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第146号

2020年4月4日

「個の自由と責任について」 深瀬 久敬

 

 自由という概念は、戦後民主主義の影響のためのように思うが、今日のわたしたち日本の社会の人間にとっては、かなり普遍的な概念になっている。その自由とは、思想・良心、信教、学問、表現、集会、結社、職業選択、居住移転、海外渡航などについてのものである。これらの自由は、よほどの客観的な阻害事情でもない限り、侵されることはないものと思われている。

一方、この自由の概念は、一人の人間としての個の確立という概念と表裏一体のものであることを忘れてはいけないと思う。個としての存在の適切な理解のないままに、個としての自由はありえない。個としての存在の理解とは、人間社会の一員としての理解であったり、地球上の生物のなかのひとつの存在としての理解であったり、個としての位置づけのスパンの広がりにも影響される。

そして、こうした個としての理解を深めることが、個としての自由の前提であり、さらに、そこには個としての全体への責任の自覚を必然的に伴うことを理解していなくてはならないと思う。すなわち、個としての存在の自覚、個としての自由の自覚、個としての全体への責任の自覚は、一体のものだということである。

 

こうした自由の概念は、近代社会になってから誕生したことは理解しておく必要がある。人間の歴史を振り返れば、特定の集団として、いかに安定して秩序を保って安心して生存し続けるかが最大の課題であり、個としての存在が正面から問われることはなかったのである。具体的に言えば、武力的権威や宗教的権威を背景として、身分制度や封建制度のもとで統治された社会では、個人の自由という概念は存在しえなかった。社会の秩序や安定を揺るがすような個としての問題提起や不平不満の表明は排除されるべきものというのが基本的な考え方であった。「知らしむべからず、依らしむべし」が統治の基本概念であった。従順が社会規範であり、問題意識を深めたり、好奇心を強くもつことは、既成の権威を危うくするものであり、社会的に禁忌とされるべきものであった。

 

人間の個としての意識の覚醒は、西欧近代の歴史のなかで、神話的宗教的権威の強かった古代・中世から、ルネサンスによって人間中心主義に転換し、さらに宗教改革を通して、個人の内面世界の在り方が問われはじめたことが端緒になっていると思う。この内面に向かう意識が一方で外面に向けられたとき、科学の誕生につながった。

東洋の禅の思想においても、全体の中での個の意識が深められたように思うが、個としての責任という方向にはいかなず、個の中にとどまってしまったのではないだろうか。四弘誓願として衆生無辺誓願度のような言葉はよく聞かれるが、個のなかに責任をもって染み込むという感覚とは違うように感ずる。社会状況としても、社会の秩序と安定を重視する風潮が強く、問題意識や好奇心を幅広く顕在化することは憚られたということではないだろうか。

 

個としての意識の誕生は、フランス革命の「自由、平等、博愛」のスローガンや人間の理性は生まれついて平等にあたえられているといった思想のもとに、次第に深められた。そして、アメリカ合衆国の建国を機に一気に加速したように思う。北米大陸には、古くからの伝統的な権威は存在していず、さまざまな国からの移民が押し寄せ、銃による自己防衛や生活のあらゆる面での自己責任、自己努力が一般化した。こうした平等意識のもとで幅広い競争が全面的に繰り広げられた社会運営は、人類史上でも画期的なことであったし、それは、先住民の人々がいたとはいえ、近代の始まりにおいて、これほど広大な自然のままの大地が残されていたという奇跡に負うところも大きいと思う。

 

以上、個の意識の深化と全体への責任の自覚の表裏一体性について述べてきたが、今日の世界の在り方について、四点ほどコメントを加えておきたい。

 

第一に、日本の社会における個としての意識の深まりについてである。日本は、戦後の米軍を主体にした占領軍の統治下において、アメリカ合衆国の憲法をさらに純化したような理念に基づく憲法を日本国憲法としてもつようになった。これは、戦後の米ソ冷戦構造がもう少し早く始まっていれば、こういう憲法をもつことにはならなかったのではないかとも思われるし、押し付け論がくすぶり続ける根拠にもなっているように感ずる。さらに戦前の神格化された天皇のもとでの統治体制は、戦後においても官僚制度などを通して根底では引きずっていて、政府という行政組織を、お上意識とでも言うのか、心底自分たちのものであるという意識が透徹していないように思う。行政組織が黒塗りだらけの文書を、理由もはっきりしないまま提示して当然と言わんばかりの態度は、その一環であろう。政治と国民との間に本当に信頼関係があるのかという疑問は拭い去れない感じがする。

