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第154号

2022年4月10日

「近代民主主義への歩み」 深瀬 久敬

 

1.ホモサピエンスと権威主義の歴史

わたし達人類は、広大な宇宙のなかの銀河系という星の集まりのなかの太陽系の一惑星「地球」に生存する生き物である。地球は、太陽からの距離によって水が蒸発もせず氷結もせず液体を保持できるハビタブルゾーンに位置している。さらに、生命に有害な紫外線を遮断するオゾン層をもつなど、奇跡的に作られた環境のもとで豊かな生命活動が可能になっている。

 地球が誕生したおよそ46億年前から数億年を経て、原始的な生命が海のなかに誕生し、それが細胞を作ったり、シアノバクテリアが大気中に大量の酸素を放出するなどして、多細胞生物が誕生した。そして、5億年前ころから、生物の陸上への進出が開始され、さらに大量の隕石によってもたらされたリンによって生物の多様性が可能になったようである。また、巨大隕石の衝突に起因して一億年以上に渡って繁栄し続けた恐竜が絶滅したりするなど、生物の何度かの大量絶滅を経て今日の地上の生き物の生態系が作り出されたと考えられている。

地上の生態系は、植物が繁茂し、昆虫が現れ、草食動物が現れ、草食動物を食す肉食動物が現れるなど多様性を増し、また、大陸プレートの移動や火山活動、そして、海や川や氷河などによる浸食によって様々な自然景観がつくられた。そうした数億年、数千万年の時の流れのなかで、人類は、約600万年ほど前に猿人としてアフリカに誕生し、その後、原人、旧人などと変遷した。人類の他の動物に比較しての特徴は、二足歩行、道具や火や言葉の使用などがあるが、他の動物は自らの存在の自覚を自然のなかでの無意識的な本能に基づくものとしてしか持っていないのに対して、人類は自然から切り離された存在であることを自覚し、そして、他者と自分との区別も意識していることではないかと思う。このことを端的に物語っているのが、旧約聖書の創世記に描かれた禁断の実を食べることによって羞恥心を自覚するようになったアダムとイヴの物語であろう。こうした他から切り離された自己を意識するようになった私たち人類は、喜び、感謝、笑い、苦悩、哀しみ、恐怖、絶望、驚嘆などの豊かな感情をもつようになった。

 そして、20万年ほど前に登場する私たちの直接の祖先であるホモサピエンスは、それまでの人類にはないもう一つの特徴を備えていた。それは、価値や意味といった抽象的概念を共有し互いの信頼に基づく協力関係を築く能力をもったということである。すなわち、大きな集団として共通の権威を奉じ、そのもとでさまざまな守るべき約束事を取り決め、貨幣を用いた商取引や身分制度に基づく分業体制などの確立が可能になった。権威は武力をもって約束を守らない人を罰したり追放したりし、集団としての秩序と安定を図った。また、自然災害や疫病といった人知の及ばない脅威に対しては、権威が代表して祈祷を行ったりし、人々の気持ちを和らげる努力が行われた。こうした権威を背景とする権力が、ローマ帝国や中国の秦といった巨大な統一国家を作り出した。このような国家を運営するにあたっては、軍事、法律、身分制度などの充実とともに、人々の内面的な在り方についても忠孝思想や武士道などの倫理、そして、隣人愛や則天去私といった宗教などを通して洗練度が深められ、それらは人々のアイデンティティーの根底を形成するものとなった。

このような権威主義の統治する社会では、個々人の自由や人権が省みられることはなかったが、権威は全体の在り方については可能な範囲で配慮した。従って、人々は権威の価値観を強要され、自らの価値を主張することは許されなかったが、その権威に従属する限りにおいて、質の高低の差はあったとしても安定した生活は確保できたのである。

 

