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第147号

2020年7月28日

「負けること勝つこと(103)」 浅田 和幸

 

 今から五十年前の千九百七十年六月二十三日に日米安全保障条約が自動延長されました。現在、千九百七十年のトピックスと言えば、大阪で開催された「万国博覧会」で、同じ年に自動延長された日米安全保障条約を思い出す日本人は少ないことと思います。

 しかし、当時は六十年の安保闘争から続く、大衆政治運動として、大きな盛り上がりを見せていたトピックスでした。わたしも、その年の四月に大学に入学し、学園内で行われていた安保闘争に多少なりとも関わり、六月二十三日の自動延長の日には、闘争に関わっていた学生たちと一緒に、キャンパス内で深夜零時を迎えたことを記憶しています。

 そういう意味で、わたしは七十年安保世代と呼ばれている世代に属しているわけですが、現在、そういう世代区分を語っても、ほとんどの日本人は、興味が無いといった反応をすることと思います。

 しかし、それは日米安全保障条約が、この日本から無くなってしまい無関心になったのではなく、逆に、余りにも深くこの国の制度と一体化しており、今更、それを特別に意識して、何か考えようといった意識すら無くなったと言ってもよいのではないでしょうか。

 実は、わたしが生まれた千九百五十一年。その年に日米安全保障条約が締結されているのです。そして、小学生の頃に、六十年安保闘争を、大学生になって七十年安保闘争を体験したということで、わたしの中ではずっと日米安全保障条約が棘のように引っ掛かり続けて来たのでした。

 さて、改めて日米安全保障条約について考えてみたいと思います。この条約が締結されるにあたっては、二つの要因がありました。一つは国内的な要因として、太平洋戦争に敗北し、ポツダム宣言を受諾し、アメリカ軍による占領下で制定された日本国憲法の第九条「戦争の放棄」です。二つ目は国際的要因として、第二次世界大戦後に生じたアメリカとソ連との軍事的対立「東西冷戦」です。

 まず、国内的要因である日本国憲法第九条の「戦争の放棄」という条文により、戦後の日本では、軍隊を保持することが憲法により禁止させられたのです。

 それ以前も、第一次世界大戦後に国際連盟が中心となり締結されたパリ不戦条約により、侵略戦争は禁止されることになってはいましたが、日本国憲法の第九条に書かれているような「戦争の放棄」「軍隊の廃絶」「交戦権の否定」まで踏み込んだ条文を憲法に採用した国はありませんでした。

 この憲法制定により、日本は軍隊を持たない国として、出発することになったわけですが、この憲法が制定された後に、国際社会の関係が大きく変化することになりました。

 それまで、連合軍として、イタリア、ドイツ、日本と戦ってきたアメリカとソ連との間に、軍事的対立が始まり、ソ連が原子爆弾を独自に開発し保有したことにより、この対立は決定的なものとなり、その後、この対立は「東西冷戦」と呼ばれることとなりました。

 更に、千九百四十九年に、毛沢東率いる中国共産党が、蒋介石率いる国民党を内戦で打ち破り、中国大陸に中華人民共和国を樹立することとなりました。

 その後、戦前日本の植民地であり、戦後は日本が撤退し軍事的権力が空白になった朝鮮半島を、ソ連の援助を受けた金日成率いる共産党軍が攻め込むという朝鮮戦争が千九百五十年に勃発しました。

 そういった東アジアの戦後の大動乱を前にして、日本の地勢学的地位は、終戦直後とは大きく変化していく事となりました。アメリカ軍が占領していた日本列島は、まさに、東西冷戦の前線基地といった塩梅を呈することとなったのでした。

 特に、朝鮮戦争では、アメリカ軍のロジステックを支える前線基地の役割を果たし、三十八度線を境にした朝鮮戦争の休戦後には、大韓民国に駐留する国連軍( 実体はアメリカ軍) の後方基地としての役割を担わされることとなりました。

 そして、わたしが生まれた千九百五十一年、日本はサンフランシスコ講和条約により、アメリカの占領下を解かれて、国際社会に復帰を果たすこととなりましたが、その時も、ソ連や中華人民共和国との間では、この条約による講和はなされませんでした。

 つまり、アメリカの占領が撤退した後も、緊張した状態が続く東アジアに位置する日本は、アメリカ側の一員としての役割を果たすことを強く求められたのでした。

 そして、講和条約を締結し、アメリカ軍の占領が終わった後も、改めて日米安全保障条約を締結し、アメリカの軍隊が日本国内に駐留することを日本政府が認めること、それを条件に国際社会への復帰を果たすことが、アメリカにより了承されたのでした。

