わたしが現役時代に国際交流に関連した仕事をしていた時のことです。オーストラリア出身の国際交流員の女性に、日本の歴史について質問されたことがありました。
彼女の質問は、『サムライたちがいた時代を江戸時代(ザ。ピリオド・オブ・エド)と呼んでいるが、何故、徳川時代と呼ばないのか?』というものでした。
彼女からの質問があって、初めて、わたし自身も何故だろうと考えました。小学生の頃に、社会の歴史の時間に、「江戸時代」という時代区分を学んだ時以降、そういう疑問を感じたことがなかったからでした。
しかし、改めて彼女から質問を受けて、日本の歴史の時代区分が、世界史で学ぶ、世界の国々の時代区分と大きく異なっていることに気が付いたのでした。
ただ、その時は、深く考えることも無く、なにかいい加減な理由を挙げたように思います。彼女も、それ以上突っ込んだ質問をすることもなく、その場はそれで終わりましたが、それ以降、この彼女の疑問が心に刺さっていました。
改めて、ここで彼女の疑問について考えて見たいと思います。例えば、お隣の国、韓国の歴史では、新羅が支配したなら新羅、高麗が支配したなら高麗というように、支配した民族や王朝の名前が時代区分として採用されています。
これは、中国でも同様です。特に、古代の中国の歴史書は、その国を滅ぼし、新たに覇権を握った国の人々が、滅ぼした国の歴史を書くという仕組みになっていました。
そして、それが現代に至るまで継続されており、わたしたちも歴史の時間において中国史を学ぶ時の時代区分となっています。これは、権力を争った民族や王朝の歴史として認識されています。
ところが、日本の歴史の時代区分は全く違っています。他の国々と同様に、権力の争いはありながら、民族や王朝の変遷と言うのではなく、政治が行われた都市名を時代区分として使っています。
奈良に都があったので奈良時代、鎌倉に幕府があったので鎌倉時代いうように、政治が行われていた都市名の変遷により、時代区分を表すというのは、世界的に見ても極めて珍しい現象のように思えるのです。
この時代区分が出来上がったのは明治時代のようです。徳川幕府が政治の中心であった時に、自分たちの支配している時代を江戸時代とは呼んでいなかったことでしょう。
それまでの徳川幕藩体制を壊し、新たに明治維新を断行し、天皇制による国家運営に着手した明治政府が、こういった時代区分を採用したことには、明確な意図があったことと思われます。
それが、日本において天皇制が途切れることなく続いて来た、更に、その血筋は初代の神武天皇以来、絶えることなく続いて来たという神話を普及する目的であったと想像します。
それ故、他の国々のように、民族や王朝の変遷といった体裁を採用せず、天皇は常に都に存在していながら、天皇が政治の中心であった時は天皇がいた都を、その委託を受けた「征夷大将軍」が政治を執り行った時には、その幕府があった都市名を時代区分として採用したということのようです。
しかし、考えて見れば不思議な感じがします。世界史における時代区分のスタンダードに則ってみると、江戸時代という区分は意味が分かりにくいものです。だから、オーストラリア人の国際交流員は、『徳川時代』ではないのか?という疑問をわたしにぶつけたのだと思います。
さて、ここまでわたしが長々と書いて来たのは、日本人にとって政治権力が変わるということに対して、他の国々の人々とは異なった感受性が育まれ、それが常識として日本の国内だけに通用しているということを、改めて問いかけたいと考えたからです。
それは、日本の権力の変遷が常に中心が二点あるという楕円の形で行われてきたことを意味しています。これは、お隣の韓国や中国の歴史ではあり得ない状況でした。
かの国においては、新たに政治権力を握った民族や王朝は、それまでの貨幣を含めての経済の仕組みや文化的な価値観といったものを含め、前の政権を徹底的に否定することから出発しているのです。
中国の言葉にある「革命」とは、それまで支配していた支配者の正当性に疑義が生ずるようなことがあったなら、天に代わってそれまでの政権を打倒し、新たな秩序を生み出すことを認めているという思想に基づいているのです。
つまり、政治や国の運営において、問題が生じたと感じたなら、それを糺すために武力を用いて立ち上がることは、天(絶対的存在)も認めているという正義だということになるのです。
ところが、日本では事情が違っています。確かに、政権の変遷は繰り返し行われましたが、常に、もう一つの権力・・正確に言うと権威が否定されることがなかったのでした。
