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第150号

2021年4月14日

「負けること勝つこと(106)」 浅田 和幸

 

 コロナ禍が続いています。新たな変異株が発見され、ワクチンの接種が始まりながら、ウィルス自身がそのワクチンの効果を削ぐような変身を遂げるといったように、人間の小賢しい知恵を凌駕してウィルスは活発に活動としています。

 100年前に起こった「スペイン風邪」による世界的なパンデミックの時代に比べ、医学的にも、情報的にも、格段の進化を遂げていたはずの現代でありながら、ウィルスの引き起こす感染の波を押しとどめることが出来ない現実を前にすると、科学の無力さと人間の生命としての弱さを改めて感じてしまいます。

 しかし、今回のパンデミックは私たち人間にとって、全てが悪いことばかりではなかったように感じています。つまり、これまで当たり前と思ってきたことに対して、改めて、疑いや問いかけを持つことが出来たからです。

 例えば、「オリンピック」がその1 つです。19世紀に、クーベルタン男爵により復活された近代オリンピックは、開催地を各大陸の大都市で実施する内に、当初のスポーツ大会の規模を大きく超え、巨大イベントと化して行き、それに経済的な効用が加味されることで、掲げられた理念や理想からは、随分と掛け離れたものになっていたようです。

 でも、そういった問題点を指摘されながらも、拝金主義や政治主義をあからさまに批判することより、スポーツが人々に与える感動や興奮といった情緒的要素が優先され、オリンピックを正面から批判することはこれまで回避されてきました。

 今回の東京2020オリンピックに関しても、東日本大震災の復興オリンピックとの位置づけながら、実際のところ、福島の原発事故処理は遅々として進まず、被災された東北各地の復興もままならぬ状態であるにも関わらず、それに目を瞑り、華やかな面だけを強調している現実に対して、表立った批判を行えなかったというのが、昨年までの日本社会の雰囲気でした。

 また、熱中症の危険性が高い、夏の東京での屋外スポーツイベント実施が、アメリカのテレビ局の意向に基づいての決定であり、そのテレビ局のスポンサー料が無かったら、これほど巨大なオリンピックを開催できないという事実を前にしながら、表立って中止を訴えるといった行動を起こすことが憚られる日本社会の雰囲気も確かに存在していました。

 つまり、既定路線が一度設定されてしまうと、後はベルトコンベアーに乗せられて、既定の事実を積み上げ、イベント開催へと漕ぎつけ、それが終われば、また別の新たな目標を掲げ進んでいくといったことが、ルーティンのように繰り返されることに意義を唱える人たちは少数であり、大多数の人たちは、この流れに身を任せることを選択していたということでした。

 しかし、昨年起きたパンデミックにより、東京2020オリンピックは1 年延期となりました。その段階で、1 年間延期をしただけで、このパンデミックが収束に向かうだろうと確信した人は、多分少数派で、大多数の人たちは、1 年延期したところで状況は変わらないのではないかと予測していました。その予測は不幸にも的中し、世界的なパンデミックは収束していません。

 それでも、日本政府、IOC(国際オリンピック委員会)、JOC(日本オリンピック委員会)、開催地である東京都は、今年の東京での開催を必死に模索しています。しかし、誰の目にも、これまでのオリンピックとは随分異なった大会になりそうだということは、現時点でも明らかです。

 何よりも、予選会が開催できない競技については、古いデーターを基にして参加基準を決定する。また、外国からの観客の入国を認めないで実施するなど、開催の事実を取り繕うために、これまでのルールを無視するといった強引なやり方が目に付きます。

 これは、オリンピックに参加し、競技する選手たちのことよりも、IOCが存続し、今後も活動していくためには、アメリカのテレビ局からの莫大な中継スポンサー料が必要であり、そのお金を獲得するために、開催するといった倒錯的思考が主流であるからに他なりません。

 口ではアスリート・ファーストなどと小奇麗な言葉を弄しながら,実際のところは、自分たちの組織を守り、今後も、スポーツイベントを通じての集金システムを維持していこうという目論見が透けて見えます。

 そして、何よりも重要なことは、これまでそういった正論めいたことを公にすると、各方面から厳しい批判やパッシングが巻き起こっていましたが、現在では、逆に、そういった正論をマスコミが取り上げるようになっています。

 更には、これまでのオリンピックの在り方をこの際もう一度問うことで、21世紀に相応しいオリンピックを模索していくべきだといった論調を掲げる向きもあり、その意見に一定の共感を覚える人たちも増えているように見受けられます。