 占領初期には、憲法第九条を積極的に推進したアメリカ政府でしたが、東西冷戦が激化していく中、それまでの論調を違えて、日本政府に軍隊を保有するように迫りました。

 しかし、吉田茂首相は、第九条を盾にして、日本の再軍備を認めようとはしませんでした。ただ、同じ保守層でも、吉田茂とは異なり、戦前の日本を復活させようといった動きもありました。

 また、革新派からは、日本国内でのアメリカの軍事基地を認めようとはしない住民の反対運動と連携し、アメリカからの独立を図ろうとする動きもありました。

 それが、千九百六十年の日米安全保障条約の改定問題へと進んでいきます。当時、総理大臣であった岸信介は、吉田茂が締結した日米安全保障条約が不平等条約であることを理由に、十年後での見直しを契機に、その条約の内容の変更を企図していました。

 彼は、戦前は新経済官僚として、日本の総力戦を支える経済運営に深く関与し、戦後は一時戦犯として獄に繋がれるも、それを乗り越え、吉田茂に反対する保守的政治家として総理大臣に上り詰めた人物です。

 彼にとって、憲法第九条による「戦争放棄」は、唾棄すべき事案でした。この条文がある限り、日本はアメリカから独立することは出来ないと考えていたのでした。

 彼の頭の中では、現在ある不平等な日米安全保障条約を平等なものに変え、それが続くことで、やがては日本国内にあるアメリカ軍の基地や軍隊も無くし、戦前のように軍隊を保有した独立国家日本を実現させたいという思いがあったようです。

 しかし、革新派もアメリカ軍の基地・軍隊の撤退に関しては岸と同様の思いを抱きながら、それと同時に、戦争放棄を謳った憲法第九条も守っていくという姿勢を崩そうとはしませんでした。

 それは、その当時の大多数の日本国民の率直な感情でもありました。まだ、戦争の傷跡は至る所に残っており、戦争により身内の不幸を経験した人々を含め、厭戦感情を抱く国民の数は大多数を占めていたのでした。

 確かに、アメリカ軍の基地・軍隊が日本国内から撤退していく事については賛成でありながら、その代わりに、自分たちが戦前のように軍隊を保有し、現在、極めて緊張状態にある東アジアの情勢の中で、前面に立って戦いを受け止めるといったことには、賛同する人間は一部だったようです。

 それが、六十年の安保闘争を国民的な闘争へと盛り上げていき、最終的には岸内閣を退陣させる大きな原動力となったのでした。そういう意味で、これは戦後の国民の政治活動としては、極めて大きな動きであったと思います。

 ただ、現在から振り返ってみる時、岸信介首相が遠い将来に見据えていたアメリカ軍の基地・軍隊を国内から撤退させ、日本が独立国として国際社会で振る舞うということは、革新派を中心に当時の日本国民も抱いていた願望でもありましたが、これを境に急速に薄れていく事となりました。

 その代わりに準備されたものが、池田隼人首相による「所得倍増計画」でした。わたしは、当時のテレビ番組で、多分、宮澤喜一氏が説明していた「所得倍増計画」の図解を鮮明に記憶しています。

 小学生のわたしでも分かるような単純な説明でしたが、極めてインパクトがありました。左側には丸いケーキを六つに切り分けた絵が描いてあります。右側にはその丸いケーキが倍の大きさになり、同じく六つに切り分けてあります。

 そして、画面の宮沢氏は「こうして、ケーキを倍にすると、それぞれの手元に行くケーキの大きさも倍になるのです」その時、わたしは子どもながらに「これは凄い」と思いました。そして、本当に実現出来たら日本は豊かな国になると思ったものでした。

 当初は、十年で「所得倍増」と謳っていましたが、経済成長の伸びは凄まじく、瞬く間に所得倍増を実現すると同時に、六十年代を通じて、日本社会は高度経済成長を成し遂げ、毎年、毎年、生活が豊かになっていく事を実感できる世界が訪れたのでした。

 アメリカのホームドラマで描かれていた豊かなアメリカ社会が、この日本でも実現していくということが次第に明らかになっていくに連れて、アメリカ軍の基地・軍隊が駐留しているということへの疑問や違和感が日本人の間で薄れていったように感じています。

