1.近代社会の以前における個人の位置づけと生命
近代以前の社会においては、一人ひとりの個人の基本的人権と呼ばれるようなものが省みられることはほとんどなかった。その社会の権威とされるもののもとで、社会全体の秩序や安定や効率が優先され、一人ひとりの意向や都合に配慮するゆとりはなかった。身分制度はその典型であり、そこでは社会を構成する人々は、役割ごとにカテゴライズされ、その運営の規約に違反した場合には刑罰を課せられた。さらに、そうした世俗的規約にはなじまない精神的な側面は宗教を権威としてさまざまな規制が設けられた。教育も、基本的にそうした世俗的権威や宗教的権威をより強固なものとすることを主眼とするものであった。人々は、そうした社会構成のなかで、自らのアイデンティティーを構築し、そうした枠のなかで、生涯を全うすることを運命として受け入れていた。
権威主義のもとで、一人ひとりの個人の意向が無視された例として、特攻隊の一員として死に赴くこと (形式上は志願という体裁であったが) とか、家父長制度のもとで意にそぐわない結婚を強いられること、などがあると思う。
生命全体を見るならば、こうした集団としての存続を優先し、個々の生命の犠牲は仕方のないものという理解は、ごく普通の見方かもしれない。そこでは、生命とはなにかという問いにさかのぼる必要がある。例えば、地球ガイヤと呼ばれるような地球そのものが一つの生命体であるという解釈もある。全ての生命が一つの遺伝子から枝分かれしてできたと考えれば、そうした理解も否定はできないようにも感ずる。個体としての生命を独立した存在として認める視点の獲得は、人類史上ごく最近のことであることを認識しておく必要があると思う。
2.個人の尊厳の発見の経緯
近代社会になって、一人ひとりの個人の尊厳とか基本的人権とか言われだした経緯をふり返ってみたい。基本的には、人間存在の理解を、価値論や意味論とは関係なく、自然を含めてあるがままを客観するという視点を獲得したことが端緒になっていると思う。既成の権威の根拠はなにか客観すると因習的なものでしかなかったし、自然界のできごとも定量的な因果法則として説明できるものであった。すなわち、権威的なものを一切持ち込むことなく、人間や自然を客観することが可能であり、それは一人ひとりの個人の能力に基づくものであることが理解された。こうした理解に至るまでには、ルネサンス期の人間中心主義や宗教改革における信仰義認論や神学論争における神の理論的存在証明の破綻といったことがあるように思う。
こうした一人ひとりが、対象とする世界のなかから外に出て、その対象をあるがままに客観できる存在であるという認識が、一人ひとりの人間の尊厳の根源であると思う。自然界を客観する能力は科学をもたらし、その上で構築された技術を通して、それまでの農業や牧畜などに代わる工業社会が生み出された。また、社会の統治スタイルとして、専制政治や開かれた一部のひとたちによる民主主義とは異なる個人の尊厳を基盤とする近代民主主義がもたらされた。
補足的な注になるが、民主主義は古代ギリシャから存在し、開かれたメンバーによる集団協議制のもとでの社会運営がなされるが、個人の尊厳という認識がなく、近代民主主義とは根本的に異なるものである。
3.近代民主主義社会を取り巻く課題
こうした近代民主主義を標榜する社会は、人々の便利さや快適さを追求することを第一義として運営されたと言ってよいと思う。鉄道、電気、水道、通信などの社会インフラが大々的に整備され、大量生産と大量消費の物質文明が地球規模で展開された。また医療技術も急速な進歩を遂げ、人々の寿命は格段に延びた。こうした華々しい現代文明の側面の一方で、巨大な暗雲が立ち込めだした。一つは、戦争やテロ活動による大量の人々の殺戮である。軍事技術はいまや日進月歩の時代になり、無人兵器、AI兵器、サイバーテロなど、その高度化はとどまるところを知らない。いま一つは、地球環境問題の深刻化である。化石燃料の大量消費に起因する温暖化、資源採掘や森林伐採などに伴う環境破壊、プラスティックごみなどの大量投棄に起因する海洋汚染など、枚挙に暇がない状況である。
科学技術と近代民主主義の登場をきっかけにして、地球社会は激変しつつあるという認識は基本的要請である。そうしたなかで、対応を困難にするかのように、権威主義の国と近代民主主義の国との相剋は深まる一方である。権威主義には、共産主義イデオロギーに立脚する中国、イスラム教という宗教イデオロギーに立脚するイランやアフガニスタン、個人独裁に立脚するロシア、シリア、北朝鮮など、形態はさまざまである。個人的には、個々人の尊厳を尊重する近代民主主義の社会への移行が人類史的にみた時代の流れであり、今現在存在する権威主義の社会は、その移行の途上にあるものと理解したいと思う。また、近代民主主義を標榜する社会のなかにおいても、一人ひとりの個人の尊厳が感情的な違和感から無視されるような事態も多々見受けられている。
こうした状況認識を踏まえ、取り組むべきではないかと思われる具体的な課題を以下いくつか列挙したい。
(1) 一人ひとりの人間のもつ知識の小ささの自覚