2.科学と近代民主主義の獲得

 前述のような権威主義に基づく社会統治に対して、およそ五百年ほど前、主に、キリスト教教義の普遍化を追求した人々の間から、その権威の根拠としている意味や価値の唯一絶対性に疑念を投げかけ、そうした既存の意味論や価値論を否定し、それから脱却した世界観を掲げる思想が現れた。

 そうした思想に基づいて、自然界の諸現象を定量的定性的な因果関係として客観的に理解し、そして、社会を構成する個々人の自由、平等、人権を認める視点が獲得されることになった。こうして、科学と近代民主主義を基盤とする近代社会の幕が切って落とされることになった。

 このことを、わたしは「人間意識の晴れあがり」と呼びたいと思う。すなわち、およそ138億年前の「ビッグバンからおよそ38万年後に宇宙の温度は約3000Kまで低下し電子と原子核が結合して原子を形成すると、光子は電子との相互作用をせずに長距離を進めるようになる。つまり、初期宇宙は電離度が大きいため光子にとっては『霧がかった』状態にあるが、再結合により電離度が減少する結果として宇宙は透明になる(宇宙の晴れあがり)。(ウィキペディア)」という出来事になぞらえ、人間の世界を見る意識が意味や価値の呪縛から解放され、この世界をいかなる執らわれもなく透明に客観的に見ることが可能になったことは、人類にとって画期的な出来事と言わなくてはならないと思う。そして、こうした「人間意識の晴れあがり」は、宗教改革、フランス革命、アメリカ合衆国の建国などの出来事を通して、地球規模に拡散した。

 こうして、科学は、宇宙物理、量子物理、生命科学、情報科学などとして目ざましい発展を遂げ、そうした科学的知識に基づく、医療、通信技術、情報処理技術、エネルギー技術、自動化技術、重化学工業技術などによって、人類の長い歴史に比較してわずか数百年の間に今日の産業経済の飛躍的発展がもたらされていることは驚くべきことと言わなくてはならないと思う。

こうして私たち人類は、大量生産、大量消費を通して、豊かな物質文明を享受し、かつてない便利さや快適さを手にしている。また、近代民主主義を統治原理とする社会においては、個々人が束縛のない自由のもとで、人それぞれの生き方、たのしみ方などを追求し実現することが可能になっている。

 

3.「人間意識の晴れあがり」の状況

さて、わたしは科学と近代民主主義の普及を「人間意識の晴れあがり」と言ったのであるが、それは今日までどのように進んでいるのか吟味してみたい。

 科学と近代民主主義の思想を獲得した国家は、当初、その成果としての強大な軍事力と産業経済力を背景に、地球上の独善のまどろみに浸っていた伝統的権威主義の国家を次々に制圧し、地球規模の覇権を有するようになった。具体例として大英帝国を挙げることができるだろう。

しかし、科学技術の知識の普遍性に基づいて、既存の権威主義の国家もその成果を享受するようになると、近代民主主義の国家と権威主義の国家とが合い乱れて覇権を競うようになった。その結末として、第一次、第二次の世界大戦にみるような大勢の戦死者を伴う凄惨な地球規模の戦争が引き起こされ、さらには、大量殺戮を可能とする水素爆弾や化学兵器が開発され、地球上の人類を複数回に渡って絶滅できるほどの量が保有されるに到っている。

こうした状況は、今日においても切実に継続している。最近のロシアとウクライナの現実の地獄をみるような戦争、米中対立、北朝鮮のひとり芝居など、根っこは近代民主主義と権威主義の相いれなさに起因していると考えられる。原理的に、権威主義の国家は、他の権威主義の国家とは互いの権威に無干渉を決め込むことによって棲み分けできるが、近代民主主義の国家とは権威の根拠が脅かされる可能性が高く、併存は困難と言わなくてはならないと思う。

また、近代民主主義の体裁を整えた国家においても、一部の人々が近代民主主義の理念に反対し、部分的に権威主義に回帰する動きがあることも否定できない。これは、近代民主主義の社会運営に権威主義にみられるような閉鎖的で強制的な秩序保持や安定指向のような仕組みが充分に機能しないためではないかと思われる。その根底には、グローバル化、技術革新、競争の激化、格差の拡大、人種・民族・宗教などの相違に起因する感情的な対立など、複雑な要因が絡むと考えられる。

