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第151号

2021年7月22日

【編集あとがき】

 

 浅田さんの論文=社会主義の思想は、伝統的な権威主義とは決別していますが、個の尊厳としての多様性は無視しているように思います。それは、多様性としての個性を認めると、そこに競争が現れ、強いものが弱いものを蹴落とし、強いものがますます強くなってしまい、貧富の格差のようなものが生まれるという状況を拒否したいためではないかと思います。しかし、競争を否定する結果、社会は停滞し、社会を運営するエリート層の必要を生じ、そのひと達が権威主義にあったような一つの支配階級を形成してしまうという自己矛盾をはらんでいるようです。

 中国では、共産党員であることが、エリートとしての階級を形成しているようです。政治以外の娯楽関係では、なにを言ってもいい自由があっても、政治的に共産党の権威を批判するような書き込みはすぐに削除されるようです。政治批判を含んだようなカラオケは禁止されるとのことであり、政治と娯楽の境界というのが、どんどん複雑怪奇になるのではないでしょうか。

 民主主義の制度が社会全体の秩序と安定を担保するために、競争を排除し、多様性を塗りつぶし、みな同列に扱うというのは、個の尊厳を原点とする民主主義を根底から否定するものになってしまいます。地球環境問題の深刻化や新型コロナウイルスの感染症の蔓延のような状況に対して、力尽くの権威主義の方が適切な対応が可能ではないかという見方もあるようですが、適切な智恵が本当に充分発揮できる保証が権威主義にはないことを充分自覚しておく必要があると感じます。

 

 薗部さんの論文=権威主義の社会においては、一つの世界観や価値観が共有される訳ですから、美の表現においても、そこでの権威と相通ずるものが必ず存在するのだと思います。そして、そこにある美意識が人々の連帯感のようなものを引き出すのではないでしょうか。

 一方、民主主義の社会においては、人々は個の尊厳に軸足を移している訳ですから、なにが共有できる美意識なのかは、手探りの状況になると思います。ターナーやゴーギャンは、権威主義の社会とは距離をおいている画家だと思いますから、そういう社会共通の権威が存在しないなかで、なにを美として表現するかは、画家個人の内面の問題となってくるのだと思います。自分は、美の世界として描いたとしても、それを美として他者が受け止めてくれるという保証はないことになります。そこを克服するためには、人間とはどのような存在なのかについての深い洞察力が問われることになるのではないでしょうか。セザンヌの絵画がインパクトを与えるのは、やはり一人の人間としての美への迫り方に普遍性があるせいではないかと思います。

 日本画は、近年、きびしい状況のようですが、日本画の画家たちが、社会的な権威の消し去られたなかで、なにを共感のえられる美として提示できるかが問われているようにも感じられます。日本画の世界から、民主主義の社会に通用するような美が生まれてくることを期待したいと思います。

 


「負けること勝つこと(107)」 浅田 和幸

「問われている絵画(142)-絵画への接近62-」 薗部 雄作

「日本社会への民主主義の浸透」 深瀬 久敬

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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