一人ひとりの個人がもつ知識の量は、森羅万象の知識世界からみれば、ほんの一部にすぎない。多少、たくさんの知識をもっている人においても、大海を前に、バケツの水とコップの水の量を比較しているようなものにすぎない。また、知識は、その人のアイデンティティーの形成に沿って構築される傾向があり、異なるアイデンティティーをもつ人とは、その知識がほとんど噛み合わないということも日常茶飯的に起こりうる。
適当なたとえではないかもしれないが、戦前、満蒙開拓団として多数の人々を送り出した村の村長だった人が、戦後、その人たちの悲惨な最後を知って、自責の念に駆られ自決したとのことであった。満蒙開拓団は、満州という傀儡国家の既定事実化をもくろむ政府によって推進された政策であり、自決した村長は当初、満蒙開拓団に懐疑的であったが、周囲からの集団心理的圧力や政府からのインセンティブの提示のなかで、次第に推進にのめり込んでいったようである。戦争に突入していく人々の気持ちも原発を誘致する人々の気持ちも、同じようなものではないだろうか。満州国建国は、ソ連の太平洋岸への南下の脅威を押さえ込むという目的であったが、日本国民のアイデンティティーに立てばやむを得ない選択であったのかもしれない。しかし、宇宙から地球を見た一人の人間としてのアイデンティティーに立てば、政治的侵略や武力行使が大勢の人々の悲惨を招くことになることの予想はついたであろう。そうした事態を回避するためには、ほんのわずかな個人の知識に依らずどのような知識が動員されるべきなのか一人ひとりが考慮する必要があり、そうした状況は、今日においてもなんら変わっていないのだと思う。
(2) 人間の多様な違いとその受け入れ
人間にはたくさんの違いがある。男女、人種、肌の色、容貌、民族、言語、国民、宗教、服装、髪形、しぐさ、癖、習慣、周囲への気配り度合い、言葉づかいなど、きりがない。そして、男女といってもLGBTのようなグラデーションも存在する。権威主義の社会では、これらは秩序と安定の都合に合わせて細かい違いは無視されカテゴライズされ、棲み分けのルールが規定され得た。一方、近代民主主義の社会では、こうした違いはそのままのものとして共存することが要請されている。価値観や意味論を共有しない多様な違いがあるもの同志が共存することは、感情的な行き違いもあり、なまやさしいことではない。そして、近年、グローバル化、移民や難民、外国人の受け入れなどによってこうした軋轢の深刻さは増しつつあるようである。組織のような密接な人間関係を伴う場においては、セクハラやパワハラなどが横行し、学校ではいじめが後を絶たないようである。
こうした状況では、一人ひとりの人間の個人としての多様な尊厳を尊重しあう姿勢を基本にして、コミュニケーションを深めていくことが大切ではないかと思う。米国社会の人種差別、銃の氾濫、人工中絶への取り組みなどをみると、こうしたコミュニケーションの難しさを思い知らされる。また、先日、ある学校の窓に「いじめをしない! させない! 見過ごさない!」というポスターが貼ってあるのを見たが、大切なことは、一人ひとりの個人の違いを認める姿勢を身につけさせる教育ではないかという印象をもった。
人間の違いという観点から男女の違いは、肉体的な相違を含むものであり、その他の違いのように単に相互理解によって克服できる次元のものとは異なる。子どもを妊娠し生むことは女性にしかできない。生殖は生物の本能的基本行為とみなされ当たり前のように繰り返されてきた。しかし、個の尊厳という新たな視座の浸透した今日、この違いを男女双方がどのように理解するかは、深く踏み込んだ議論が必要になっていると感ずる。女性同志のカップルが、ネット上で精子提供者を見いだし、片方の女性が出産するというドキュメンタリー報道が見たが考えさせられるものであった。これからの人口の増減に関わる大きな課題になりつつあると思う。
(3) 個々人の自律性こそ幸せな社会の基盤
昨年の10月、日本経済新聞に掲載された慶応義塾大学教授前野隆司氏による「幸せ中心社会への転換」という記事の概要は、以下のようなものである。
人類の歴史は、「拡大・成長期」 (物的な豊さを目指す時代) と「定常・成熟期」 (心の豊さを目指す時代) を繰り返してきて、今現在は、三回目の「定常・成熟期」への移行期である。2021年の世界経済フォーラム (ダボス会議) のテーマは、「グレート・リセット」であり、「世界の社会経済システムを考え直さねばならない。第二次世界大戦後から続くシステムは環境破壊を引き起し、持続性に乏しく、もはや時代遅れだ。人々の幸福(well-being)を中心とした経済に考え直すべきだ。」という認識に立っている。ここで言う幸福は、身体的・精神的・社会的に「良い状態」を表す。感情的に幸せな状態、すなわち短期的な心の状態を表す幸福(happiness)とは異なる。そして、幸福度の高い者の特徴は、1)やってみようとする自己実現意欲が高い。やらされ感がない。2)つながりと感謝の気持ちが高い。利他的で親切、多様な友人を持つ。孤独ではない。つながりが醸成された社会・コミュニティーをつくることが重要。3)前向きで楽観的である。広い視野をもち、細かいことを気にしない。リスクを取って不確実なことにチャレンジし、イノベーションを起こそうとするマインドをもつ。4)独立と自分らしさをもつ。人と自分を比べすぎない。「ありのまま」と考え自分軸を持って我が道を行く。