 つまり、開催が決まっているのだから、文句や不平を言わず、協力的に、無自覚に、ものごとを推し進めていく事で、世の中に波風を立てず、無難な生き方であるといったこれまでの価値観について、異議や疑問を抱く人たちも増えてきているということです。

 多分、予定通り昨年の夏に東京2020オリンピックが開催されていたのなら、こういった疑問や問題意識を持つことなど、大多数の日本人には無縁の事であったようにわたしは思っています。

 それどころか、次回のオリンピックに向けての動きが加速されるとか、あるいは、大阪が誘致しようとしている万国博覧会といった新たなイベントに目を奪われるといった事態が生じていたことと思われます。

 そういう意味では、このパンデミックによるオリンピックの開催延期は、これまで意識してこなかった問題でありながら、実は、極めて重要な問題に目を向ける機会を得たということで、貴重な体験だったとわたしは評価しています。

 そして、これに関連して今年の2月に起きた、森元首相=東京オリンピック組織委員会会長が口走った女性差別的発言に対しての反応もこれまでとは異なった展開となりました。

 この発言も、もし昨年にオリンピックが開催されていれば、組織委員会も解散しており、こういった発言を行う機会も森氏にはなかったわけで、彼の古臭い女性蔑視的な思考は、そのまま墓場まで持っていく事になったことと思われます。

 ところが、1年開催が伸びたことで、彼は思わず本音を口走ってしまったということでしょう。更に、これまでも同様な発言や暴言を繰り返していたにも関わらず、それ自体を問題視し、会長を辞職する羽目に陥るなど、彼だけでなく、周囲の人たちも想像することは出来なかったことと思われます。

 実際、昭和だけでなく、平成になっても、女性に対する蔑視的な発言を平気で行い、悪びれることなく居直るような中年以上の男性が日本社会の至る所で見受けられました。更に、そういった男性の言説や態度について、年配の女性が非難するどころか、擁護するような言説を弄する場合も散見されました。

 だから、今回の発言がマスコミで取り上げられた際、菅首相を始め政府の要人たちも、これが大問題となり、森会長が辞職するような結果に至るとは、想像することも出来なかったように思います。

 それは、ある意味仕方のないことに思われます。それは、彼らの日常生活において、こういった差別的で蔑視的な発言が、当たり前のごとく流布しており、それがなにか悪いこと、間違ったことと認識していなかったためです。

 その結果、全ての面で対応が遅れてしまいました。最悪なことに、国内ではなく国外からの大きな反響に、慌てて舵を大きく切らざるを得なくなりながら、それではどう舵を切れば良いか分からぬまま、雰囲気に流されるように女性を会長に任命したのでした。

 こういった一連の日本政府の動きを眺めていると、彼らが相当時代遅れの価値観の持ち主であることが理解できます。そして、現在に至っても、何故、あの森氏の発言がおかしかったのか理解できていないこととわたしは感じています。

 一応、口では批難しておきながら、それはこう言わないとマスコミ等から批判されるといった対処療法的な態度であり、真剣に自分自身を反省するといった作業をすっ飛ばしているように見受けられるのです。そして、これまでであったなら、そういう小手先だけの対処で問題は一時的にも解決できたのでした。

 しかし、現在はそうではありません。こういった差別的・蔑視的発言に対しの社会的な反発や批判は、コロナ禍が生ずる前から次第に顕著になっていました。ただ、今回のパンデミックは、その傾向が一過性のものではなく、現代社会を突き動かす大きな流れとなりつつあることを明らかにしています。

 これも、今回のパンデミックがわたしたちの社会にもたらした大きなメリットだったようにわたしは思っています。特に、日本社会の場合は、「同調圧力」が非常に強力で、他人とは異なった意見や考えを発言することには相当勇気がいります。

 大多数の意見と異なる考えを表明することで、下手をすれば自分の帰属している組織や共同体から排除や排斥されるかも知れないといった恐怖を抱きつつ、自らの行動を選択する場合も往々にして見受けられました。

 こういう「同調圧力」を押し返す力として、外部あるいは外国からの評価や支援が有効であることは、これまでにも実証されています。海外での評価により、国内での評価が覆される事態が現出し、これまで不当に扱われていた人やモノが急に見直されるといったことは、これまで何度も繰り返されてきました。

 それが。外部や外国の評価だけでなく、国内においても同様の評価を口にし、それを認めていこうという動きが、少しずつ生まれてきていました。そして、今回のパンデミックは、そういった動きを強烈に後押しするきっかけになったように感じています。

