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第153号

2022年1月4日

「地球社会の現状認識」 深瀬 久敬

 

ここでは、はじめに権威主義と近代民主主義の社会をそれぞれ概観し、次に近代民主主義の社会を中心に、その今後の在り方を吟味し、そのなかで日本の社会の今後の展望にもふれたい。

 

1.権威主義についての考察

 わたしたちホモサピエンスは、地球上に20万年ほど前に登場し、いまや地上でもっとも隆盛を誇る生き物になっている。そうなった理由は、多数の人間が一つの集団を形成し、ある権威のもとで各自がそれぞれの役割を分担し、みんなで協力し共同生活を営むという生活様式を確立したためだと推測される。そうした権威は、政治的権威をもつ世俗的な国王と宗教的権威をもつ精神的な法王といったように分担されることもあった。これはわたしたちホモサピエンスの伝統的な統治方式であり、古来から脈々と伝えられてきたものと言えるだろう。この点は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」のなかで、虚構を生み出す力を獲得したことに端を発する認知革命とほぼ同じことを意味していると思う。

 

 こうした権威主義に基づく社会運営においては、社会の秩序と安定がもっとも重視され、具体的には、循環のなかでの永続性の視点、効率化や治安を含む生活上の様々な規定などが導入された。秩序や安定を重視する一例として、北海道などに居住するアイヌの人達は、権威を敬い自然の恵みに感謝し祭礼の儀式を行い、乱獲に配慮し循環的に安定した生活を指向した。一方、イースター島に居住していた人達は、やむを得ない事情があったせいなのか、島の樹木を伐採しつくしてしまい居住することが不可能になり、島からの退去を余儀なくされた。また、安定の強化策として、特定の権威を擁立する統治権力がより広い範囲での統一を追求する拡張主義の傾向は普遍的なものであったようである。

 

 権威主義に基づく統治は、社会構成を規定する身分制度を伴うのが一般的であった。それは上下関係、序列意識に基づくものであり、奴隷制度、封建制度、貴族制度、士農工商、家夫長制度、カースト制度などが知られている。こうした身分制度のもとでは、長子相続、男尊女卑、被差別身分など、権威の保持のために好都合な様々な仕組みが導入された。人それぞれがもつ能力や個人的都合といった側面はほとんど考慮されることはなく、規定の枠の中に押し込められて生きるしかなかった。

 

 また権威を強化する目的に沿って、絢爛豪華な神殿が建立されたり、象徴化された権威を祭る儀式やパレードが行われたり、彫像や絵画などの芸術作品が作られたり、権威の由来を神話的に説明する物語が作られたり、人々の序列意識を明確にするための道徳の規範ルールが作られたりした。民の平穏な日々の暮らしぶりを通して統治者を賛美するような詩文が詠まれたりもした。

 

 一方、権威に立ち向かうものは徹底して弾圧され、そこでは残酷な刑罰が行使されたりもした。不穏な言動は常に諜報機関や監視カメラなどによって監視され、密告が奨励されたりもした。権威に不都合な情報は表にだされることはないし、身分制度の階層間の交流も基本的に禁じられた。「由らしむべし、知らしむべからず」は権威による統治の基本スタンスであった。隠蔽や弾圧の例としては、太平洋戦争時の軍令部発表や戦前の治安維持法の乱用などが挙げられるだろう。多様性や基本的人権といった視点は存在せず、用意されたいくつかの枠に無理やり押し込むことによって統治を安定させようとした。従って、様々なことに興味や関心を向けること自体も禁忌の対象であった。

 

 このような権威主義の社会では、ともかく現状維持が基本スタンスであるので、生産性の向上といっても、新たな開墾地を開発する程度であった。人間は、言葉、道具、火などを駆使し、その上で、定住農耕、鉄の利用、牛馬の労働力としての活用、中国における羅針盤や火薬の発見など様々な改善がなされたが、これらは意図したものではなく偶然もたらされたものにすぎなかった。科学技術の計画的戦略的な開発とは異なるものと言わなくてはならない。

 

