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第146号

2020年4月4日

「負けること勝つこと(102)」 浅田 和幸

 

昨年の五月に年号が平成から令和へと改元されました。新しい天皇を迎え、日本人の多くが、なにか希望に満ちた新しい時代の到来を期待したのではなかつたでしょうか。

 ところが、昨年の秋には日本列島を強烈な台風が襲い、強風や洪水により、日本各地で広範囲に甚大な被害が生じました。特に、これまであまり台風の被害に遭遇することが無かった関東や東北方面に被害が集中したために、想定を遥かに超える甚大な被害に、多くの国民は震撼しました。

 その傷跡がまだ生々しく残る中、新しい天皇が初めて迎える年明けに、今度は疫病が外国から日本国内に押し寄せて来たのです。中国の湖北省武漢が発生と言われている新型コロナウィルス性肺炎。この疫病が、現在進行形の形で国内に蔓延しています。

 さて、国際災害データーベース( EM―DAT) では、災害は気象災害、地質災害、生物災害などに分類されるようです。台風は気象災害に、地震は地質災害に、疫病・感染症は生物災害に含まれるとのことです。

 つまり、令和に改元した後、日本は次から次へと災害に襲われていることになります。地質災害である地震は、昭和、平成を問わず、日本各地で頻発しており、わたしたちも、いつ大地震が起きても仕方が無いといった諦めに似た気持ちを持ってはいますが、さすがに生物災害は想像外のものでした。

 確かに、これまでも中国を発生のSARSや中東発生のMARS、日本でも発生した新型インフルエンザなど、幾つかの新しい感染症が発生してきました。

発生した当時、その感染症により亡くなった死者の数に、わたしたちも不気味さを覚えたものでしたが、ただ、時間の経過とともに、医学的に感染症を封じ込める努力と研究により、封じ込めに成功し、やがて感染症は収束に向かい、人々の記憶から薄れていきました。

 そして、幸運なことに、SARSとMARSは、日本国内に入る前に防御でき、新型インフルエンザも関西の一部で発症しましたが、それが全国的規模になる前に収束した結果、ほとんどの日本人にとっての集団感染症の恐怖は、これまでは遠い国の出来事や映画や小説の世界の出来事といったものだったようです。

 ところが、今回の新型コロナウィルス性肺炎は、遠い国の出来事やフィクションの世界の出来事ではなく、自分の住んでいる町や村に広まっているリアルな感染症であることに気づかされ、ひどく動揺しているのです。

 最初は、中国で起きている感染症といった認識でした。それは、わたしたち国民だけでなく政府の方もそういった認識だったようです。中国の流行の中心である湖北省や武漢からの渡航者をチェックして、国内へのウィルスの侵入を防ぐという古典的な防疫体制で臨んだのでした。

 しかし、二十一世紀に入り、急速にグローバル化が進展し、ヒトとモノの行き来が飛躍的に増大している中で、前世紀の船便での移動を前提にした古典的な防疫体制では、防ぎきれない時代を迎えていたのでした。

 特に、中国の旧正月である春節の時期と重なったことで、国内だけでなく、国外にも感染症は急速に拡がり、その脅威に気が付いた頃には、中国国内だけでなく、全世界へと拡散していたのでした。

 更に、今回の新型コロナウィルスは、感染しても無症状あるいは軽い風邪の症状といったケースも多く、そういった症状にも関わらず他人に感染させる能力を所有しており、その上、潜伏期間もインフルエンザよりも長いということで、無症状のまま感染者を増やす厄介な性質を持っています。

 同じコロナウィルスであるSARSとMARSは、感染していないと他人に症状を感染させることがなかったため、徹底的に感染者を隔離し、感染の拡大を封じ込めるという対策で、世界的な感染=パンデミックを阻止することに成功しました。

 ところが、今回の新型コロナウィルスは、SARSやMARSに比較すると毒性は低いものの上記のような厄介な性質を持っているため、感染の封じ込めには困難というのが現時点での研究者たちの見解のようです。

 実際、当初は中国を中心に、韓国、日本といったアジアの国々の感染症と考えられていたものが、これを書いている三月の半ばの時点では、感染の中心地はヨーロッパ大陸、アメリカ大陸へと移り、急速な勢いで患者数、死者数が拡大しています。

 この状況を見て、WHОの事務局長も、とうとう「パンデミック宣言」を出さざるを得なくなり、この宣言をきっかけに、今年の夏に東京で開催予定でしたオリンピック・パラリンピックの中止または延期が現実的なものになりつつあります。

