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第151号

2021年7月22日

「負けること勝つこと(107)」 浅田 和幸

 

 わたしが生まれた1951年は、朝鮮半島で起きた朝鮮戦争が停戦と言う形で終わり、第二次世界大戦後に東アジアで次々と起こったイデオロギー対立による国内戦争が一段落した時代でした。

 私が生まれる2年前には、中国本土で、毛沢東率いる中国共産党が蒋介石率いる国民党を破り、実権を握り、中華人民共和国が誕生しました。1918年にロシアで起きた社会主義革命によって生まれたソ連は、革命を世界へと波及させようとしていましたが、第二次世界大戦でナチスドイツと日本帝国が敗北するまでは、その目論見は実現できませんでした。

 そして、第二次世界大戦後、ソ連を中心にした社会主義国家が東ヨーロッパと東アジアに続々と生まれるようになったのでした。まさに、東西冷戦といったイデオロギー対立が激化する時代にこの世に生まれたわたしを含めわたしより年上の団塊の世代と呼ばれる第二次大戦後に生まれた世代は、否応なく、この政治的なイデオロギー対立と関わらざるを得なくなったのでした。

 そういう政治的な対立が、わたしの目の前で起こったのは、1960年、わたしが9歳の時に日本社会を二分した「安保闘争」でした。「アンポハンタイ」というシュプレヒコールが白黒のテレビ画面から流れて来て、国会議事堂前に多くの人々が集合し、隊列を組んでデモ行進を行う姿を、テレビ画面で目の当たりにしたことを鮮明に覚えています。

 正直なところ、「アンポ」の意味も十分に分からぬまま、テレビ画面から流れてくる出っ歯でギョロ目の岸信介首相の薄ら笑いより、「アンポハンタイ」を唱える若い学生たちや労働者の姿の方にシンパシーを感じたことも記憶しています。

 この国民的運動は、デモに参加した女子学生の悲劇的な死とこれだけの反対を押し切って条約を締結し、その後退陣した岸内閣の傲慢さを、当時の日本人の心に強烈に残しながら、安保条約が締結されると、その日を境にして、それまで国民の間で2分していたイデオロギー対立が消滅したかのように、社会の雰囲気が一変したことを記憶しています。

 それは、岸内閣の後を継いだ池田内閣が推し進めた「所得倍増計画」による高度経済成長路線が、日本人の生活を急速に変えていったことに大いに関係があるように思っています。

 太平洋戦争に敗北し、米軍の焼夷弾攻撃により焼け野原となった日本の各都市が復興に費やした15年が経過した時に、「所得倍増」というスローガンが打ち出され、日本社会は経済的な豊かさを求めることに舵を切った瞬間でした。そして、小学生のわたしは、その変化を肌で感じていたのでした。

 それまで家の中にある電気製品と言えば、電灯とラジオぐらいしか無かったものが、テレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫といったように、新しい家電製品が暮らしの中に入り込み、便利で豊かな生活が日々実現していくのを目の当たりにしていたのです。

 アメリカのテレビドラマの「名犬ラッシー」の物語の中で、主人公のジミー少年の家にある様々な電化製品が、次々と自分の生活の中に入って来ることで、憧れのアメリカン・ライフの実現が、現実のものとなったことを実感したものでした。

 それまでのモノが無い質素な生活の時代に感じていた政治や社会に対する不満や批判といったものは、モノが溢れ、豊かになっていく事で、解消されるとは言いませんが、以前に比べて、少なくなっていったことは、わたしの家庭だけでは無かったように思います。

 つまり、「アンポハンタイ」とシュプレヒコールを口にした時に感じていた政治や社会に対する漠然とした不満、権力者や金持ちに対する不満や嫉妬といったネガティブな感情を抱いていた大人たちが、経済的に豊かになることで、そういった彼らの不満や嫉妬が少しずつ解消され、それ程目くじらを立てる程の事ではなくなっていったように、幼いながらわたしも感じていました。

 実際、10年での所得倍増計画は、瞬く間に実現し、高度経済成長下で迎えた64年の東京でのオリンピックが大成功の内に終了する頃には、ほとんどの日本人は、政治的なイデオロギー対立よりも、経済的豊かさを担保してくれる現体制を支持することを選択したのでした。

 池田内閣から佐藤内閣へと総理大臣は替わりましたが、高度経済成長路線が継続している限り、ほとんどの日本人は、その体制を支持し、更なる経済的豊かさを期待したのでした。それが、「昭和元禄」などと呼ばれ、空前の消費ブームを下支えしたことは、わたしと同じ年代の方なら実感されていることでしょう。

