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第155号

2022年7月13日

「負けること勝つこと(111)」 浅田 和幸

 

 

 日本の円安が止まりません。岸田総理は、ウクライナでの戦争の影響であることを強調していますが、現実は、アメリカのFRB(連邦準備制度理事会)がアメリカ国内のインフレ対策のために矢継ぎ早に実施している政策金利の引き上げにより、日米間における金利の格差が拡大し、円を売ってドルを買うという動きによるものであることは、報道等を通じて広く日本国民に知らされています。

 しかし、アベノミクスを推進して来た日銀の黒田総裁は、国民の間に、物価上昇のコンセンサスが出来ており、急激な物価上昇を許容しているなどといった無責任な発言をし、日銀総裁の発言としては異例である発言の撤回へと追い込まれました。そして、日米間の金利差を縮めるための日本側の利上げを検討することは、現在のところ無いというのが基本政策のようです。

 確かに、コロナ禍がありながら、急速に経済が回復し、更には、ウクライナでの戦争により、アメリカの軍需産業では、武器が大量に生産され、経済的活況がインフレを増長しているアメリカとは異なり、経済的回復も儘ならず、その上、資源が乏しい日本にあっては、資源コストの急激な上昇とそれにプラスする形での円安は、単に、金利を上げるだけでは解決できない問題があることを、わたしたちの前に晒しています。

 ところが、岸田総理を始めとして、現在の政権与党である自民党も公明党も、問題の根本を解決しようという努力より、その場限りの政策を打ち出し、なにかやっているように見せかけることで、7月の参議院選挙をやり過ごそうとしています。

 それでは、参議院選挙が終わり、政権与党が安定的過半数を獲得できたなら、これまでとは違って、根本的な問題と真摯に向き合い、これからの日本社会の発展に寄与して行こうと覚悟しているのかと問えば、多分、答えは「NО」であるようにわたしには推測できます。

 ここでわたしが提示している日本の根本的問題とはなんでしょうか?それは、大多数の日本人が、ぼんやりと感じていながら、それでも心のどこかで認めたくない現実です。それは日本の国力が衰退しているという現実です。

 どうでしょうか?多分、これを読んでいただいている皆さんも、薄っすらとは感じていることではないでしょうか。30年前、ソ連が崩壊し、冷戦構造が消滅した時点での世界の中での日本の国力と、現在の日本の国力と比較してみれば、明らかに現在の国力が衰退し、弱体化したという不都合な現実が目の前にあるのです。

 ところが、政権与党である自民党も公明党も、この不都合な現実を認めようとはしません。更に言えば、それを認めたくない日本国民が、政権与党を支持し、選挙において、自民党と公明党に投票して来たのではなかったでしょうか。

 さて、戦後の日本の歴史を振り返ってみると、敗戦により徹底的に破壊された産業の復活に取って、朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争が1つの分岐点あったように思います。この戦争により、日本経済は漸く敗戦からの衝撃より立ち直り、自立に向けた歩みを始めましたが、まだまだ当時の西欧先進国には程遠いレベルでした。

 それ故、わたしが小学生だった60年代、日本では外国製品が国産品よりも高級であり、そういった製品に、追いつき追い越せというのが、一般的な国民の意識でした。舶来品を有難がるという、明治維新以来の価値観が厳然として根付いていました。

 それが、高度経済成長を果たし、日本製品の質的向上も図られ、国際的競争力も付いていった80年代においても、まだ、そういった意識は国民の中に残っており、日本製品を徒に誇示するといった価値観は少数派でした。

 ところが、ここ10年余り以前から、マスコミ等を通して、日本製品やサービスがいかに優れており、国際的評価も高く、諸外国から羨望の眼差しで見られることが増えているといった言説が多くなり、それをあからさまに誇示するような内容のテレビ番組が目立ってきました。

 勿論、日本製品は、以前に比べて良質なものとなり、国際的にも認められるような国際競争力を付けてきたことは間違えのない事実ですが、一方で、かつて国際的に優位に立っていた製品が、必ずしも同様の評価を得ておらず、市場占有率が低下して来た製品も増えているという事実を伝えていない現実もあるのです。