近代民主主義と権威主義との関係については、地球環境問題など、今日、人類全体の問題ともなっており、最後に改めて論じたいと思う。

 

4.日本社会の近代民主主義へのプロセス

次に、日本社会の近代民主主義へのプロセスをふり返ってみたい。

明治維新前までは、江戸幕府、および、神仏習合の宗教の二つを頂点とする権威主義による統治がなされていたことは明らかであろう。

 明治維新になり、薩長藩閥政府は和魂洋才をモットーに西欧の科学技術力を背景とする産業経済力を中心に積極的に導入し、富国強兵、殖産興業を押し進めた。そうした中で、板垣退助らの自由民権運動や、大隈重信、福沢諭吉らの英国型議会政治の導入といった動きもあったが、時期尚早と考える伊藤博文らによって天皇の統帥権を認める大日本帝国憲法に基づく立憲君主制が施行された。選挙権は一定の納税額以上を納める男子に限られるなどしたが、形式的な民主主義は一応整ったと考えられている。

そして、日露戦争での辛勝や第一次世界大戦での戦勝国入りなどを発端とした大国意識の高まりとともに、政党政治の盛り上がりもみえた。しかし、世界大恐慌のような事態に直面するなかで、農村部の貧困を目の当たりにした青年将校らが、政党政治家や財閥有力者などへのテロ行為を頻発させ、天皇親政を目指すような行動に突き進んだ。こうした動きは国民やメディアの一定の支援もあり、軍部主導の権威主義体制の強化は日増しに高まり、結局、民主主義への機運は治安維持法や国家総動員法などの施行によってついえた。大正デモクラシーや大正生命主義といった思想もあったが、残念ながら実質的な権威主義体制のもとでは本来の意味は持ちえなかった。

こうして日本は虚構とも言うべき「大東亜戦争」に突入し、その結果、米国の圧倒的軍事力の前で完膚なきまでに敗北させられ、無条件降伏としてのポツダム宣言を受け入れざるえない状況となった(一部に一億総玉砕を叫ぶ狂信的な人もいたようであるが)。それは、次のような要求を含むものであった。すなわち、「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。」。

 そして、戦後、こうしたポツダム宣言の内容に基づき、新憲法の草案が松本丞治国務相らによって作られたが、それは大日本帝国憲法とほとんど変わらないものであったようである。結局、GHQ民生局が主体になって素案が作られ、それを土台に様々な国会討論などを経て、今日の先端的近代民主主義の理念を反映する日本国憲法が制定されるに到った。その中には、GHQ民生局に所属していたベアテ・シロタ・ゴードンさんらの活動によって作られた「第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」といった、それまでの家制度のもとでの結婚における戸主の承認が排除されるなど、画期的な側面を有するものとなった。

 明治維新と同様に、日本の社会は内発的ではなく外発的圧力によって、日本国憲法という言論等の自由や男女平等など、近代民主主義の理念を戴く社会に変容することになったのであるが、その実情はどのようなものであろうか。

 まず、米ソ冷戦構造の先鋭化や朝鮮戦争の勃発もあり、日本は産業経済力の復興を第一に掲げ、近代民主主義の理念の浸透は二の次にされたと言えるように思う。さらに日米安保条約や日米地位協定もあり、日本の自律心は骨抜きになったと言えるのではないだろうか。また、政治体制においては、権威主義時代の隠蔽体質、無謬性体質、検察の自白強要体質など、かなり残存しており、政府への国民の信頼感は充分とは言い難い。また、民間におけるエコノミックアニマルや町人国家の気質、同調圧力や空気を読む体質、タテ社会意識、選択を排除する規制だらけの学校教育現場、女性軽視、罰して終わりで根本的解決策を講じない体質、といった旧態依然も色濃く残っているように感ずる。