 しかし、「アンポハンタイ」とシュプレヒコールしていたイデオロギー対立がこの社会から消え去ったわけではありませんでした。現実の社会では、東西冷戦が激しさを増し、社会主義革命の機運は、東アジアだけでなく、植民地からの独立運動と連携していく中で、東南アジアへと拡大して行ったのでした。

 その代表的な戦争がベトナム戦争でした。アメリカが介入し、南ベトナム政府軍と北ベトナム政府軍とのし烈な戦いは、アメリカ軍の前線基地の1つとなった日本とも無関係ではありませんでした。

 1951年のサンフランシスコ講和条約締結後も、アメリカ軍は日本に残り、現在に続くような半占領状態の日本の現状に異議を申し立てる運動が激化していきました。その中で、平和的なデモでの抗議をといった「べ平連」のようなグループと暴力を伴う示威活動を辞さぬ過激派(革マル派、中核派)グループが大学生を中心に活動を活発化させていました。

 わたしは、この学生運動が激化していった背景には、単なるイデオロギーの対立を超えた、戦後の日本社会の教育環境の変化とそれに伴う新たな階層化があったように推測しています。その一番の原因は高等教育の一般化です。

 戦前、戦後の始めの頃は、大学などの高等教育を受ける国民の数は極めて少なく、大学を卒業すれば社会的にエリートとして認められ、昭和初期の流行語に例えれば「末は博士か大臣か」などと立身出世を約束された存在でした。

 しかし、戦後の新しい学校教育制度により、小学校と中学校は義務教育となりました。(戦前は小学校までが義務教育)更に、高度経済成長による国民所得の増大は、高等学校への進学率を高めると共に、大学への進学率も飛躍的に伸びることとなりました。

 その結果、最早大学を卒業することは希少価値で無くなり、大学を卒業しても社会的にはエリートと認められない学生たちが増大して来たのでした。(戦前の旧帝国大学の後継大学は、まだ希少価値はありましたが)

 多分、そういう現状に対しての不満といったものと世界各地で同時多発的に起きた若い世代の反体制運動とがドッキングしていく中で、日本においても「学生運動」が活発化し、そこに政治的なイデオロギーの相違を巡る闘争といったものも加味される形で、60年代後半に、日本各地の大学で「学生運動」の炎が燃え上がったと推測しています。

 勿論、わたしの推測は憶測の域を出ていないことは承知していますが、60年代後半にあれ程激しく燃え上がった学生運動が、連合赤軍によるあさま山荘事件後に、急速に力を失い、学生個々人が、政治的なことを語ること自身忌避されるような状況を生み出した現実を考えて見ると、強ち見当はずれの推測ではなかったと思っています。

 さて、長々とわたしが過ごしてきた過去の日本社会について書いて来たのは、わたしがマルクスの思想と出会った時代の背景を知っていただきたかったからです。

 子どもの頃から、本を読むことは好きでしたが、そのほとんどが小説の類でした。高校を卒業するまで、哲学書や思想書などといったものを手にすることはありませんでした。せいぜい、高校の倫社の時間に、古代ギリシャの哲学者やヨーロッパの思想家の名前を耳にするぐらいで、それがどれほどのものかなどてんで興味はありませんでした。

 ところが、わたしが1970年に立命館大学に入学した途端、これまで経験したことのない状況に呑み込まれたのでした。わたしより2歳、3歳、いや、1歳年上の先輩の口から、「マルクス」「エンゲルス」「レーニン」「トロッキー」「毛沢東」などといった思想家や政治家の名前が速射砲のように発射されたのでした。

 そして、その聞き慣れない名前の思想家や政治家の思想や政治的スローガンを自在に操ることが価値あることとして権威化され、その話題について来られないことを恥じるべきといった圧力が、大学構内の至る所で散見されたのでした。

 「マル・エンの『空想から科学へ』に書いてあるように、フーリエの空想的社会主義は敗北主義ってことは自明なんや」などと、断定的口調で語る先輩たちの議論の渦の中に投げ込まれたわたしは、何一つ語ることも出来ず立ち尽くすしかなかったのでした。

 そこに参加して、何か一つでも気の利いたことを話そうとしたいなら、まず、彼らが依拠しているマルクスやエンゲルスあるいはレーニンといった人たちの著作を読んでみないことには始まらないということだけは理解できたのでした。