それが「天皇」ということになります。7世紀の後半、天武天皇により作り出された「天皇」という称号は、その後、奈良時代、平安時代を通じて継続されました。
但し、天皇が直接、政治に関わっていたのは、奈良から京都に都を移した桓武天皇の時代までで、その後は、朝廷の貴族であった藤原氏が実権を握り、天皇を補佐するという建前を残しながら、政治を続けていくことになります。
しかし、平安時代も末期になると、天皇を譲位した人間による院政が盛んになり、再び、天皇(上皇)が政治に直接的に関わるようになりましたが、最終的には、武力集団であり、対立する勢力が争うために生み出した武士たちが、権力を握ることで鎌倉幕府が誕生しました。
これが、日本以外の国々であったなら、この時点で、それまでの権力を握って来た天皇家は滅ぼされ、新たに源家(みなもとけ)が、日本の支配者になったはずです。ところが、日本ではそうはなりませんでした。
源頼朝は、鎌倉に新たな幕府を開くにあたり、天皇から「征夷大将軍」という役職名をもらい、天皇に代わり、政治を行うことを委託されるという仕組みを採用したのでした。
この「征夷大将軍」とは、平安時代、京の都より遠く離れた東北の地に住み、都に住む天皇の命令に従わぬ「夷(えびす)」を、武力により制圧する目的で派遣された軍隊の司令官に与えられた役職でした。
それを頼朝は、天皇から賦与されることで、武士の棟梁であると共に、日本の国を支配する支配者としてお墨付きを与えられたことになります。
それは、まだ京の都に君臨する天皇を含めて朝廷の力が強力だった時代ということを考えれば、ある種の妥協的産物として考えられないことではなかったと思いますが、それが次の足利尊氏、更には徳川家康の時代まで続いていくとなると、そこには別の意図があったと考えざるをえません。
特に、後醍醐天皇の建武の中興の失敗により、後醍醐天皇の勢力を京の都から放逐した足利尊氏は、その時点で、日本国国王として君臨してもおかしくは無かったはずでした。
しかし、尊氏はそうはしませんでした。それどころか、後醍醐天皇に代わり、新たな天皇を設え、その天皇から「征夷大将軍」の称号を付与されるという面倒臭いことまでやっているのです。
頼朝時代には、まだ権力を持っていた天皇家も、尊氏の時代になる頃には、すっかり衰えてしまい、武士たちの庇護が無ければ、自立することも出来ない程に、パワーダウンしていたにも関わらず、その制度を廃止しなかった理由とはなんだったのでしょうか?
そこに日本社会の秘密が隠されているように思えてなりません。つまり、天皇家がこれまで長く存続して来た理由がそこに隠されており、それが日本と他の国々との大きな違いとなっているということです。
ここからはわたしの勝手な想像ということでお付き合いください。日本のお祭りには御神輿を担ぐという行事が広く行われてきました。この御神輿、漢字の通り神様を乗せる乗り物です。そして、祭りでは、祭神を祀っている神社の氏子たちが、この乗り物を担いで練り歩くということで祭りはクライマックスに達します。
ほとんどの場合、祭りのフィナーレでは、御神輿に乗せられた祭神は、再び祀られている神社へと戻り、普段の日常が戻って来るという構成になっているようです。
この御神輿の祭神ですが、その実体を目で見ることは出来ません。あくまでも、神様であり、氏子といえども見ることも、触れることも出来ぬ神々しい存在として君臨しています。
その神様を担ぐということで、この祭神に帰依している人々は、一体感を感じ、そこに様々な願いを投影し、最終的には強い信仰心で結ばれることになります。
各地に、それぞれご祭神が存在し、それを信仰する多くの氏子たちが日本社会を形成していることになりますが、日本の天皇とは、このご祭神の頂点に君臨する存在ではないかと考えているのです。
勿論、天皇は実体を持った存在であり、御神輿に乗せられている祭神とは異なっていますが、大多数の日本人の意識の中で、天皇はそういった役割を果たす特別な存在として認知されているように思えるのです。
それが、いつ頃からそうなったのかは分かりませんが、少なくとも、足利尊氏の時代には、天皇はそういう存在として、人々の心の中に印象付けられていたように思います。
そうでなければ、尊氏が、自ら追放した後醍醐天皇の代理の天皇を立てて、その自分が擁立した天皇から「征夷大将軍」の称号を下賜され、それで漸く「室町幕府」を開くといった、酷くぐってまわった方法を取ることなどなかったのではないでしょうか?