 ある権威を戴く集団が他の権威を戴く集団と対峙した場合、基本的には戦争によって負けた方が勝った方に統合されるしかなかった。権威主義による統治の世界では、権威同志が棲み分けることは困難であり、戦国時代は、権威が乱立した時代であった。宗教対立や民族対立は、人々が内面にもつアイデンティティーの権威に執らわれていることに起因しているので、地理的に棲み分けるといった対応法しかなかった。権威主義に基づく統治の世界では、権威が複数存在している限り戦争は原理的に不可避であり、永久平和は不可能ではないかと思われる。

 

2.近代民主主義についての考察

 近代民主主義は、ヨーロッパにおいてキリスト教の世界宗教としての権威の普遍化を目指す人達が、その教義の根底にある意味や価値を普遍的説得力をもつ論理を使って証明しようとした努力のなかから誕生した。すなわち、この人達は、都市国家のなかで権威の力が強くなく純粋な探究心を豊かにもっていたギリシャ人によって構築されたギリシャ哲学、さらに、エジプトの土地測量に端を発するユークリッド幾何学などにおける論理的思考法を活用し、キリスト教の教義の論理的再構築に挑んだのであった。しかし、結果的に意味や価値を論理的に根拠づけることは不可能であることが悟られた。そして、その反転として、権威が担っていた意味や価値を放棄し、ありのままの現象を定量的定性的な因果関係として受け止める態度を獲得した。それが、自然現象を数式の法則として理解する科学を誕生させ、そして、人間社会を現象として見るとき一人ひとりの人間は自由であり平等であるという近代民主主義の理念に到達したのであった。

 

 その後、科学は、人間の欲望を実現する技術開発を通して産業革命をもたらした。また、近代民主主義は、権威主義のもとでは抑圧されていた人それぞれのもつ才能や能力を解放し、その活用を通して、便利さや快適さへの欲望を様々な角度から実現する活動を可能にした。権威主義の現状維持の抑圧から解放された人々は、こうして製品の大量生産と大量消費を享受する社会に移行していった。そうした欲望には歯止めがかからず、市場を拡大するために植民地獲得を目指し帝国主義へとひた走った。たまたま同時期に起きた大量の移民によるアメリカ合衆国の建国は、こうした動きに拍車をかけた。そこでは、便利さと快適さを求め、より多くの資本が投入され、その見返りの獲得を競う資本主義社会へと急速に拡大し変貌していった。権威主義のもとでは抑圧されていたものが一斉に解き放たれ、まさにパンドラの箱があけられたようであった。それは、安定した持続を指向した循環型の世界から、ひたすら欲望の実現を目指す直線型の世界への移行を意味していた。それと同時に、それまで無視された一人ひとりの個性としての才能が注目され、基本的人権や多様性といった側面も注目に値するものになった。

 

 資本主義は、人々の欲望の投企であり、権威主義のあとの時代の人々の行動原理そのものだと言ってよい。近代民主主義の社会では、一人ひとりが自分の欲望の実現を指向することが求められるのであり、その根幹をなすのが資本なのだと思う。お金ではなく、他人から認められたり感謝されたりすることを行動原理とする考えもあるようであるが、資本がもっとも普遍的なものであることは否定できないと思う。

 

 資本を行動原理とする近代民主主義の社会において、資本家が労働者を搾取するという悲惨が発生したため、マルクスは生産財を国有とする共産主義体制を提案した。しかし、この体制は富の偏在を防止するものである一方、限られた頭脳明晰なエリート集団による統治を想定し、また個人の能力に基づく自由な競争を阻害する傾向を持ち、本質的には権威主義への回帰と言えるのではないだろうか。また、近代民主主義の社会のなかで格差を国策として人為的な政策によって是正する仕組みを否定する見解として、新自由主義が提唱されたが、結果的には格差は是正されるよりはむしろ拡大させるものであったようである。

 

3.これからの地球社会の在り方についての考察

 以上のような認識を踏まえながら、近代民主主義を価値とする国の一員としての立場から、これからの地球社会におけるいくつかの課題について展望してみたい。

 