 例えば、現在、世界各国で争奪戦となっている半導体。この製品の日本の市場占有率は、この20年でどんどん低下し、かつては世界で⒊本指に数えられていたものが、台湾、韓国、中国といった東アジアの国々にその地位を奪われ、その結果、国内での自動車を始めとする製品の生産が阻害されるような事態に陥っています。

 ところが、テレビではそういった現実を伝えようとはせず、かつての栄光のみを伝えることで、現在の日本が置かれている状況について曖昧にぼかして伝えることに終始し、日本人の自尊心をくすぐる番組を制作しています。

 その結果、わたしたち日本人は、失われた栄光を現在も存在するものと誤解し、一向に、不都合な現実と向き合おうとはしない態度を取り続けることになっています。

 勿論、人間は厳しい現実を見ないで、美しいファンタジーに、その身を委ねたいという欲求があるので、一概に、こういった日本人の態度が非難されるわけではありません。

 しかし、次第にメッキが剥がされ、ささくれ立った現実と向き合わざるを得ないところまで追い込まれていながら、向き合うことを拒絶し、逃げ続けることの限界が近づいて来たというのが、現在ではないのでしょうか?

 今の日本は、経済成長も頭打ちになり、膨大な借金を抱え、少子高齢化が急速に進行していく中で、一部の富裕層を除いて、大多数の国民の生活が、経済的に厳しくなっていると判断されても仕方のないような状況にあります。

 前に書きましたが、アメリカのインフレは上昇スピードも速く、その伸び率も大きいものですが、それに対応して、労働者の賃金の上昇率も大きく、インフレによる物価高への不満はありながらも、生活が立ち行かなくなるような人々が増大中であるとは言えない環境にあります。

 一方、日本でもインフレは進んでいますが、卸売価格をそのまま小売価格に乗せてしまえば、賃金が上昇していない日本では、買い控えといった現象が急激に進行するといった恐れから、そのまま価格を上昇させず、商品の量を減らす、パッケージや包装を減らすといった手段により、なんとか客の購買力を維持してもらおうという努力が行われているのです。

 実際、卸売物価や生産者物価の上昇率に小売物価が連動するようなことがあれば、買い控えは国民全般に拡大し、その結果、中小企業等での倒産が増大し、社会不安を引き起こす可能性があるのです。それ程、日本の各所帯の収入は上がっておらず、可処分所得の減少が、消費の減少へと繋がる負のスパイラルが働いているのです。

 日本の国民所得の世界ランキングの推移を表すグラフを見ると、わたしが大学に入学した70年辺りから後進国を脱して先進国入りするように上昇を始め、そこから25年近くかけて、世界の中でもトップクラスの所得を得るところまで上り詰め、その後はゆるやかに下落が進み、丁度25年近くをかけて、70年頃のランキングへと戻っていることが分かります。

 更に、ここ20年余りの先進各国での賃金の上昇についてのグラフを見ると、アメリカを始めドイツ、イギリス、中国、韓国といったほとんどの国が、大きく賃金が上昇している一方、日本だけはほぼ横ばいといった状態が続き、これまで日本が優位だと下に見て来た韓国にすら抜き去られるといった状態です。

 ところが、政権与党である自民党・公明党も、野党である立憲民主党なども、こういった不都合な事実を明らかにして、これからの日本をどのような国として進めていけば良いのかといった議論を行うより、過去の栄光を身に纏い、古臭い価値観や時代遅れの産業を淘汰することなく、ぬるま湯のような日常の中に国民を浸し、体裁の良い言葉とお題目だけを唱えるといった姿勢に終始しています。

 ただ、コロナ禍前までは、こういった矛盾も国民にはあからさまに目に触れることもなく、政治家たちの甘言や嘘に騙されることを多くの人々は慣れ親しんでいましたが、世界的なパンデミックを境にして、日本社会の亀裂と弱点が一挙に浮かび上がって来たのでした。そして、コロナ禍がワクチンにより沈静化して来たこの冬、ロシアによるウクライナ侵攻により、最早、無視することが出来ぬほど、大きな根本的問題としてわたしたちの前に出現することになったのでした。

 「最早、日本は先進国ではない」というのが、わたしが訴えたい現実です。多くの日本人は、高度経済成長の果実として、日本は先進国の仲間入りをし、国際的にも重要な国として認められていると信じています。