 最近では、教育勅語を教育に取り入れるという学校を有力な政治家が支援したり、学術会議のメンバーとして時の政権と異なる見解をもつ人を理由を明らかにすることなく排除したり、憲法24条を家族重視の内容に変更したいと有力政党が言い出したり、なにか理解に苦しむことが多い感じである。

 

5.最後に--日本社会の役割

今日の地球社会は、様々な課題に直面していると思う。例えば、次のようなものである。

  • 地球環境問題としては、産業革命以降の二酸化炭素の大量排出に起因する温暖化効果の進行、加速する森林伐採、食糧資源の枯渇、鉱物資源の争奪戦、生物多様性への脅威としての人間活動などがあり、これらは差し迫ったティッピングポイントを超えると復元が不可能になると言われている。すなわち、人新世と呼ばれる時代区分における人類の責任が問われている。
  • 科学技術の急速な進歩に伴う課題としては、生命科学の行き過ぎに関する倫理問題、人工知能の発達に伴う人間の在り方、ロボット化などに伴うリスキリングの必要性への柔軟な対応法、ネット通販や監視カメラやビッグデータ分析などの普及に伴う個人情報の扱いなどがあり、科学技術の成果をどのように扱えばよいのか難しい判断を迫られている。
  • 新型コロナのような地球規模の感染症対策への取り組み方が問われている。
  • 権威主義と近代民主主義の統治国家の相剋は、次第に深刻さを増しており、核戦争も危惧され、人類絶滅の危機さえ感じられるようになっている。・人種、民族、宗教、LGBT、等の感情的な根深い差別意識から抜け出せずにいる。なにが根本原因なのかが問われている。
  • 近代民主主義における自己実現や自己責任に伴う格差の拡大が止まらない。セイフティーネットの在り方が問われている。
  • グローバル化に伴う移民、難民、工場移転に伴う失業などの問題は、複雑な要因が絡み合い単純な解決が困難になっている。

これらの課題に対応するにあたり、まず、近代民主主義と権威主義の相剋について、わたしは、近代民主主義への道は後戻りのできない不可逆的な流れとみなすべきだと思う。近代民主主義の社会の内部においても様々な問題を内包しているし、権威主義との歩み寄りも適切に進んでいない。この点については、近代民主主義社会における成人の人間像とはどのようなものか、権威主義社会の長い歴史の中で問われてきたような理解の深まりを確実にする方策が求められていると思う。またこれからの宗教は、個人の内面の在り方に注力するべきではないかと思う。

日本の社会においては、近代民主主義の社会における大人のイメージがほとんど確立していず、子ども扱いを是とする雰囲気もあり、その浸透を困難にしていると感ずる。社会学者の大澤真幸氏は、日本では先人の志を次の世代につなげていこうとする責任感が欠如しているという指摘をされている。確かに、日中・太平洋戦争というあまりに無謀な戦争に突入してしまった先人を受け入れることのできないまま今日に到っている。

また、先日、「マイケル・サンデルの白熱教室『民主主義って時代遅れなの?』」というTV番組を視聴したが、そこに参加している中国の復旦大学の学生の近代民主主義への理解が、かなり権威主義的考え方を前提にしていることに強い戸惑いを感じた。

 日本の社会は、今現在においても権威主義の残滓がいたるところに遺っている状況であり、そのためではないかと思うが、世界での存在感は低下の一途をたどっている。しかし、日本の社会は、戦前のたくさんの戦争犠牲者への追悼を踏まえて、近代民主主義の理念を正面から受け止められるだけのポテンシャルをもっているのではないかとも感ずる。そこを突破し、デジタル技術の活用などを含めて、世界の近代民主主義のフロントランナーになることこそ、これからの日本社会にひかりをもたらすものではないかと思えてならない。


「負けること勝つこと(110)」 浅田 和幸

「問われている絵画(145)-絵画への接近65-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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