(1) 近代民主主義と社会秩序の担保

 権威に拘束されることのない一人ひとりの人間はそれぞれの尊厳をもち、そして互いにその尊厳を尊重しあうことが近代民主主義の基本理念である。そうした理念に基づく近代民主主義の課題は、権威主義が最重要視してきた社会の秩序と安定を確実にするメカニズムをはっきり示せないという点ではないだろうか。

 人それぞれが表明した各自の意見を踏まえて全体の意見をまとめるというのは簡単ではなく、手間も時間もかかる。多数決をとるにしても、みんなの意見は適切にカテゴライズされなければならないし、細かい点の相違も無視されてよいのかという課題もあるだろう。

 さらに、社会状況の不安に駆られた人達は、ゆとりをなくし感情的に悪者を作り上げ、追放したりする行動に走ることもある。近代民主主義の理念は吹き飛び、そうすることを許容する権威を仕立て上げる。移民や難民に仕事や治安を脅かされるという理由で右派は外国人排斥を主張し、生活困窮を解決するために公的資金のバラマキを左派は要求する。陰謀論やフェイクニュースを振りかざし特定の人々を排除しようとする人達もいる。

 チャーチルの「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば。」という言葉にも一理あるように思われる。では、わたしたちは、どのようにして近代民主主義を信頼するに足る制度に練り上げていくことができるのであろうか。

 第一に、一人ひとりが社会の状況をより広く客観的に理解し判断できるようにするために、公的な情報は基本的に全て公開されるべきだと思う。モリカケ問題の認諾終結や学術会議任命拒否問題などは、近代民主主義の社会ではありえない。第二に、個人を単位とする支援ネットワークは、相談や経済的支援など全てを一括して迅速に手厚く支援可能とするように、国全体の総力をあげて構築するべきだと思う。AIやマッチング理論を駆使し、高齢者などの人の暖かみの感じられるシステムが理想ではないだろうか。第三に、転職するための専門知識や一般教養、そして、チューター制度なども含むような手厚い教育システムが構築され、一人ひとりが地球人としての幅広い視野を伴ったアイデンティティーをもてるようにするべきだろう。第四に、社会の様々な変化やリスクに柔軟に対応できる舵を切るための仕組みが必要だろう。第四に、常にフロンティアに向き合い、社会の新陳代謝を円滑に行える工夫も必要だと思う。これらの実現に向けては、デジタル技術をフルに活用する覚悟が必須だと思う。

(2) 権威主義のもとでの科学について

 科学は、権威主義の価値観から解放され、自然界の現象をあるがままに客観的に定量的定性的因果関係として理解する態度からもたらされた。従って、権威主義のもとでの科学は危険なおもちゃをもてあそぶことにひとしいと思う。その科学は軍事目的や監視目的や国威高揚や思想統制といった権威の都合によって着色されたものになる。権威主義のもとで科学を探究する研究者は、常に権威の顔色をうかがっていなくてはならない。こうして遂行される科学はいびつでディオニュソス的なものにならざるをえないのではないだろうか。

 権威主義の国が科学をもてあそぶことを抑止するために近代民主主義の国はどのような対応をとるのが適切なのか、人類の智恵が問われている。ナチスのロケット開発が短期間で完了し、ロンドンが壊滅していたらどうなったのであろうか。マンハッタン計画の原子爆弾開発、その後の水素爆弾開発、最近ではクリスパーキャス9を使ったゲノム編集技術の利用など、人類は科学の成果とどのように向き合うべきなのか、倫理面を含めて正面から向き合う姿勢が求められている。

 

 少し逸れるが、中国は、今、明治維新のころの日本が和魂洋才と言って、和魂の優位性を信じながらも西洋の科学技術文明の導入にひた走ったのと同じように、華魂洋才ともいうべきスタイルで科学技術の開発に邁進しているように思われる。権威主義のもとで、科学技術を振り回すことは、日本の帝国主義が日中戦争、太平洋戦争と突き進んだ経過と同じような道をたどるのではないかと危惧される。戦前の日本が大東亜共栄圏と言ったのと同じような響きが、中国の一帯一路とか、九段線といった言葉に感じられないだろうか。