 更に、わたしが入学した学部「産業社会学部」は、産業革命以後に生じた、様々な社会的な矛盾や問題を分析し、それを解決していくための道筋を学ぶという学部でしたから、資本主義経済の内包している矛盾や問題をテーマに研究を重ね、最終的に「資本論」を書いたマルクスは、切っても切り離せない重要な思想家の一人として、当然、学ぶべき対象となっていたのでした。

 しかし、小説しか読んでこなかったわたしにとっては、この思想家の著書は、極めてハードルの高いものでした。第1に、ストーリがないので、読み進めていく内に、前に書いてあったことが分からなくなってしまうのでした。第2に、出てくる専門用語が難解で、その専門用語の意味を理解できないことには、前に進めないということでした。第3に、「なんの本から読めばよいのか?」とアドバイスを得ようと話を聞く相手により、アドバイスの中身に統一性が無かったということでした。

 そこで、全くの初心者であったわたしは、一番厚さが薄い文庫本から読もうと考えて、最初に手にした文庫本が、エンゲルスが書いた「空想から科学への社会主義の発展」だったのです。

 この本は、文庫本で130頁余りの薄い本で、先輩たちの会話の中にも時々顔を出すタイトルということで手に取って読み始めて見たのですが、正直な所最初から手強い内容でした。

 まず、「社会主義」と「共産主義」の違いが分かっていませんでした。共産主義という言葉は、日本共産党という政党名やソ連や中国のような国々を共産主義国家と呼んでいることで知っていましたが、その違いとなると理解していなかったのでした。

 しかし、初心者とは怖いもの知らずで、エンゲルスが、この著作の中で書いている内容を、無批判に、一方的に受け入れることが、唯一の方法だと考え、丸暗記をするように内容を覚えたのでした。

 すると、これまでチンプンカンプンだった先輩たちの会話の中で、自分が知っている言葉を発見することが出来るようになり、それが学習の成果の様に感じられたのでした。

 さて、このエンゲルスの「空想から科学へ」は、全3章で構成されたパンフレットです。第1章は、空想的社会主義者についての叙述がされていて、その思想の意義と限界がどこにあったかを述べています。第2章は、弁証法について述べています。エンゲルスが、空想的社会主義ではなく、科学的社会主義になるために必要だったと指摘する弁証法の近代的自然観の登場を巡っての叙述がされています。そして、第3章は、エンゲルスとマルクスが科学的社会主義と称した理論を積極的に展開するといった内容になっています。

 その中で、わたしが一番興味を惹かれたのは、第3章に叙述されていた社会=歴史が発展していくという進歩史観でした。第2章で、エンゲルスは弁証法についての考察を行っています。その中で、古代においては自然を全体として捉える古代的な弁証法が存在していたが、自然科学の発展に伴い、全体を俯瞰する視点を失い、個々の事象をバラバラに分解して精査する「分析」が優勢になり、思考形態が形骸化・硬直化して観念的な形而上学が主流になったと総括しました。

 その形而上学的な思考に則って生み出されたものが、空想的社会主義と呼ばれるもので、この方法を使って、社会を分析し、そこに横たわる問題を解決しようとしても、決して成功しないことをエンゲルスは第1章で述べています。

 そして、エンゲルスは第3章で、ドイツの哲学者ヘーゲルの弁証法を、形而上学を打ち破る新たな科学的方法として採用することで、わたしたちが生きている資本主義社会の問題を解決すると共に、それを乗り越えて新たな社会=社会主義社会へ移行できるのだというのです。

 エンゲルスは、マルクスの資本論を基にして、経済を土台にして歴史は発展して来たのだと。古代の奴隷制から、中世の農奴制、それを打ち破る形で現れた資本主義経済体制。このように経済構造の変化が、社会構造(それをマルクスは上部構造と呼んでいます)の変化を引き起こしたのだとする歴史観(唯物史観)こそが歴史の真実であると強調しています。

 わたしが、この進歩史観に惹かれたのは、多分、わたしが生きて来た戦後の日本社会の発展とシンクロしていたからだったと思います。小学校に上がる前の日々の生活と、小学校に入学後、高度経済成長が急速に進む中での日々の生活の違いは、ここで書かれている進歩史観にピッタリと合っていたのでした。

 人間はこんな風に進歩していくのだという個人的な実感を理論的に証明してみせる進歩史観。それを真理だと思い込むことになんの躊躇も無かったように思います。

 わたしが手にした「空想から科学へ」は、いま述べた進歩史観が歴史の真理であるという一点において、わたしにとって信用すべき思想書として重要な意味を持つことになったのでした。

