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第150号

2021年4月14日

「権威主義と民主主義のこれから」 深瀬 久敬

 

 今日の地球社会は、新型コロナウイルス禍、環境問題 (温暖化/脱炭素、資源枯渇、プラスチック汚染、エネルギー、等) 、社会の格差と分断の深まり、人工知能などの科学技術の急激な進展、米中間に象徴される権威 (専制) 主義と民主主義の対立など、混迷の度合いを深めている。一方、デジタル技術の急進展に基づくソサイエティー5.0への移行も課題とされ、人類は新たな在り方への転換点に立たされている。こうした状況を、人類がこれまでに経験した二度の意識覚醒を踏まえて考察してみたい。

 

1.第一の意識覚醒と権威主義に基づく社会

 私たちの第一の意識覚醒は、自己の存在が自然界や他者と区別された存在であることを自覚することであった。このことを端的に物語っているのが、旧約聖書創世記第三章の次の部分だと思う。すなわち、蛇の誘惑に負けて禁断のりんごの実を食べることよって、「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」という記述である。

 人類は、こうした意識覚醒を通して、自然に対する畏怖や感謝の気持ちを持ちながら、共感力を活かしつつ子育てを助け合うなどして、多人数での集団生活を可能にした。そして、五感能力や運動能力では人間をはるかに凌ぐ他の動物に負けることなく生存競争に勝ち抜いてきた。こうした第一の意識覚醒のもとで指向された社会は、世俗的権威と宗教的権威を基盤とした秩序と安定を土台とする権威主義に基づく社会運営であった。権威者による祈祷祭祀、身分制度、因習的禁忌、みせしめ的刑罰、等がこうした社会を象徴している。すなわち、個人の自由といった概念はなく、特定の権威のもとで、社会全体の秩序と安定こそを最大の要件とする社会であった。

 例えば、中国では清朝まで一人の皇帝が儒教と科挙によって選ばれた官僚たちによって支えられたし、ヨーロッパでは宗教を司る教皇と世俗の統治を司る皇帝とが牽制しあった。日本では江戸時代まで天皇と幕府の将軍とが精神面と世俗面の権威を分け合っていた。

 

2.第二の意識覚醒と「科学と民主主義」の獲得

 第二の意識覚醒は、近代ヨーロッパにおいて発祥した。これは、キリスト教神学の普遍性の追求の過程が行き詰まり、それまでの中心的課題であった人間存在の意味論や価値論から脱却し、とりあえず世界をあるがままに理解しようとする態度の獲得に端を発するものであった。存在の意味論や価値論は脇におき、自然界の現象を定性的定量的因果関係として捉えようとする態度からは科学が、また人間社会の人々の在り方をありのまま観察する視点からは個々人の自由と平等の認識に基づく民主主義の概念が、獲得された。

 こうした第二の意識覚醒は、科学技術を駆使した産業革命と、民主主義に基づく自由競争をもたらした。すなわち、人々は、自分たちが生きていく上での便利さや快適さ、そして、蓄積可能な冨を求めて、飽くなき競争の世界に入っていった。  

 近年、NHKから放映されている『欲望の資本主義』というTV番組では「やめられない、とまらない。」というフレーズが繰り返される。すなわち、第二の意識覚醒は、人間のあらゆる欲望の解放に火をつけた。植民地主義も二度の世界大戦も米ソ冷戦構造も今日の米中対立の構図も、人々のより多くの快適さと冨を追求しようとする欲望を根底にしているのだと思う。

 

3.二度の意識覚醒に関連する課題について

 人類は、このような二度の意識覚醒を通して、今日の地球社会を形成しているという理解のもとに、以下の課題について考察してみたい。

 

(1) 頭脳の活用と民主主義の優位性

 民主主義の理念に基づけば、一人ひとりが自由に主体的に頭脳を使い、部分的にせよ、各自が多様に世界を客観することが可能である。それに対し、権威主義の下では、権威の統制のもとで人々の頭脳の働きは限定されるので、人間の頭脳の活用面からして大きな損失といわなくてはならない。もう少し踏み込めば、人間の頭脳には、アインシュタインのような想像を絶するひらめきをもつ人もいれば、マゾヒズムのような統制されることを心地よいとする人もいる。また、極度の社会不安のもとでは、権威主義的統制が願望される傾向があることも否定できない。個人的な感想だが、権威主義の国の軍事パレードを見ているとその迫力とともに個々の兵士はどのような思いでいるのか複雑な気持ちになる。結果として、一般的にいえば、抑圧されたいと思う人はいないのであり、人類は、一人ひとりの頭脳が最大限に活かされる民主主義にこそ希望を見いだすのが正しいと思う。

 

(2) 権威主義と民主主義の相関

 今日、100%権威主義の社会、100%民主主義の社会というものは存在しない。例えば、米国は民主主義の模範とみなされているが、人種差別は根強く、キリスト教原理主義や反共主義にみられる反知性主義が散見され、また、銃規制はないにひとしい。ヨーロッパにおいても、近年、難民や移民の流入などを通して、ポピュリズムの勢いが増している。中国は、孫文の辛亥革命から民主主義の幕を開けたが、その後の共産党一党独裁体制のもとでほとんど権威主義の社会と化している。日本は、戦後、憲法は先進的民主主義を掲げているが、それ以前の権威主義の残滓がいたるところに残っている (後述) 。