 

(3) 権威主義と近代民主主義は共存していけるか

 権威主義という人々の意識を一つに統合し、その虚構のもとで集団社会を秩序ただしく安定して営むことを可能にした意識革命を第一の意識革命とすれば、その権威から解放され、科学や近代民主主義を獲得した意識革命は第二の意識革命とよぶのがふさわしいようにわたしは思う。第一の意識革命によって、体格や筋力などに優れたネアンデルタール人が消滅し、ホモサピエンスの時代に移行したように、権威主義にこだわる人々は消滅し、近代民主主義を意識としてもつ人達に、どのような経緯をたどるかはわからないが取って代わられるのは時代の必然的流れではないだろうか。

 権威主義のもとにある人々と近代民主主義のもとにある人々とが、人間の存在とはどのようなものか原点に立ち戻り、謙虚にともに話し合い考え合えるような場がもたれることを切望したい。

 

(4) 日本の社会の現状と今後

 日本は、1945年に、日中戦争、太平洋戦争において単なる市井の人々も含めて数百万人の人命を失い敗戦を迎え、それまでの強固な権威主義の国から外圧によって先端的な近代民主主義を理念とする日本国憲法を戴く国に脱皮した。しかし、その憲法の神髄についての理解は、いまひとつ浸透しているとは言い難い状況ではないだろうか。意見が分かれたら多数決で決めるとか、人に迷惑をかけないといった理解はあるにしても、一人ひとりの自由と尊厳を互いに平等の立場で尊重しあうというのは、なにを根拠にもたらされるものなのかとか、自由とはなにをやってもいいということなのかといった点について、人間観まで踏み込んだ理解には充分到ってはいないのではないだろうか。

 例えば、自分の意見を表明すると同調圧力の批判にさらされたり、上下意識などの古い権威主義に起因するパワハラやセクハラが日常茶飯的に横行していたり、LGBTの人達や外国人などの多様な人々を受け入れる姿勢はまだ緒についたばかりという印象である。

 一人ひとりが自らの意志で選択し自らその責任を負うというより、選択肢のないまま強要され、うまくいかないとその責任を負わされるという歪んだ自己責任論が跋扈しているようでもある。文科省の古い体質が影響しているのかもしれない。また、カンフル剤的な金融緩和やバラマキばかりが目立ち、一人ひとりの能力や才能を正面から尊重し引き出そうとする風土がまだまだ希薄だと感ずる。こうしている間に、日本は国際社会のなかで、その存在感を縮小する一方である。

 日本は、近代民主主義への理解を深め、主体的全人格的な参加者意識をもつ人々を安定的に抱える社会に速やかに変貌していく必要がある。一つの自律した近代民主主義の国として、安全保障については日米地位協定のような位置づけに曖昧性をもつ条約も含めて正面から向き合い、世界の安全保障の在り方の構築に主体的に取り組んでいく必要があると思う。

 

4.終わりに

 地球は、約46億年まえに誕生し、生命は幾多の変遷を経て進化し、人間の原人は約600万年前に登場した。そして、今の地球の海や山や川の風景は、数千万年という時間のなかで風や水の圧力によって作られた。わたしたちは、こうした地球の景色の美しさにいつも魅了されている一方、今はかなり深刻な問題に直面していることは間違いない。すなわち、一つ目は、大量の資源を消費することに伴う温暖化、森林破壊、絶滅危惧種などへの対応であり、二つ目は、科学技術の飛躍的進展に伴うバイオテクノロジー、個人情報管理などの倫理上の扱い方であり、三つ目は、地球上を二分している権威主義による統治国と近代民主主義による統治国の併存の在り方である。

 わたしたちは、こうした問題にうまく対応することができないとかなり短期間の間に絶滅の危機に直面することになると予測されている。

 なんとか人類全体の叡知を集結し、うまく対応し乗り切っていくことを願うばかりである。


「負けること勝つこと(109)」 浅田 和幸

「問われている絵画(144)-絵画への接近64-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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