的格差による貧困等で、豊かさから落ちこぼれた多くの人々が生まれている現実があります。

 それ故、わたしは社会の大きな変化をどこか恐れているところがあるのです。「進歩」と言われる発展を手放しで喜べない自分の気持ちが存在しているのです。こういった進歩や未来に対する漠然とした不安を、若い世代の方たちは、微塵も感じていないのかも知れません。そういう意味で、この不安が老いた人間の世迷い事でないことを切に望んでいます。(了)


「問われている絵画(136)-絵画への接近56-」 薗部 雄作

「現在の問題意識-雑感」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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