 上述したように、純粋に、権威主義、民主主義の社会は存在しないが、セルフ・ファーストの権威主義に比重を置く社会と民主主義に比重を置く社会とは、基本的に互いに相手社会の体制を受け入れることは困難であり、よい関係は築けないだろう。逆に、権威主義同志の社会、民主主義同志の社会は、両立できる可能性が高いように感ずる。

 

(3) 権威主義と民主主義の相互の移行性

 前項に関連するが、第二の意識覚醒を理解した人間は、基本的に、権威に抑圧されることを好まない。しかし、注意すべきことだと思うが、社会が経済や治安などの面で不安定の度合いを深めると、民主主義の社会が権威主義の社会に逆転する可能性は否定できない。それは、生物としての人間の弱さに起因するように思う。例えば、第二次世界大戦の前のドイツでは、第一次世界大戦の敗戦に伴う多額の賠償金の負担と世界恐慌のなかで、人々は思考停止状態になり、ヒトラーの「総統は命じ、我らは従う」に陥ってしまった。日本の戦前においても、伊藤博文は議会政治への国民の参加を強く意識していたようであるが、戦後の民主化を待たねばならなかった。また、近年の共産党の権威に強制的に組み込まれた香港の状況は、権威主義の自業自得を見る感じがする。

 一方、アラブの春などにみるように、権威主義の社会から一気に民主主義の社会に転換しようとしても、却って、秩序と安定を欠いた混乱を招き、軍事組織の専制支配を容認してしまう場合もある。権威主義の社会から民主主義の社会への移行には、幅広い継続的努力を必要とするのだと思う。

 

(4) 権威主義のもとでの科学技術の濫用への危惧

 第二の意識覚醒は、「科学技術」と「個人の自由・平等・共感に基づく民主主義」を、車の両輪、表裏一体のものとして生み出した。それにも関わらず、科学技術のみが、第一の意識覚醒のもとでの秩序と安定を重視する権威主義の社会で活用されることには一抹の懸念を覚える。

 科学技術は、一人ひとりが、自然界や人間社会を自由に客観し理解する能力をもつとする民主主義と表裏一体にある概念を基盤としている。従って、一人ひとりの自由が容認されていない権威主義のもとで科学技術が活用されるとき、それは権力者の恣意的な濫用につながる危険性があるように思われる。

 具体的には、軍事独裁、特定の人物や政党や世襲による独裁といった権威主義に基づく国家が、科学技術に基づく先進的武器の開発に濫用される可能性が否定できない。ナチスによるロケット開発、反共主義に沸き立つ米国での水爆開発など、歴史的にはこうした事例は多数存在するのではないだろうか。

 

(5) 民主主義における政府の役割

 第二の意識覚醒後の世界においては、便利さや快適さの提供を、ある需給条件のもとで自由に競い合う訳であるから、勝者と敗者がでるのは必然であろう。また参加する人たちがその競争に参加するのにあたって供出する資源は、資金、知識、労力、時間など様々である。さらに、それぞれのリスクテイクの度合、知識や能力を身につけるための事前の投資量、なども様々である。したがって、競争の成果の配分においては、これらを考慮して行われるのは当然のことであろう。権威主義のもとで、一方的に配分量が一律に決められたりすると、却って不公平になる。しかし、各参加者への成果の配分に、あまりに極端な差異があるとすれば、それは法的な規制があってもよいと思う。また、蓄積されている量についても同じだと思う。上限を超えた部分については政府が徴収し備蓄し、なんらかの不測の事態のときに放出すればよいのではないだろうか。こうしたことは、開かれた制度のもとで行われるべきだと思う。卑近な例だが、日本の特例国債の発行は、近年、恒常化している。こうした問題については、国民に広く分かりやすく説明し、国民全体と問題を共有する姿勢が不可欠だと思う。赤字国債の発行を正確な説明もなく継続することは、民主主義を破綻に追い込むことになるように思う。世界中に借金があふれ返る今現在の状況にも同じことが言えると感ずる。

 さらに、今日のように、グローバル化と科学技術とが急速に進展するなかでは、企業は競争力を維持向上させるために、工場の海外移転、AIやロボットによる自動化、等が不可欠になり、それらに起因する失業は大きな社会不安をもたらす。こうした状況に迅速柔軟に対応できる仕組みを準備することは政府の重要な役割になると思う。共感力を発揮しやすくしての社会的流動性の向上、利用しやすい教育訓練やセーフティーネットの仕組み、等が人的インフラになるだろう。政府の役割は、民主主義の社会ではどのように適切な競争の場を形成していくか、安全保障、犯罪抑止、外交などとともに熟慮されるべき課題だと思う。

 