 この文章を書いている週に、札幌で起こされた「同性婚」を認めない現在の法律が、憲法違反であるという判断が裁判所で初めてなされました。同性婚を巡っては、世界各国でそれを認めるといった法律が施行されている中、日本では認められてきませんでした。

 ところが、21世紀に入り、同性婚を認める国民の割合も多くなり、一部の保守的な考えの持ち主以外に、それを批判したり、非難したりする人たちも少なくなったことで、こういう判決が、地方裁判所とはいえなされるようになったということです。

 この判決について、一部の人々は、日本の伝統的婚姻関係を損なうものであるとか、伝統的家族関係を崩壊させるなどと批判していますが、彼らの言う「伝統的」とは、いつの時代の伝統であるのかわたしは問いたい気持ちです。

 何故なら、19世紀において、同性愛を犯罪として見なさなかった社会は、実は日本だけだったのでした。江戸時代、遊女がいる遊郭だけでなく、男娼がいる陰間茶屋が、幕府公認で認められていました。

 その時、ヨーロッパでは同性愛は法律違反として厳しく罰せられていました。それどころか、少し前の時代に遡りますが、「サディズム」の名前の由来となったフランスの貴族マルキ・ド・サド侯爵は、バスティーユ牢獄に収監されていましたが、彼の罪状は同性愛でなく鶏姦(肛門性交)を娼婦と行ったということでした。

 その時代、日本では男娼との性交が陰間茶屋で公認されていたというだけで、どれだけ日本は現代の価値観に照らし合わせると性に関して開明的だったかということが理解できます。

 つまり、「伝統的」と言う言葉を選択したいなら、逆に、日本社会では古代より同性愛が広く認められて来た社会であり、同性愛こそ日本社会にとって「伝統的な性愛」の形だと言う評価も可能であるということです。

 そして、犯罪として罰せられていた欧米社会で、同性婚が広く個人の権利として認められているという現実を前にすると、いかに、人間の社会の価値観が流動的であり、絶対的な価値観など存在していないことが理解できるのです。

 そういう意味で、森氏などが、自身が生まれ育った環境が育んだ非常に偏った価値観に基づき、女性を蔑視し、差別的な発言を無意識に、無自覚に行うかということも理解できると思います。ある意味、彼らも古臭い価値観に束縛され、自由を奪われた被害者と言う見方も可能かもしれません。

 ただ、これまでの日本社会は、そういった同情的な言説を弄することで、そこに横たわっている重大な欠陥や問題と正面から取り組もうとしてこなかったことに、そろそろ気づき、徹底的に膿を出し切ろうという姿勢が必要とわたしは考えています。

 こういった一連の出来事を俯瞰していると、わたしは、今回のパンデミックが齎した大きな社会的な意義に思い当たるのです。それは、20世紀が育み、支配的な流れとなって来た価値観に大きな変化が生じつつあるということです。

 この価値観は、これまで当たり前のものとして、ほとんどの人が正しいと考えて来たものでした。更に言えば、その価値観が生み出すものが、わたしたち社会の豊かさの源泉であると考えてきました。

 1つの例として「輸送」です。人間にしてもモノにしても、大量にかつ早く輸送することは絶対的善であり。それを実現することが、人類の進歩と考え、それを疑う人はいませんでした。

 実際、日本国内に関して言えば、全国に張り巡らされた高速道路網、首都圏と各地を結ぶ新幹線、更に遠距離を結ぶ航空機といったように、大量かつ高速に人とモノを運ぶことで経済発展を実現して来たのでした。

 この価値観に異議を申し立てる人たちはごく少数はであり、ほとんどの人々は恩恵を受けて来たのでした。ところが、コロナ禍になり、人と人との接触がウィルスの伝染を加速していくということにより、直接人間が移動するのではなく、リモートワークにより仕事を行うことが推奨されると、これまで人々の移動手段であったものが不要になりつつあるのです。

 勿論、全てが不要というわけではありませんが、かつての高度経済成長期に、満員電車に揺られ、24時間働けますかなどとマッチョを気取っていた「カイシャイン」の価値観が、時代遅れな価値観として葬り去られていく時代に至ったということを、わたしたちは事実として噛みしめなくてはならなくなったということです。

 これは、ひたすら経済成長を推し進め、モノの豊かさに絶対的な価値を見出す資本主義的な思考に対して、異議を申し立てることを意味しているのではないでしょうか。多分、こういった傾向は21世紀に入り、地球規模の気候変動への不安が現実化していく中で、世界各国で・・特に若い世代を中心に共有化されてきました。