日本人が古代より、文化的に大きな影響を受け来た韓国であれ、中国であれ、ひとたび尊氏のような立場に至れば、躊躇なく、それまでの天皇を廃止して、自らの名前を被せた王朝を立ち上げ、王様、皇帝、名称は様々ですが、そういった称号を抱く支配者になったことでしょう。
しかし、尊氏は御神輿を担ぐ立場にこだわったのでした。自らが支配者として御神輿になるよりも、支配者である天皇という御神輿を第一番に担ぐ役目を選んだのでした。
その理由は、御神輿に乗せられた祭神は、自らの意思で移動する方向を決めることは出来ません。祭神は鎮座するのみで、それを動かすのは神輿を担ぐ氏子たちの総意ということになります。
そして、氏子たちがてんでばらばらに移動する方向を選択しないように、それを指揮し、導く役目が必要です。この導く役目が御神輿のリーダーということになります。それを尊氏は選んだのではないでしょうか
これは、徳川家康も同様でした。応仁の乱から戦国時代と混乱した社会の中で、天皇家は貧窮し、伊勢神宮の遷宮すら百年以上も出来ぬ体たらくであったにも関わらず、家康は「征夷大将軍」の称号を天皇家より下賜され、徳川幕府を開くことにしたのでした。
この場合も、尊氏同様に、天皇家を廃絶させることなど、赤子の手を捻るほど簡単であったはずなのに、それを敢えてやろうとはしませんでした。
家康も、日光東照宮を建立し、そこのご祭神になりましたが、天皇に代わり日本全体の御神輿の祭神となることまでは、踏み込まなかったということになります。
日本の権力者たちは、自ら武力により覇権を握ることがあっても、それで自らの王朝や帝国といったものを敢えて作ろうとせず、御神輿としての天皇を頂点にした社会を維持してきたのでした。
これは、明治維新になり、徳川幕府に代わり、天皇親政という制度を明治政府が選択した後も変わりませんでした。近代国家として伍していくために作られた明治憲法は、一見、天皇親政による独裁体制と見せかけながら、伊藤博文など明治政府の重鎮たちが、天皇と言う御神輿を担ぐスタイルを踏襲しています。
これを、「天皇機関説」と呼び、一般国民に対して、現人神である天皇による神聖政治を謳いながら、政府の役人を始め、国家のエリートたちには、天皇も国家の一機関であり、それをコントロールしていく事が、政府の高官の仕事であるといった「顕教・密教」というWスタンダードとして敗戦まで継続して来た思想でした。
つまり、日本社会を統治する方法として、常に、権力の分散化が図られてきたのだと言っても過言ではありません。これは、一極に権力が集中するかのように見せかけながら、実は、権力は分散され、それで均衡が保たれているというのが、日本のお家芸ということのようです。
さて、ここで現代に話を戻すことにしましょう。8月の終わりに、安倍晋三首相が辞意を表明し、7年8か月余り続いた安倍政権は突然幕切れを迎えました。
正直なところ、民主党政権が総選挙で敗北し、新たに第2次安倍内閣が誕生した時に、これほど長きに渡って安倍政権が続くことをわたしは予想していませんでした。
しかし、実際のところ、これ程に長く続いたのには理由があるはずです。歴代の内閣の中で、最長だったのは、安倍首相の叔父にあたる佐藤栄作内閣でした。佐藤内閣は、池田内閣が進めた、高度経済成長路線を継承し、日本が経済大国にのし上がっていく60年代半ばから70年代初頭に掛けて政権運営をしていました。
この時代は、毎年勤労者の給料が上昇し、それに伴い消費も活発化し、日本の家庭に様々な電化製品が普及していくという希望に満ちた時代でした。敗戦後の復興から発展へと辿った道のりは、多くの日本人の生活を豊かにするだけでなく、更なる飛躍を予感させる明るい未来を示唆していました。
それ故、様々な社会問題(公害や産業構造の転換による失業)が噴出する中にあっても、それは将来において解決され、よりよい生活が待っているといった楽観的な希望により、不満や批判を打ち消すものになりました。
そういう明るく希望に満ちた日本社会のリーダーとして、佐藤政権は長期間に渡って維持されたのだとわたしは総括しています。その後、自民党が政権を維持しながら、佐藤政権を超える長期政権を生み出せなかったのは、高度経済成長が頭打ちになり、更には、バブル崩壊といったように、経済の停滞が大きく影を落としているのだと考えています。