 これまで、戦争によるオリンピックの開催中止は経験していますが、それ以外の理由での中止や延期ということは一度もなかっただけに、今回の感染症による中止または延期は、日本国内に暗い影を落としています。

 それにしても、東西冷戦が終結し、ソ連の崩壊と中国の市場開放( 政治的には社会主義だが、経済的には資本主義=国家資本主義) により、急速にグローバリゼーション化が進展し、これまでのどの時代にも増して、地球上を人とモノが行き来するようになったところに出現した新たな脅威が、人間の目に見えないウィルスであったとは、なにかフィクションの世界のように思えてしまうのはわたしだけでしょうか?

 つい、一ヵ月前に、わたしたちの生活が、こんなふうに自粛ムードに包まれ、小中高等学校の休校、人混みや人の集まる場所を避け、マスクや手洗いに気を付けながら、見えない敵を恐れるような有様に陥ることなど予測できたでしょうか!

 正直なところ、中国武漢から届く映像に、『いやはや大変だな』と遠い国の惨状に同情しながら、どこか他人事として眺めていたのが、大多数の日本人だったように思います。それが、自分の生活を直撃し、経済的な苦境をもたらすものだと想像した人がどれほどいたでしょうか?

 しかし、一般の国民はそうであったとしても、政府までもがなにも考えず、他人事のように考え、適切な手立てについて、専門家を交え、対策を協議しなかったということは明らかに失敗であったのではないでしょうか。

 第二次安倍政権は、発足当時より、東日本大震災の福島の原発事故に対して、「当時の民主党政権が無能であり、きちんとした対処が出来なかったので悲惨な結果を招いたのだ」と、民主党政権時代を完全否定するような言説を弄して来ました。

しかし、今回の政府の初動の遅れや混乱ぶりを見ていると、自分たちも同様にお粗末な対応しかできない政権であることを暴露してしまったように感じるのですが、それは、わたしが安倍総理を個人的に好きではないという理由からだけでしょうか。

 さて、今回の感染症の対応に関して、厚生労働省の無能ぶりが大きくクローズアップされました。優秀な成績で東大などのエリート校より選抜され、国家公務員となった官僚と呼ばれる人たちは、平時においては無類の能力を発揮するようです。

 過去の事例をいち早く調べ見つけ、過去においてはこういう処理を行ったと大臣に伝え、国会の質疑応答には完ぺきな回答を準備するという能力では、群を抜いて優秀であることは証明済みです。

 ところが、今回のように前例が無い事象が生ずると、そういった強みは全て弱みとなってしまうようです。例えば、三千人を超える乗客乗員が乗り合わせた豪華クルーズ船内に感染症が発生し、その船が領土内に停泊した際に、どういった対処をするかといった緊急事態に関しての前例はこれまでにはありませんでした。

 こうなると、官僚たちは全く無力になります。全員に感染の有無を確かめるPCR検査を実施するか、それとも暫時実施するのか、そういった重要な決定を判断することが出来ぬまま、最終的には七百人を超える感染者を船内で大量発生させることとなりました。

 これについては、同様の事例に対して、香港では三日間で全員検査を実施し、陰性と陽性を確定し、陽性の人は隔離、陰性の人は自国に帰国といった素早い措置を行ったことで、船内での大量感染を見事に防いでいます。

 アメリカも、三月に起きたサンフランシスコでの豪華クルーズ船内での感染については、日本方式ではなく、香港方式を採用し、陽性、陰性検査の後に全員下船させ、地上での隔離等を実施しています。つまり、日本方式は失敗例として今後も感染症対策の教科書に掲載されることでしょう。

 いずれにしても、日頃優秀であると言われてきた官僚たちの右往左往ぶりは、その後、当初の遅れを取り戻そうと、慌てふためき、科学的なエビデンスも無いままに、唐突に、小中高等学校を休校することを宣言した安倍総理の政治的決断へと続くプロローグだったように思います。

 こういった官僚たちの無能ぶりを見るにつけ、わたしは日本がアメリカと戦争を始める際の政府の混乱ぶりを思い起こすのです。日米開戦前夜の日本政府は、開戦後に勝利できるのかというシュミレーションを実施しながら、そこで得られた厳しい現実を無視して、開戦へと踏み込み、最終的に大敗北を喫することになりました。