すなわち、「幸せ中心社会」は、権威に盲従するような人たちではなく、自律型の個人によって構成されるということである。
最近、生徒の多様な側面を規定する校則の見直しの機運が高いようである。今の校則のもとでは目的と手段の逆転が起きていたり、また、指示された通りに実行した結果がうまくいかない場合、その責任を指示した側に転嫁するという状況もみられると言われる。一方、制服をやめ私服にしたいという願いを実現しようとすると、経済的理由から制服がよいという意見が出てきたりし、より深く状況を分析するきっかけになったりしているようである。社会は、自律性をもった個人の集まりがさまざまな視点を持ち寄り、互いに理解を深めあうなかで、前進していくのだと思われる。
(4) 過剰な利己的権利意識とポピュリズム
個人の権利を尊重する近代民主主義が、適切に機能するためには、なにが大切なのだろうか。
社会的に多くの人にメリットがある工事を行おうとしたとき、一人の利害関係者が自己の狭い権利を楯に反対してその工事が進まないという事態が起こりうる。かつての成田闘争やいま現在のリニア新幹線建設と静岡県の水資源保護の対立などにそうした側面があるように思える。権威主義の社会なら、権威筋が有無を言わさず、強権的に押し切ることができる。だから、近代民主主義はものごとがなかなか進まないのだと批判される。
一方、近代民主主義は人々の期待に迎合し、ポピュリズムに走り、衆愚政治に陥る危険性も指摘されている。権威主義のもとであるなら、権威筋が人々に我慢することを強要できたが、それができないため空手形を乱発する。GDPをはるかに上回る赤字国債の発行もその一環かもしれない。
自分たちの置かれている状況を常に広く深く分析し、課題と対応を正確に分かりやすく全員に伝え、それぞれの自律的問題意識を深めることが大切ではないだろうか。そして、人々の自律性を高める教育とともに、人々の相互の信頼を日常的に培うことが大切のように思われる。
(5) 刑罰の目的と社会的フォロー
今日の社会においては、法律に規定された犯罪を犯すと、その内容に応じた刑罰が裁判によって決定され課せられる。その刑罰を通して、犯罪者は反省し更生するという前提に立っているのだと思われる。しかし、刑罰だけで人は更生できるものではなく、なにが原因でその人がそういう犯罪を犯すに到ったのか分析し、その内容を社会に広く知らせ、社会からそのような要因を取り除く対策がとられなくてはならないと思う。犯罪者に、その責任の全てを押しつけるという権威主義が放置されたままになっているように思われる。人工知能やビッグデータなどの技術を駆使して、こうした犯罪抑止のための問題意識が社会全体で深められ、重層的な対応の仕組みが構築されるべきだろう。
(6) 自民党の提案する憲法改正案への懸念
自民党の憲法改正の提案は、現状を追認するようなものだとの説明もあるが、一人ひとりの人間への視点という観点から見るとかなり危ういものが感じられる。
例えば、第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)についての変更内容としては、新たに、第1項に、個人よりも家族の方が重要だとするような「家族は社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」という文が追加される。そして、これまでの第1項「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」という文章から「両性の合意のみ」の「のみ」が削除される。また、現行の第2項目「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」というものは、制定されるべき対象から、配偶者の選択、住居の選定が削除され、代わって、家族、扶養、後見が追加されている。
また、幸福追求権についての第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という表現の一部が、「全て国民は、人として尊重される。」、「公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」と書き換えられている。
すなわち、個人の尊厳を重視し、個としての相互の尊重を押し進める近代民主主義の基本理念から離脱し、国家や家族を権威とするような先祖返り的な変更を目指しているかのようである。
今の憲法の基本的理念を理解していない人たちが、家族愛的な情緒的美意識のみに溺れ、少し変えてみようか的な発想で対応しているようにさえ感じられる。なにか自民党という政党の前近代的な体質を垣間見る思いである。
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