4.日本社会の状況

 ヨーロッパで発祥した第二の意識覚醒の影響を、日本は明治維新のときに受け取った。それを踏まえて、伊藤博文や山県有朋らによる富国強兵が推進され、それと並行して、大日本帝国憲法(明治憲法)の施行と議会の開設がなされた。民主主義体制については、板垣退助や大隈重信らの先進的な提言(後に夏目漱石による啓発)もあったが、国民の成熟度の勘案のためか、立憲君主制、天皇主権を基本とする明治憲法が施行された。その体制では、中核となった行政府は天皇を輔弼し、議会は天皇への協賛機関とする位置づけであった。また、軍に対しては、予算編成権は議会が持つが、統帥権を天皇が持つという曖昧な形がとられた。こうした体制のもとで、浜口雄幸内閣のとき、軍縮指向や経済恐慌を発端として、国民のなかに社会不安がひろがった。そして、財閥や議会への不信が高まるとともに、若手将校らによる大規模なテロ行為をきっかけに軍部の独走態勢が決定的になったようである。

 結局、日中戦争、太平洋戦争に敗北し、日本は壊滅的状態に至った。そして、占領軍のGHQ民生局の主導のもと、先進的な民主主義を内容とする日本国憲法が施行されることになった。日本国憲法制定の過程については、当時の、法制局長官佐藤達夫、憲法担当国務大臣金森徳次郎、憲法研究会の森戸辰男らの各氏の真摯な取り組みが評価されるべきだと思う。しかし、その後の米ソ冷戦構造、朝鮮戦争、経済復興の重視、等への方向転換が進むなかで、民主主義の理念の国民のなかへの浸透はないがしろにされたのだと思う。なぜ一人ひとりの自由や人権が尊重されなければならないのか、国民主権とはどのようなことなのか、自由と責任と共感はどのように涵養されるのか、といった民主主義の基本概念の理解がほとんど浸透しないまま、昭和、平成と時は流れた。

 そうした状況をもう少し踏み込んで考察してみたい。日本国憲法は、民主主義の先端を行くものであっても、民法などの法律はそれ以前のものがかなり流用された。また、行政府における天皇の輔弼的位置づけ体質としての隠蔽体質、無謬性原理、決定硬直性などは、ほとんどそのまま残り、国民自身の視点での行政遂行意識は欠落したままのように感じられる。また、国民の間に民主主義の理念が充分浸透しないなかで選ばれる政治家も、古い集団主義のなかで培われた権威主義を引き継いだような人たちがかなり存在している印象である。

 集団主義、同調圧力、横並び意識、詰め込み教育、ブラック部活、社会的流動性の低さなどといった傾向は、かつての権威主義を色濃く引きずるものである。また、女性の社会的位置づけが低調という状況は、かつての権威主義のなかで確立された男性優位、世帯主義がそのまま変わることなく引き継がれていることに起因している。道徳教育において「美しい日本」とか「国を愛する」といった言葉が目立つのも同じことだと思う。詰め込み教育から考える力を養うという方向転換も、人間の自由や客観能力を尊重しようとする姿勢との両立が不可欠である。みんなで一致団結してひとつのことに取り組むとき、日本社会は圧倒的な力を発揮するというのは、かつての集団主義への礼賛にすぎない。GAFAのようなDX指向の企業が台頭するこれからの社会では、空虚に響くだけである。個々人の自由と尊厳が尊重される根拠、そして、一人ひとりが担うべき責任とが、明確に理解される社会こそが要請されているのだと思う。

 これからの日本社会の在り方を考える上で、いくつかのコメントを付記したい。第一に、韓国や中国の日本に対する反日感情は、日本が権威主義の残滓を色濃く残している限り解消しないと思う。第二に、プルトニウムの蓄積についての説得力のない核燃料サイクルの開発というお茶濁し的対応を続けることには、安全保障としても課題が大きい。第三に、近年の首相官邸は隠蔽体質を伴う権威主義への傾斜を強め、開かれた社会としての民主主義の浸透を阻害しているように見える。第四に、DXのような新たな社会への移行は、政府への国民全体の信頼が根底にないと決して健全なものにはならないと思う。日本の将来は、いかに民主主義国家として洗練された社会を構築できるかにかかっているのではないだろうか。

 

5.これからの地球社会

 人間社会の秩序と安定は、第二の意識覚醒のあとの社会においても基本的要件である。権威主義や民主主義が、様々のレベルで共存している今日の地球社会のなかで、秩序と安定をどのように実現していくかはSDGsの課題として広く認識されている通りである。そして、第一の意識覚醒後に問われた人間存在の意味論や価値論への問いは、第二の意識覚醒後においても決して避けては通れない。今日、クローン人間を誕生させる技術が開発されたり、宇宙から地球を一望した景色に見慣れたり、宇宙の物質世界が誕生した背景に迫りつつある。こうした状況だからこそ、わたしたちは一層、人間存在の意味論や価値論をより深く問うことが求められている。そして、機能化や都市化が進み、共感力が発揮されにくい社会への傾斜やグローバル化に伴う感情的な軋轢が強まるなど、こうした足元の問いにも人類全体の叡知が傾注されるべきときが来ているように感ずる。そういう過程で、人間は第三の意識覚醒に出逢うのかもしれない。

 


「負けること勝つこと(106)」 浅田 和幸

「問われている絵画(141)-絵画への接近61-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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