 しかし、冷めた目で現実を眺めた時に、実は、数年前から日本は、先進国から後進国へと地位がずり落ちてしまったことを認めざるを得ない状況にあったのです。

 1つの例として、「コロナワクチン」の開発についてです。この世界的パンデミックが起きた時に、日本の政府を始めとして、大学や研究機関では一斉に「ワクチン開発」が叫ばれました。

 科学的分野でノーベル賞受賞者を輩出している唯一のアジアの国として、世界の医学界をリードしている国として、「ワクチン開発」こそ、日本の科学力の底力を発揮できるものと、官民こぞって期待したものでした。

 しかし、現実はどうだったでしょうか。残念ながら、日本の大学も研究機関も製薬メーカーも、ワクチンを開発することには成功しませんでした。(現在、遅れてワクチンの承認申請を行っている日本の製薬メーカーはありますが、まだ、実用化され、わたしたちが接種するところにまでは至っていません。)

 その結果、日本国民は、アメリカ製、イギリス製、ドイツ製といった外国のワクチンを輸入し、接種することで、コロナ禍を鎮静化することとなりました。ただ、輸入品であったため、日本への供給は、アメリカやヨーロッパ諸国からは遅れ、調達の拙さに、政府は大いに批判を浴びたのでした。

 東アジアでは、中国がワクチンの国産化に成功し、かの国では輸入に頼らず、自国のワクチン接種を実現しました。勿論、ワクチンとしての効力については、他の国のワクチンよりも劣る部分はあるようですが、こういった緊急事態に果敢に取り組み、開発を成功させているという点は、きちんと評価すべきかと思います。

 いずれにせよ、日本はワクチン開発競争に敗北したことだけは事実なのです。わたしは、このパンデミックが始まった当時に、日本でワクチン開発に着手した科学者を取材した番組を、今でも鮮やかに覚えています。

 その番組の中で、科学者は、ワクチン開発には3年ぐらいの時間がかかるのではないかと答えていました。ところが、実際には、この番組が放映された1年後にはワクチンは完成され、接種が始まっていたのでした。

 この話題を出して来たのは、日本の科学者が劣っていることを伝えたいというのではありません。そうではなく、大量の資金と優秀な人材を投入し、短期間で成果を上げるために、官民一体となって働いた欧米諸国のような体制を組めなかった日本社会の問題をクローズアップさせたかったからです。

 はっきり言って、日本の科学者が無能と言うのではなく、こういうパンデミックが起きた際に、社会としてどう対応していけば良いのかというシナリオを持っているのか、全く持っていないのかという社会構造の問題に、わたしたち日本人が気づかないことには、多分、これからも同じことが繰り返されるのではないかと危惧しています。

 2つ目の例として上げたいのは少子化問題です。これも、わたしの記憶が正しければ、20年以上も前から、喫緊の課題であると叫ばれてきました。

 ところが、政府を始めとして、日本国内においては、有効な対策を打てず、手を拱いている内に、とうとう出生数が80万人を切って来るような段階へと至ったのでした。

 昨年、2021年の出生数は81万人余り。2016年に出生数が100万人を切り、98万人弱になってから、わずか5年間で17万人もの減少が進行してしまったのでした。

 この数字が衝撃的であったのは、国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」(2017年)では、2025年に出生数が85万人、2035年に80万人を割り込み70万人台に落ち込むと予測していたものが、その予測を遥かに超えるスピードで、出生数が減少しており、今後も予想以上のペースで出生数が減少していく事が現実の数字として明らかになったからです。 

 多分、この出生数の減少が早まったのは、コロナ禍の影響によるところが大きいとは思いますが、まだ、現在時点で、パンデミックが根本的に解決していない以上、今年の出生数が劇的に回復するというシナリオを想定することは難しいと思います。

 この少子化の恐ろしい所は、この減少した数字が、直ぐに社会に悪い影響を与えるとか、社会生活にマイナスを及ぼすものではないという所です。多分、ほとんどの日本人は、この数字を新聞等で知り、随分子どもが少なくなったなという感想を持つ程度で、この数字が、将来の日本社会に与える衝撃を想像できた人たちは少数だったことと思います。

