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第154号

2022年4月10日

「問われている絵画(145)-絵画への接近65-」 薗部 雄作

 

 

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ヴァザレリ シュペルノヴァ(超新星) 1959−61

 

 

 いったい芸術が理解される、あるいは理解されないということは、どういうことであろうか。今では多くの人々に注目され愛されているゴッホやセザンヌそしてゴーギャンも、かれらが仕事をしていた当時においては、周囲の人や一般の多くの人たちからは、ほとんど無視され、それどころか変人あつかいをされてさえいたのだ。しかし評価された今では世界の多くの人たちから理解され、賛美されている。たとえばフランスのアルルといえば、わたしたちはゴッホやゴーギャンを思い浮かべる。また、かつて無名のセザンヌが写生に通っていた頃の、やはりフランスのエクスの道路など、誰もとくべつ注目はしていなかったであろう。しかしセザンヌが世界的に評価され賛美されている現在では、その、かつての道路には「セザンヌの通った道」という標識が刻み込まれているという。

 

 それより、そもそも彼らが描いていた作品…絵画とはいったい何なのだろう。四角い一定の平面のなかに何かが色や形で描かれている。それは目に見える外界の風景であったり室内の静物であったり、また人間の顔や姿であったりする。さらに現在では外界に見える風景や静物だけではなく、人間の内なる世界…心象的な色や形や線であったりする。では、これらのものはいったい何なのだろう。また誰のために描いていたのだろう。ゴーギャンやゴッホやセザンヌの時代においても、すでに誰かに…国や個人の依頼によって描いていたわけではない。願わくはそうありたいと思っていたかもしれない。しかし事実はほとんどまったく逆で、一般にそのようなことはほとんどなかったであろう。なかにはそのような画家もいたではあろう。しかし若い無名のそして革新的な絵画作品などに対して、それを求めようなどという者はほとんどいなかった。だから売れるわけでもない作品を依頼のないままに、自分の内なる意思…美的な欲求にしたがって制作をしていたのだ。そのような状況は…時代が変わった現代においても少しも変わってはいない、と思う。いや、さらにそのような傾向は深まり、あるいは過激になっているかもしれない。にもかかわらず、依然として描く人間は後を絶たない。それどころか、さらに増加しているかもしれない。

 

 たしかに、描くあるいは表現するということには独特の魅力と吸引力がある。外界に見えるものが、また内なる無形のものが、描くことによって何かの形になって表現される。それは、ある意味ではスリリングなことかもしれない。しかしまた、そのような再現行為に意味を感じない人もいるかもしれない。時代はさかのぼるが、たとえばパスカル(一六二三~一六六二)は、「実物を見ても感心しないのに、絵を見ると似ているといって感心する、絵とは何とむなしいものであろう」と『パンセ』のなかに書いている。パスカルが生きた時代には、まだ写真はなかった。しかし、かりに当時に写真があったとしたら、それを見ていったいどんな感想を述べたであろうか。やはり絵画に対してとおなじく、外界のもろもろ物を写すだけの機能に、むなしいといったであろうか? じっさい写真は絵画よりも、さらに実物を写すということが第一の目的であるのだから。たしかに、絵画も外界の実物を似せて描くばあいは多い。しかし絵画には写真のように、そのままそっくり写すいうことだけではない、物のかたちをディフォルメ…変形して表現することも多い。さらに抽象絵画にいたっては実物に似せるという行為は排除されている。ここでふと思うのであるが、もし、かりにパスカルが生きていた時代に抽象絵画があったとしたら、そしてそれをパスカルが見たとしたなら、彼はいったいどんな感想を述べたであろうか、ということには興味をそそられる。数学者でもあったパスカルは、あるいは何らかの興味を持つたであろうか? 抽象絵画には、幾何学的な抽象作品もあって、それにはある種の数学的要素を感じさせるからである。

 

 

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モンドリアン 青のコンポジション 1935

 

 

 

「負けること勝つこと(110)」 浅田 和幸

「近代民主主義への歩み」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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