ところが、安倍内閣は佐藤内閣を超えて、憲政史最長を記録することになりました。それでは、この7年8か月の間に、日本社会は劇的に変化し、かつてのような活力を見出し、経済的にも精神的にも希望に満ちた未来を提示することが出来たのでしょうか?
残念ながら、そういう結果には至っていません。勿論、幾つかの点で、安倍内閣により経済的に改善された面はありました。ただ、それも当初に掲げた目標に達したものは少ないと言わざるを得ない結果となっています。
安倍首相が当初に掲げた「憲法改正」「拉致問題解決」「北方四島返還」などといった懸案事項に関しては、この7年8カ月の長い時間がありながら、ほとんど解決されていないのが現実です。
特に、「北方四島返還」に関しては、ロシアのプーチン大統領と40回にわたる交渉を行いながら、結局は何一つ前に進んでいないという体たらくです。
更に、嫌韓・嫌中を標榜する保守的な人々にとって、憲法第9条を改定し、日本が軍隊を保有する国家になるための推進役として期待した安倍首相は、憲法改正に必要な国会議員の数を選挙で得ることが出来ながら、これも何一つ前進することがなかったのでした。
こういう安倍首相の仕事ぶりに対して、当然厳しい批判や反発が起こり、彼の権力基盤を揺るがすような事態になってもおかしくはなかったのに、決してそうはなりませんでした。
それどころか、まだ安倍首相に大いなる期待を抱き、彼が成し遂げることが出来なかったことが、将来可能になるだろうといった見果てぬ夢を追いかける人たちの共感を得ているのです。
一つの例ですが、「月刊Hanada」という雑誌があります。嫌韓・嫌中を標榜し、10月号には「不眠不休で闘う安倍総理!」とタイトルが付いています。そして、この号に掲載された記事には、2人のジャーナリスの対談のタイトルが「安倍総理の底力で甦る日本!」となっています。
わたしは、この雑誌の宣伝を新聞広告で読みましたが、その新聞の紙面には、安倍首相の辞意表明が一面を飾っていました。折角、底力を期待した本人が、突然辞めることになって、2人のジャーナリストはさぞかしがっかりされたことだろうと思いますが、こういったファンの方たちが安倍首相の支持率を支えてきたのだと改めて思いました。
そして、こういうファンの方たちは、安倍首相のどこにこれ程熱烈な期待を持ち続けたのだろうかということも気になりました。多分、ファンの方たちが安倍首相に期待した施策のほとんどは、期待通りに行っていません。そうであるなら、いい加減に目覚めて、彼を見捨てても良かったはずです。
しかし、そういう風にはなりませんでした。それどころか、益々期待値を高め、今度こそやってくれると期待しているのです。ファンでないわたしからすると、実に不思議な心情に思いますが、案外ファンというものはこういう心情に陥りがちなものかも知れません。 ただ、ファンと言っても、みな同じ思いや期待を抱いているわけではありません。「憲法改正」を望む人もあれば、「拉致問題解決」を願う人、韓国や中国に対しての強硬な姿勢を望む人など、多種多様な人たちが存在しています。
そういった多種多様な人たちが、それぞれ安倍首相に期待し、裏切られても、それでも付いていく現象とはどういうことなのでしょうか?わたしは、御神輿を思い浮かべています。それも、白いスクリーンが張られた御神輿です。
安倍晋三と言う御神輿を担ぐ人たちは、その白いスクリーンに、自分たちの思い描いた願望や夢といったものを投影しながら担いでいるのではないでしょうか。一緒に御神輿を担いでいながら、同じ願望や夢でなく、てんでばらばらな願望や夢を持っている集団をわたしはイメージしています。
同床異夢という言葉がありますが、それと同様に、安倍首相のファンの方たちも、同じ御神輿を担ぎながら、見る夢はばらばらということになります。
どうでしょうか。安倍首相がこれほど長期に渡り、権力の中心の座に君臨できたのは、彼の存在が、周囲の国会議員や、政府の中枢を占める役人たちにとっても御神輿であったからではなかったでしょうか?