 また、日常的に、公共の場におけるマナーの在り方に接するとき、本当に個としての存在の理解がどこまでできているのか、疑問に感ずることもある。少数の人と言えるのかもしれないが、混雑のなかをスマホを見ながら、周囲を気にすることなく歩く人を見るにつけ、考えさせられてしまう。

 

第二に、中国などの非民主主義の国家の在り方についてである。今の世界には、中国をはじめ、本当の意味での民主主義ではない国は、かなり存在している。中国においては、共産党の一党独裁体制が統治していて、ネットによる体制に不都合な情報発信は、即座に消去されるようであるし、最先端の情報技術を駆使した監視体制も構築されつつあるようである。これは、国民全体としての個の確立の意識が低いこともあり、やむをえないという面もあるのかもしれない。しかし、個としての意識の深まりを推進するような教育体制ができているのかという点からも、経済大国化の勢いが今後高まるなかで、このままでよいのか強い危惧を感ずる。

 

第三に、組織と個人の関係についてである。今日の社会は、産業社会とも言われ、人々は、なんらかの組織のメンバーとして社会生活を営んでいる。日常生活においては、こうした組織の中でうまく機能することが要請され、個としての意識を深めるの時間は、なかなかとれないのが現実のような側面も否定できない。鎖国的な孤立化に走ったり、既成の政治体制に感情的なノーを突きつけたり、財政状況を無視したようなばらまきを喧伝するようなポピュリズムが、世界的に蔓延するのも、こうした状況に起因するのかもしれない。ポピュリズムは個としての自覚と全体に対する責任を放棄した態度に基づくものだと思う。行政組織であれ、企業組織であれ、法人と呼ばれる組織は、それなりの法律によって規制され、さまざまなステークホルダーが関与はするが、究極的には、一時的な便宜的な存在にすぎないと考えられる。宇宙から地球をみた宇宙飛行士は、自分のふるさとは国家とか生まれ育った地域ではなく、地球だと感ずるという。企業組織をはじめ、国という組織も、状況に応じて、必要がなくなれば解体されるものという理解でよいのではないだろうか。人間は特定の組織に所属することによって、それをアイデンティティーとして、自己の安定を図ろうとする傾向がある。しかし、アイデンティティーというのも、便宜的なものである可能性も否定できないという点に注意すべきではないだろうか。生物界全体のなかでの個としての自己の存在意義を深めるなかで、全体の中での責任はいかにあるべきか問う姿勢が、これからの世界では大切になるように感ずる。

 

第四に、美意識についてである。美意識というのは、極端かもしれないが、個としての存在の自尊心のようなものを支えるものかもしれない。個の意識を深めるなかで、自己の存在を支えるのは、美意識なのかもしれない。個としての意識を深めるときに、生命の根源のような、より広いものに接近したいという思いが、美意識として表出するのではないだろうか。プラトンのイデア論のような、なにか生命には、その存在の根底に根源的な不可解さがあるように感じてならない。量子の世界のようななかに生命の根源があるのかとか、最近、思うこともあるが、そうした無機的な世界ではなく、究極の美意識のような世界がある方が人間として生まれ、生きていることに感謝したくなるということではないだろうか。かつて芸術は権威の説得力を強化する手段としての位置づけが強かったように思うが、近代社会では個としての内面を深める姿勢のようなものと直結した側面も強調されているように思う。そうした美意識をこれからの社会のなかで、どのように位置づけていくのかという点が、今問われているようにも感ずる。

 

 人間の尊厳は、個としての自由の概念があってこそ成り立つのだと思う。個としての自由の概念を、各自が掘り下げ、全体にたいする責任の自覚を深めるとき、ひとつの生命としての人間は、健全に存続しうるように感ずる。


「負けること勝つこと(102)」 浅田 和幸

「問われている絵画(137)-絵画への接近57-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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