 特に、科学的なエビデンスにより、現状を分析し、その後生ずるであろう結果を予測できていながら、その事実に目を瞑り、自分たちにとって都合の良い事実に書き換えることで、戦争を遂行しようとする高級軍人や官僚たちの姿勢は、現在の感染症に対する官僚たちの姿勢にも通じているように感じます。

 例えば、春節により、大量の中国人が中国各地より観光等の目的で訪日していたにも関わらず、感染源とされた湖北省と武漢からの来訪者だけを防疫の対象にしたということについては、早い段階から専門家により疑義を呈されていましたが、それを検めることがないまま、ずるずると決断を先延ばしたことなど、それに当たるのではないでしょうか。

 実際に、国会の質疑の中でも、立憲民主党の議員の質問で、二月初めの時点で、日本国内に人から人への市中感染が起きており、海外からの防疫体制=水際対策だけではなく、国内での感染阻止のために二千九年に作られた「新型インフルエンザ等特別措置法」の運用を行うべきではないかと提案されていました。

 それに対する加藤厚生労働大臣の返答は、「今回のウィルスが未知のウィルスではなく、コロナウィルスであることが分かっているので、この特措法の対象にはならない」と言うものでした。

 多分、これは厚労省の官僚が書いた答弁であり、専門家でもない加藤厚生労働大臣は、それを鵜呑みにしてオーム返しのように答えたのであろうことは理解できます。

しかし、ウィルスの名前だけが判明しており、その詳しい性質や毒性などが明らかになっていない以上、それを未知のウィルスと認識することになんら問題はないと、わたしのような一般人は考えるのですが、どうやら官僚たちの中では、異なった見解が優先されたようです。

 そして、それから一ヵ月以上も経過した三月十三日に新たに「新型コロナウィルス特別措置法」が、二千九年に作られた「新型インフルエンザ等特別措置法」とほぼほぼ変わらぬ内容で、国会審議で議決されることになりました。

 今回の特別措置法成立の報道を見ながら、もし、二月初めの時点で、厚労省が「新型インフルエンザ等」の「等」を新型コロナウィルス肺炎と指定し、特別措置法による政策を実施していたなら、現在の状況とは異なったものになっていたのではと想像しています。

 いずれにしろ、今回の「新型コロナウィルス肺炎」という新たな感染症は、わたしたちの社会が抱えている様々な矛盾や社会的病理を可視化させてくれました。

 一例ですが、国内でのマスクの品切れの原因が、国内で販売されているマスクの八割が輸入によるもので、その輸入先が中国である。このことで、中国の生産工場がストップしてしまえば、国内需要に応じられないといった現実が露呈しました。

 更には、イタリアでの感染が増大している原因の一つとして、財政難により五年間で六百以上もの病院を廃止し、医師五万人、看護婦五万人不足していることが、今回の医療崩壊に繋がったのではと言われています。

 これは、日本政府が進めようとしている財政赤字を理由に、地域医療を担ってきた病院の廃止・統合を検討している施策が、こういった感染症の流行により、医療崩壊へと繋がっていくという暗い将来を暗示しているようにも思えます。

 また、中国が発生の地ということで、アジア人に対する差別や排除といった動きが欧米各地に広がり、留学学生やかの地で滞在しているアジア人( 中国人、韓国人、日本人など) に暴力行為がなされるなど、恐怖に突き動かされた野蛮な行為や思考が見受けられるようになっています。

 かつて、科学的な知識に乏しく、予防法も無く、十分な治療法も確立されていないために、疫病が流行すると、多くの人々が感染し、命を落とすことが、歴史上にも多く伝えられています。

 記憶の新しい所では、二十世紀初頭にパンデミックとなった「スペイン風邪( 新型インフルエンザ) により世界で数千万人の死者が出たという恐怖の記憶も残ってはいます。

しかし、現代においては、感染症に関する知見も、科学的に検証され、それに対応した治療法なども確立され、以前のように簡単に命を奪われることも無くなっては来ましたが、矢張り、人類の記憶の中に刻まれた感染症の恐怖は、上記のように唐突に噴出し、人々をパニックへと駆り立てるようです。

 わたしを含め多くの日本人は、気象災害、地質災害といったものには精神的な耐性が出来ているようですが、今回のような生物災害への備えも耐性も何一つ出来ていないことを改めて思い知らされ、その不安に戦慄しているというのが現状ではないでしょうか。(了)


「問われている絵画(137)-絵画への接近57-」 薗部 雄作

「個の自由と責任について」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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