 勿論、六十年代は六十年安保闘争を端に発して、学生運動が激しさを増して行く時代でもありました。日本社会が高度経済成長に邁進し、生活が豊かになっていくと同時に、大学への進学率も急激に伸びていきました。

 戦前においては、一部のエリートであった大学卒業者も、高度経済成長が進展していく中で、エリートではなく、一般の労働者と変わらぬ地位へと墜ちていくこととなりました。そのギャップへの戸惑いと反感が、六十年代の学生運動の原動力であったようにわたしは感じています。

 また、戦前の象牙の塔といった雰囲気を醸し出す大学教育が、高度経済成長による新たな産業社会に、不適応となりつつも、旧態依然としたまま残存していることへの違和感や抵抗感もそこにはあったように思います。

 いずれにしても、学生たちの運動の原動力として、反アメリカ・反権力といったものが強く影響を与えていました。そして、それが七十年安保闘争へと流れ込んでいきます。

 わたしが高校生だった千九百六十七年から六十九年の三年間は、日本だけでなく世界的にも若者や学生を中心にした反体制運動が盛んな時期でした。

 アメリカではベトナム戦争が泥沼化して、徴兵拒否といった反軍的運動が激化、ヨーロッパでも、パリやベルリンで過激化した学生や若者たちの反体制デモが頻発していました。

 そういった世界の動きと呼応するかのように、日本でも反体制デモや学園紛争といったように、大学の経営や運営を巡っての異議申し立てが時代の大きな潮流になっていました。

 六十年安保闘争の時代は、素手で警察と向き合った学生たちも、武装化を始め、ヘルメットを被り、火炎瓶やゲバ棒といったもので武装し、機動隊と対峙することになっていました。

 その結果、六十年安保闘争に参加していた一般市民たちは、その過激さについて行けず、政治的な発言を一部では控えるといった動きも目立つようになりました。

 こういった国民の意識の変化により、六十年安保闘争と七十年安保闘争の社会的な位置づけも大きく変化を余儀なくされました。更に、戦争の生々しい記憶が薄らぐと同時に、高度経済成長の果実である豊かで便利な生活を享受する人々にとって、政治的な不満より経済的不満を解消させる施策が重要になりつつあったのです。

 千九百六十四年の東京オリンピック、千九百七十年の大阪万博、戦後の日本社会が経済発展し、国民生活が豊かに変化していくことを実感でき、それを世界にも発信できるということに、日本人の意識は大きく移っていたのでした。

 更に、東西冷戦が持続していく中、アメリカの核の傘の中に納まり、ソ連や中国と対峙していくことが、日本の平和を維持していくための唯一の現実的な方法であるといった考え方が浸透していく中で、六十年の安保闘争で論点となった日本の独立といったことは、経済の面においても重要なものではないと考える国民が増えていったようです。

 その結果が、七十年安保闘争は六十年安保闘争のような国民的な規模での盛り上がりを見せることなく、自動延長が決まり、その後、日米安保条約の締結等に関して、国民の間で政治的な議論が巻き起こることは無くなったのでした。

 千九百七十二年に、戦後長くアメリカの占領下にあった沖縄が返還されました。返還された沖縄には、アメリカ軍の基地が残り、東アジア地域における東西冷戦の最前線としての役割をそのまま引き継いでの本土復帰でしたが、本土に住む大多数の日本人は、その現実に違和感を覚えることはありませんでした。

 これは、日本人が戦後二十五年間の間に無意識の内に認めて来たアメリカと日本との関係の結果だったように思えます。その関係とは、戦時中、「鬼畜米英」と唱え、徹底抗戦を指導して来た軍部か崩壊し、その後、アメリカが占領する中で、戦前とは真逆のアメリカ感を培ったことが生み出したアメリカ礼賛の価値観だったのです。

 冷静に考えて見ると、これはとても不思議な価値観に思えます。それは、あの戦争で三百六十万人の兵士や市民が殺され、広島や長崎に原子爆弾が落とされた国民であるなら、アメリカへの恨み言の一つも言いたくなるはずです。

 時代は違いますが、フランス人のアルフォンソ・ドーデが書いた短編小説「最後の授業」。普仏戦争に敗れプロシア側に割譲されたアルザス地方に住むフランス人の子どもたちが、フランス語での授業の最期を迎える日の事が書かれています。

 その中で、言葉を奪われることが、フランス人である魂を奪われることと同じであるといった思想が語られ、そこにナショナリズムの正体が描かれていますが、日本人は、言葉こそ奪われたりはしませんでしたが、魂は奪われたと感ずるのはわたしだけでしょうか?