そう考えて見ると納得できることがあります。安倍首相と小泉首相の違いについてです。小泉首相は、「郵政民営化」というワンイシューを実現するために、あらゆる手段を使い、時には、変人と言われても自らの考えを押し通しました。
それに対して、安倍首相は、「憲法改正」を謳いながらこれにこだわってはいません。国民の反対が大きいと見ると、がむしゃらに事を推し進めるのではなく、別の問題を掲げて、国民の目を逸らすといった手段を取ることが目立ちました。
そうやって国民の目を逸らしながら長期間に渡り政権を維持できたのは、実は、彼自身に本当にやりたいことがなかったからではないでしょうか?周囲の人間はそれを利用し、逆に、自分たちがやりたいことを優先してやってきた。その結果が、全て中途半端なまま放置された原因に思えるのです。
更に言わせてもらえば、安倍首相の祖父である岸信介総理が、多くの日本国民の反対を押し切り成立させた「日米安保条約」。この条約に込められた岸総理の思いは、完全なるアメリカからの独立であったことは前号で書きました。
そして、安倍首相が掲げた「戦後レジュームからの脱却」を、本気で推進するなら、まず、最初に着手すべきことは、アメリカからの独立、つまり日本国内のアメリカ軍の基地の撤退ということです。
しかし、安倍首相は「戦後レジュームからの脱却」を掲げながら、実際のところは、アメリカ大統領トランプにすり寄り、彼の指示に従い、必要のない兵器を爆買いするという180度正反対の施策を選んできたのでした。
それでも、彼のファンの人たちは、そういった彼を許してきたのでした。そして、必ず時期が至れば、彼は約束を果たしてくれると信じようとしてきました。健気なファンの方たちの気持ちを、彼は裏切って辞任したことになります。
御神輿として多くの国民の描く様々な願望や夢を、真っ白なスクリーンに投影されてきた安倍首相がいなくなったことで、彼を支持して来た人たちの間に動揺が広がっています。
それが、彼の後を継いだ菅首相への期待となっているように思います。菅首相の手腕に期待するというよりも、これまで一緒に安倍首相と言う御神輿を担いで来た仲間として、菅首相を支持しているのではないでしょうか?
ただ、残念なことに、菅首相は御神輿の担ぎ手でありますが、本人が御神輿となることは出来ない人材です。その彼が、突然、脚光を浴び、御神輿の台座に鎮座した時に、これからどういうことが起きるのかとても興味深く思っています。
また、安倍首相を支持して来た人たちが、自らの願望や夢といったものを映してくれていた白いスクリーンが消えてしまった後、新たに御神輿に鎮座した菅首相に満足できるのかも気になるところです。
更に、コロナ禍がまだ収束しておらず、これから秋から冬を迎える日本社会で、これまでの安倍首相が犯したような失敗を菅首相が行えば、国民がどういった反応を示すのかも気になるところです。
世界的に見ても、極めて特殊なリーダー像が許容されてきた日本社会で、ポスト安倍の社会がどうなっていくかは、ポスト・コロナ社会と共に興味深いものとして、これからもわたしは見守っていきたいと思っています。(了)
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