 ただ、世界の趨勢は、経済発展が豊かさの証明であり、特に、先進国から遅れて経済発展を遂げようとしている国々おいては、一部の人たちを除いて、経済成長路線を信奉する人たちが主流派を形成していました。

 わたしたちの日本においても同様に、コロナ禍を前にして、感染症対策か、経済成長かの二者択一を問うといった言説が当然のように流布されてきました。

 その結果、経済成長を優先させる政府の施策「ゴー・ツゥー・トラベル」実施により、急速に全国へと感染拡大が起こり、1 月に再度の緊急事態宣言を宣言しなくてはならなくなりました。その「ゴー・ツゥー」を開始する時に、テレビのコメンテーターがこのようなことを話していたのが印象的でした。

 それは、コロナに罹って亡くなるより、コロナによって商売や仕事がうまくいなくなって自殺する人の方が多くなったらどうするのだ!それだったら、そういった人たちを支援するために「ゴー・ツゥー」を始める方が理に適っていると。

 確かに、この説明には説得力があり、彼のこの言説に賛同する人たちも見受けられました。しかし、わたしは違和感を覚えたのでした。それは、このパンデミックが数年に渡り継続し、その結果、多くの人たちが経済的ダメージを受けたということであるなら、彼の言説にも納得できるのですが、パンデミックが始まり、一時的に経済活動にブレーキが掛かってから、わずか半年余りしか経過しないにも関わらず、もう自殺等を考えなくてはならない程、綱渡り的な生活を多くの日本人がしているという事実に対してでした。

 これは、まさにその日暮らしで辛うじて生き延びている人たちが多くいるという事実をあからさまに示しているのです。まさに自転車操業と呼ぶべき余裕に無さのサイクルに組み込まれ、ちょっとした非常時が出現した瞬間、これまでの日常が霧散してしまう。こういう危うい状態にいる人たちを、今回のパンデミックが直撃したということです。

 この事実をわたしたちはもっと真剣に受け止めなくてはいけないと思っています。最早、かつてのような「一億総中流」などといった牧歌的な社会が壊滅し、格差剥き出しの厳しい生活に晒されているという現実を直視すべきだということです。

 かつての日本社会は、高度経済成長の恩恵を受ける形で、国民の生活水準も向上し、豊かな生活を享受できる環境が整えられていました。前号でも取り上げたように、20年前には、世界的に見ても国民所得は上位にランクしていました。

 仮に、その当時に今回のパンデミックが日本社会を襲ったとしたら、人々の生活がここまで困窮し、感染対策より経済対策が優先されるべきだといった議論にはならなかったように想像しています。

 つまり、東西冷戦が崩壊し、先進国と言われる国々で、「新自由主義政策」が台頭してくる中、資本主義は、産業革命が始まり、急速に発展していった時代のように、牙を剥き出し、過酷なまでの競争と効率化を人々に強いるようになってきたということのようです。

 こういった現代と酷似した状況に対して、資本主義の矛盾と過酷さを糾弾し、新たな社会の建設を提案した社会主義者として、多くの思想家が19世紀のヨーロッパに生まれました。

 その中でも、20世紀まで社会的に大きな影響を与えたマルクス主義。この思想が、ソ連が崩壊したことで、思想として欠陥品であると烙印を押され、社会の中から葬り去られたことが、その後の「新自由主義」の台頭を許す結果になったのではなかったのかと、ここに至って漸くわたしたちは認識できるようになったのではないでしょうか?

 現在の菅内閣が掲げる「自助」を優先する施策など、19世紀の資本主義の悪しき伝統に則った社会政策であるとわたしたちはそろそろ気づくべきなのではないでしょうか?

 そして、世界の動きとして、ソ連崩壊後にゴミ箱に捨てられ、価値が無いと見捨てられていた社会主義やマルクス主義が、現在の社会に蔓延している矛盾を解決してくれる唯一の方法であることに、気づき、声を上げる人たちが増えてきたように思います。

 この状況を前に、わたしも次回からマルクスの思想について再度考えてみたいと思っています。そこでは、新たに編集し、まとめられたマルクスの手記やノートに書かれた思想を手掛かりとした21世紀のマルクス・ルネッサンスと呼ぶべき知見を参考に取り組んでいく予定です。

 わたしもマルクスの著作を初めて読んでから50年と言う節目を迎え、新しい気持ちでマルクスの思想と向き合ってみたいと考えています。これもコロナ禍の1 つのメリットだったのでしょうか。(了)


「問われている絵画(141)-絵画への接近61-」 薗部 雄作

「権威主義と民主主義のこれから」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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