 現在、岸信介首相の孫にあたる安倍首相が、日本の総理大臣として選ばれ、憲法・・特に第九条の改正を政治的悲願とまで公言していますが、彼のアメリカのトランプ大統領への言動を見ていますと、祖父である岸首相が、将来の日本の姿として掲げたアメリカからの独立とは、まるで正反対の徹底的に媚びた卑屈な態度しか見受けられません。

 彼が口にする「日米安全保障条約を基軸とした日米関係」とは、アメリカの属国としてひたすらアメリカに媚びを売り、軍事的にも経済的にも日本を凌駕して来た中国から保護してもらいたいといった主体性の無い情けなさが浮かび上がって来るのです。

 しかし、安倍首相の態度を大部分の日本国民は非難することは出来ないようにも思えます。それは、わたしも含めて、アメリカに対する姿勢が、安倍首相のような媚びた卑屈な部分を共有しているからに他ならないのです。

 皆様はどうでしょうか。わたしは、香港で起きているデモに対して、香港警察が取り締まる映像とアメリカの白人警察官が黒人男性の首を膝で圧迫し死に至らしめる映像を見せつけられた時、香港警察の野蛮な対応には、違和感を覚えない一方、アメリカの白人警官の行動には、「えっ、こんなひどいことするの」といった違和感を覚える自分がいることに気が付くのです。

 それは、どこかでアメリカへの憧憬というか賛美というか、そういった過大評価したい感情を抑えることが出来ないからだと分析しているのです。アメリカ以外の国に対しては決して抱くことのない感情。それがわたしの中に存在しているのです。

 そして、これは東京の上空に広がる「横田空域」の存在を知らされながら、その理不尽な状況を打開するために、反対デモを含めて、何一つ行動を取ろうとしない日本人の姿とも重なり合うのです。

 自国の首都である東京の上空を、自国の飛行機が自由に飛ぶことが出来ない。この状態についてどこか「仕方がない」と思っているわたし自身がいるのです。

 アメリカと戦い敗北し、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を行ったというのは、別に、日本人個々人が主体的に選んだことではありません。あくまでも、時の日本政府が決定したことに、国民として従っただけでした。

 ところが、その後のわたしたちは、まるで自分たちが望んだように、アメリカの占領を受け入れ、更には、占領が終わり、日本として国際社会に復帰できたにも関わらず、まだ、アメリカの占領下の中に生きていく事を選んでいるのです。

 第二次世界大戦で連合国と戦い敗北した枢軸国は、日本だけでなくイタリアやドイツなどいくつかありますが、こういった日本のような態度を、今日まで持ち続けている国は日本のほかにあるのでしょうか?

 寡聞にしてわたしは知りません。多分、このアメリカに対する卑屈さは日本だけの現象のように思えます。その原因は一体全体何によるものなのでしょうか。

 戦前の日本では、一部の支配者階層を除いて天皇中心の国家運営が営まれていました。明治憲法を作った伊藤博文は、当時の欧米近代国家から評価を受けるために、立憲君主制に基づき、天皇も憲法で制約される一機関であると定めました。

 しかし、一般国民に対しては、天皇は「現人神」であるといった教育を推進し、天皇の存在を絶対的なものとして権威づけるようにしました。これが「顕教」と「密教」と呼ばれ、明治の元勲たちが存命な間はうまく機能していました。

 ところが、明治の元勲たちが亡くなり、このシステムを巧妙に運用していく力が失われると、軍人たちを中心にして、天皇を「現人神」と担ぎ上げ、自分たちの都合の良いように利用しようとする勢力が力を増してきたのでした。

 美濃部達吉博士の唱えた「天皇機関説」。これは当時の支配者層にとっての「密教」として伝えられていたものが、突然、「顕教」サイドからクレームが出され、大衆を動員したプロパガンダにより、徹底的に否定されることになりました。

 つまり、戦前の軍人たちが推し進めた無謀な侵略戦争は、それまでのシステムが破壊されたことで、国家としての意思を決定する機関が消滅した混乱が原因だったことになります。