 この進歩史観に立脚すれば、やがて、人類の未来に理想的な社会が出現することは、歴史的必然と言うことになり、現在の資本主義経済体制下における様々な矛盾をアウフヘーベンすることで、社会主義経済体制へと移行していく事も、既に決定的事項であるという理論が可能となり、更に、一歩進んで、そういう社会を実現することが、わたしたちの究極的な目的となるわけです。

 そういう意味で、これは社会をより良いものにしていくための実践の書と言うことで、先輩たちが、あれ程に熱く語り、議論を戦わせていた理由も理解できました。

 ただ、金沢で暮らしいた高校生までの日々の中で、社会の矛盾を強烈に感じ、それに対して怒りなど抱くといった経験は正直な所ほとんどありませんでした。

 勿論、新聞やテレビのニュースなどで、公害により汚染された食物を食べたことでの悲惨な病気やベトナムで一般の人たちを巻き込んでの激しい戦闘による怪我や死といったことは、知識として分かってはいましたが、それでは自分自身が現在抱えている資本主義社会の矛盾となると、具体的なものを思い浮かべることは出来なかったのでした。

 多分、当時大学に入学した若い人たちの中で、資本主義経済の矛盾により、身を引き裂かれる程に苦しい状況にあった人たちは少なかったのではなかったでしょうか?

 実際、わたしが卒業した中学校で、大学に進学したのは、男性で2割程度、女性になると短大を入れて1割、4年制大学になると1人ないし2人程度でした。つまり、大学教育を受けることが出来るのは、相当に経済的に恵まれた人間だったことになります。

 だから、そういうある程度、経済的に恵まれたわたしのような学生たちが、資本主義経済の矛盾を感じていないのは、特に珍しいことではなかったのだと思います。

 ところが、そういう学生たちが、資本主義経済の矛盾や問題を解決しなくてはならないという使命感に燃え、学生運動に積極的に参加した理由は、前にも書きましたように、大衆化した大学、大量に毎年卒業していく大学生の社会的価値が損なわれ、それまで目指して来た大卒と言うステータスが与えられそうにないという不満も一部反映していたように現在のわたしは考えています。

 しかし、当時のわたしは若気の至りと言うか、或いは、社会を変革していく事が、人生において途轍もなく重要な目的であると信じ込んでいたせいか、エンゲルスが見せてくれた未来予想図を一途に信じ込んだというわけでした。

 ただ、一つだけ違和感がありました。それは生産手段を持っている資本家に対して生産手段を所有していない人間を労働者階級と呼ぶことについてでした。当時のわたしが労働者と言う言葉から連想するものは、中学を卒業後に車の修理で油まみれになっている工員や縫製工場などの機械の前で作業している工員でした。

 そういう給与も低く、社会的にも地位の低い単純労働者になりたくなかったから、わたしは勉強して高校、大学にと進学することに進路を取ったのでした。だから、大学卒業後は、給与も高く、社会的にも高い地位の職業に就きたいと漠然と考えていたのでした。

 ところが、「空想から科学へ」では、資本家にならない限りは、どんなに社会的に地位が高くても、給与が高くても、労働者であると書かれているのです。

 しかし、当時のわたしの頭の中では、自分が将来、資本家になり、資本主義の恩恵を受け続ける人生を想像することは出来ませんでした。大学を卒業すれば、多分、どこかの企業に就職し、サラリーマンとしての人生を送るというのが、想像される唯一の選択肢に思えていました。

 そういう意味で、わたしの目の前にある体制を、根本的に破壊し、新しい社会の到来を予感させる、この学生運動は、非常に魅力的に感じたのでした。

 その当時、毛沢東の著作から抜き出したスローガン、「造反有理」という言葉に、とても魅力的な響きを覚えました。「造反」=規制の体制に異議を唱えること、その異議の理由の如何に関わらず、異議を申し立てる行為こそに意味があるといった解釈が流布されていましたが、わたしもこの考え方を正義だと信じていたように思います。

 いずれにしても、深い知識の無いままに、田舎の親元を離れて京都で一人暮らしを始めたわたしは、客観的な視点を持たぬままに、大学内に充満していた雰囲気に呑み込まれる形で、社会主義思想と関わることになったのでした。(続く)


「問われている絵画(142)-絵画への接近62-」 薗部 雄作

「日本社会への民主主義の浸透」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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