 そうなのです。少子化問題が深刻なのは、今現在に及ぼす影響では無く、将来に及ぼす影響が全てであるため、自分事としてなかなか受け止めることが出来ないという点なのです。

 現在の政治家を始め各省庁の役人たちが、この少子化の問題を前にして極めて動きが鈍いのも、これを解決するために努力しても、政治家は選挙で票にはならず、役人たちも出世等に関わりがないということです。

 多分、誰かがいつかやってくれるだろうと考えながら無策のまま20年以上の歳月が流れていきました。しかし、この少子化の急速な進行は、日本の国力を将来に渡り弱体化して行くことを隠すことが出来ない事実としてわたしたちに示しているのです。

 現在、ウクライナでの戦争で、日本の防衛費を倍増するといった勇ましい案が出ていますが、現状でも自衛隊の定員は定員割れを起こしており、今後の少子化により、益々、若い人たちの数が減少していく中で、一体どれだけの国民が国を守る自衛隊員として活動できるのでしょうか?

 実際、過疎化が激しい地域では、消防職員、警察職員といった、人々の安全を守る仕事に携わる若い人たちを確保できず、定員割れを起こしている地域が生まれつつあります。

 AI化、デジタル化といったように、新しい技術を応用して、人間の仕事の補助をする仕組みが出来てきていますが、こういった生活の安全を守るシステムを維持していくためには、若い人材は欠かせないのです。

 それを担う若い世代が急速に減少していくことを回避できない状況に立ち至っているにも関わらず、依然として行政では、人口増が前提のまちづくりや政策が立案されています。しかし、そういった計画が、早晩、破綻を来すことは誰の目にも明らかに思えます。

 1つの例として、わたしが住んでいる石川県、その中でも過疎化が激しい能登地区の首長選挙で、候補者は、ここ20年余り、一貫して人口増と働く場所の確保を公約に掲げてきました。

 それは、勝者だけでなく、敗者も同様に判で押したように公約として掲げてきました。しかし、現実は、人口減を止めることは出来ないばかりか、若い世代の流失が相次ぎ、小学校、中学校、高校と、次から次へと廃校と統合を繰り返し、ついには廃校のみで統合すら出来ない状態に追い込まれています。

 ところが、こういう厳しい現実を前にしながら、相変わらず公約は変更していません。正直なところ、出来ない公約を掲げて、選挙民の前で演説する虚しさを想像した時、なにか悲哀に満ちたものすら感じてしまいます。

 今年も、これまでにいくつかの市町村で首長選挙が実施され、新しい門出を迎えていますが、多分、公約が実現することなど皆無であり、4年後には、更なる人口減少を前にして、同じ公約を繰り返すであろうことは、今からでも十分想像がつきます。

 こうやって、過疎地域から住民が居なくなると、今度は準過疎地域が過疎地域に編入され、地方での人口減少は、やがて都会へと進行していくというのが、日本社会の将来的展望であるのではないでしょうか。

 日本経済は、30年以上も前から、輸出型の経済ではなく、内需型の経済構造へと変化しており、内需経済が縮小して行けば、日本経済も縮小していくという現実がある以上、この出生数の減少と人口減は、日本経済の活力を奪い取る元凶として、なんとしても対処しなくてはならぬ問題です。そういった重大な問題にも関わらず、掛け声だけで、有効な手段を討てぬままジリジリと下降線を辿っているのが現状です。

 どうでしょうか?そろそろわたしたちはかつて抱いていた妄想のような日本像を客観的に見つめ直し、虚飾を全て取っ払って、冷徹な目で分析する必要があるのではないでしょうか。

 岸田総理は、「新しい資本主義」とネーミングし、銀行預金から投資を選択するように働きかけ、日本の高齢者が死蔵している預金等を、金融市場へと放出させようとしています。

 でも、投資を呼びかけるなら、日本国内の企業の中で、今後、20年先まで成長が保証されるような新しい企業がどれほどあるというのでしょうか?古い大企業、効率の悪い中小企業、成長の止まった分野にしがみついている企業。こんな日本の企業に、本気で投資をする投資家がいるのでしょうか?