 軍人たちは天皇を利用して、自分たちのやりたい戦争を勝手に進めて行きはしましたが、外交交渉など、本来政府が行わなくてはならぬものにまで口を挟むと同時に、陸軍は陸軍の海軍は海軍の省益だけを追求し、一つの統一した機関として戦争を指導していくことが出来なかった結果、未曽有の大敗北となったのでした。

 敗戦により、天皇は「現人神」であることを自ら否定し、国民はそれまでの精神的な神を失うこととなりました。ただ、占領したアメリカは、天皇の戦争責任を追及せず、天皇制という制度も戦後に遺すことで、占領政策をスムーズに実行することが出来たのでした。

 しかし、天皇が「現人神」であることを否定された日本国民の心にはポッカリと大きな穴が開くこととなりました。ただ、日本人の宗教観は、キリスト教やイスラム教のような一神教ではなく、山川草木といった森羅万象に八百万の神を見出すものだったため、国民は新たな神を見出すことになったのでした。

 それが「アメリカ」だったのではないでしょうか。終戦直後、日本人の目に焼き付けられた一つの象徴的な光景があります。占領軍の司令官マッカーサーと昭和天皇とのツゥーショット写真です。

 大柄な体躯を軍服に包むマッカーサー元帥に対して、小柄な身体を黒服に包んだ昭和天皇。この対比は、まさに勝者と敗者の対比として意図的に撮られ、流布されたイコンだったように思います。

 そして、このツゥーショットを見せられた日本国民は、敗戦後のこの国の新たな支配者が誰であることを心に深く刻まれたのです。それまでの「現人神」である天皇を超越した新たな神。それがマッカーサー元帥という実在の人物を通して君臨したアメリカであることを否応なく思い知らされたのでした。

 戦後に生まれたわたしの記憶の中には、常にアメリカは憧れの存在でした。テレビでアメリカのホームドラマを見るようになると、そこで営まれている豊かな日常生活に、羨望の眼差しを向けると同時に、音楽であるなら洋楽と邦楽、映画であるなら洋画と邦画といったように、前者の方が優れているといった先入観で受け入れて来たのでした。

 多分、無意識の内に刷り込まれたアメリカへの憧れは、やがてアメリカの価値観を尺度にして、日本社会を見つめる子どもたちを生み出し、それが成長して日本人となっていく流れを作り上げることになったのではないでしょうか。

 それが、現在に至るまで、大多数の日本人の心を呪縛しているのです。例えば、日本のタレントで中国語が堪能であるより人より、英語が堪能である人の方が、なにか優秀で賢く思えるというのも、この呪縛が如実に表れているのです。

 ここまで深く刻み込まれたアメリカへの憧れと尊敬の念により、冷静に考えてみれば明らかに理不尽と思える現在のアメリカと日本の関係をも正当なものと錯覚させるだけの力を持っているようです。

 今から十年以上前に民主党が政権交代をした際に、鳩山首相が、沖縄の米軍基地を沖縄以外に移設したいと所信表明演説をした際に起きた日本人の過剰な反発を今も鮮明に覚えています。

 この過剰な反発の原因は、アメリカ兵が起こす犯罪により、多くの沖縄の人たちが犠牲を強いられている現状を大多数の本土に住む日本人は頭の中では理解していながら、しかし、それまで大切に守って来た価値観の源であるアメリカを否定されたことで生じた心の中の反発であり葛藤だったように思います。

 さて、このように戦後一貫して続いて来た日本人のアメリカへの憧れと尊敬の念を揺るがす状況が現在起こっているのです。それはトランプ大統領のアメリカです。

 第二次大戦後、世界平和の理想を掲げ、国際連合を生み出し、世界の警察として、様々な地域紛争に関わって来たアメリカ。そのアメリカの掲げる理想を真っ向から否定する大統領が現れたのです。

 日本人は、敗戦後、アメリカがもたらした「自由と民主主義」により、長く平和な社会を築き上げて来たという自負があります。ところが、トランプ大統領は、その価値観を否定する初めての大統領なのです。

 自国第一主義を標榜するトランプ大統領を前に、わたしたち日本人は五十年ぶりに、日米安全保障条約について真剣に考えなくてはならぬ局面に立たされているのではないでしょうか?いまだ東西冷戦の傷跡が剥き出しのまま残っている東アジアの中で、これから行くべき日本の道を国民全体で議論する時が訪れようとしていると感ずるのはわたしだけでしょうか?    (了)


「問われている絵画(138)-絵画への接近58-」 薗部 雄作

「人間存在をより深く理解した政治へ」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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