 「資本主義経済」は、古い、新しいに関わらず、目的とすることはただ一つです。それは、「儲けること」。これが唯一の目的です。だから、儲からないものには見向きもしないし、投資することなど絶対にないのです。

 かつて、日本が高度経済成長により、経済発展していた時代、わたしたちの生活は、毎年のように新しい製品で便利に豊かになっていました。そして、それを購入するための賃金は、毎年のように上がっていたのでした。

 池田内閣の提唱した「所得倍増計画」は、10年などといった歳月を待たず実現され、わたしたちは所得の拡大が生活の豊かさに直結していることを肌感覚で実感出来たのでした。

 残念なことに、現在はそれと真逆なことを実感しています。所得が上がらないため、生活防衛や将来不安のために、出来るだけ消費を控えるということです。その結果、経済は沈滞し、更に可処分所得が低下し、それに連れて消費を控えるマイナスのスパイラルが作動しているのです。

 そこで、わたしたちはもう一度原点に戻る必要があると思います。幻想や妄想を捨てて、現実を直視し、日本社会が、かつてのような成長が、最早、期待できない社会であることを認めるのです。

 勿論、これを認めたからと言って、経済活動を止め、貧しくなれば良いなどとは言っていません。そうではなく、価値観を変えるのです。かつてのような人口が増大し、経済が拡大して行くことにより、ひとり一人の分配を増やすという方法ではなく、ひとり一人に必要な富の分配を平等に実施し、日々の生活の不安、将来への不安を解消することで、安定した社会を築いていくというやり方です。

 ただ、この方法を選択するには、まず、日本社会が衰退期に入り、かつての国力を取り戻すことが困難であることを認めることから始めなくてはなりません。ところが、岸田内閣もそれを認めようとはしていません。相変わらず、成長を絶対視し、その価値観に基づいての政策を止めようとはしていません。

 さて、ここまで読んできていただいて、皆様はあることに気づかれたのではないでしょうか?それは、わたしが提示したこれからの社会を実現するためには、歴史の中で一度否定された社会主義的経済の方法が必要になって来るということです。

 ソ連が崩壊し、東西冷戦構造も崩壊した際に、それまで世界を二分していた資本主義経済と社会主義経済の内の社会主義経済の敗北が決定されました。その結果、それ以降の世界は、資本主義経済が正しい経済システムであると認知されたのでした。

 そして、中国の様に政治的には中国共産党による独裁体制を維持しながら、経済的には資本主義経済=市場経済を導入するといったキメラ的存在が誕生することとなりました。それが、現在の中国の国力の強大化へと結びついている以上、資本主義経済の優位性を疑う人は余程の変人と思われています。

 ただ、21世紀に入り、新自由主義が各国で経済格差を増大していく中、資本主義経済=自由主義経済の本家本元と考えられていたアメリカ国内の若い世代が、資本主義経済ではなく社会主義経済を求めて、それを主張する候補への投票行動が話題になっています。

 東西冷戦時代、「赤狩り」と称して、徹底的に社会主義者や共産主義者を排除して来たアメリカ国内で、再び、社会主義に光が当てられるとは、正直なところ、わたしは想像もしていませんでした。

 しかし、逆に言えば、資本主義の矛盾が苛烈になり、階級間の闘争が激化する中で、社会主義革命が起きると考えていたマルクスの理論が正しいとすれば、現在のアメリカで起きている若い世代の社会主義への共感は、決して的外れな行動ではないということです。

 そういう意味で、現在の経済的格差が激しく、貧富の差による社会的な対立が激化している時代において、もう一度、かつて歴史的には否定された社会主義経済の復活ということも、十分に視野に入れる必要があると思います。

 例えば、フランスでルペン氏が党首の極右政党が、選挙で一定程度の支持を得る背景にも、現在の支配者層では、自分たちの暮らしを改善してもらえない、反移民で差別主義者であっても、彼らなら解決してくれるのではないかという期待が底流にあると、わたしは分析しています。

 同様なことは、日本国内においても、自己責任や自助努力を強調し、弱者をサポートするより、社会活動の合理性や効率性を主張する日本維新の会が、若い世代、中年世代の支持を集めているという心性に、上記のフランス国民と近いものがあるように、わたしは推測しています。そういう意味で、もう一度社会主義経済について考えて見たいと思います。(続く)


「問われている絵画(146)-絵画への接近66-」 薗部 雄作

「自然と人間」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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