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第155号

2022年7月13日

「自然と人間」 深瀬 久敬

 

1.自然と人間との隔絶の歴史

 

・自然からの離脱 フェーズ1

 人間以外の動物たちの生き方を見ていると、かれらは自然界のなかにどっぷりと漬かり、弱肉強食やそれぞれのもっている生存戦略のもとで、生態系のバランスのなかで生存し続けているように思える。一方、私たち人類は、数百万年まえから道具や火や言葉などを通して、少しずつ自然そのものとは距離を置く存在へと変化していったのではないだろうか。そして、私たちホモサピエンスがおよそ一万年前から農耕という営みを開始したことによって、他の生き物とは一線を画すほどの自然界との乖離を実現させたのだと思う。農耕は、様々な自然条件の影響を受けるものではあるが、身分制度にみられるようなそれぞれの役割に応じた労働によって、食糧生産を安定して維持継続することを可能にした。
 そうした体制を維持していくために、自分たちのアイデンティティーの基盤となる神話や宗教に立脚した権威を共有する仕組みを作り上げ、武力や刑罰の活用も含めて、その体制の維持強化が図られた。
 そして、こうした農耕社会の生産性は、土地という制約のもとで、決して飛躍的に増大することはなかったし、また、一人ひとりが自分の頭で考えるということは社会の秩序を乱すものとして抑圧の対象でもあった。そして、こうした権威のもとでの統治は、ローマ帝国や中華帝国といった広大な地域を統治することもできた。

 

・自然からの離脱 フェーズ2

 一定の権威のもとで秩序ある安定した社会を実現していた人類であるが、15世紀ころのヨーロッパにおいて、こうした従来の因習的アイデンティティーを共有する権威主義の統治とは相いれない思想を獲得した人達が現れた。その思想は、私たちをとりまく自然界を、その意味や価値といった側面を無視し、定性的定量的な因果法則として捉える科学をもたらし、そして、個々の人間の存在も権威の規定するアイデンティティーに拘束されるものではないとする近代民主主義をもたらした。
 自然界の現象を因果法則として理解する科学は、自然界に存在する資源を利用して私たちの日常生活を便利に快適にする技術という手段をもたらした。それによって、産業革命、大量生産、大量消費、市場経済といった物質文明に基づく社会の導入がもたらされた。すなわち、自然は、フェーズ1における畏怖や感謝の対象という立場から、収奪、活用される立場に変更されたのであった。これを農耕の獲得による離脱に次ぐ、自然からの第二の離脱とよびたいと思う。
 こうして、食糧生産を機軸にする社会から、自然を資源として活用し、人間社会の便利さや快適さを価値として生産消費することを機軸とする社会に変容することになった。そして、その社会における人間関係は、身分制度のような因習的な役割分担のものから、組織のなかでの機能を各自の能力によって担うという形に変容された。例えば、投資家、企業組織のなかの経営者、製品開発者、営業員、経理員などといった分担である。そして、人々は、物質的な豊さを求めて、企業組織のなかでの機能能力を学習を通して向上させるなど、互いに競争することになった。

 

・自然からの離脱 フェーズ3

 次に、科学と技術の発展は、デジタル技術の飛躍的進歩によって、情報化社会を作り出した。それまでの物質文明を基盤とする社会から価値観が情報に移行したのである。情報のデジタル表現によって、情報の通信、処理、蓄積の改良は日進月歩に進化し、巨大なデジタル空間を作り上げた。ゲーム、クラウド・コンピューティング、情報検索、ビッグデータ、暗号通貨、深層学習、メタバースなどが、この数10年の間に、私たちの世界を急激に変化させつつある。こうした情報のやりとりが価値を生み出す社会への変容は、自然との距離をますます拡大させた。この情報空間は、今まさに新たな進化をとげようとしているところであり、そこでの人間関係や金銭的価値の位置づけなど、今後、どのように変容していくのかまだ明確にはなっていないようである。

 

2.自然と隔絶しつつある人間の課題

 

人類は、上記のように、自然との距離感を段階的に広げてきたが、それは人間社会の在り方にどのような影響をもつものなのか検討してみたい。

 

 第一に、フェーズ2の物質文明に基づく自然の資源の収奪は、地球環境に温暖化、環境汚染、資源の枯渇、絶滅危惧種の顕在化などの深刻な課題をもたらしていることは広く認識されている。このことは人類全体の課題なのであるが、その円滑な対策を妨げていることがある。それは、権威主義社会と近代民主主義社会の根深い対立である。フェーズ2の産業化社会における社会の役割分担や全体の統制を、その以前のフェーズ1の権威主義社会と同様の権威体制が担うという社会が登場したことに起因する。具体的には、中国やロシアのような強権国家、専制国家、独裁国家である。付言すれば、明治維新から和魂洋才を標榜し、太平洋戦争によって完膚なきまでに打ちのめされたかつての大日本帝国もそれにあたると思う。
 権威主義に基づいて物質文明を機軸とする産業社会を築こうとするこうした社会では、科学が一人ひとりの個人の自由な好奇心や疑問が羽ばたいたことによってもたらされたことを無視し、個人の自由な思考や言論を抑圧し、単に物質的豊さのみによって権威の安泰を図ろうとする自己矛盾する体制であることを受け入れようとしない。個人的に、そうした自己矛盾する体制が永続するとは思えない。地球環境問題、科学の倫理的応用、グローバル化の進展など、人類全体として取り組むべき深刻な課題に直面しているなかで、こうした対立が深まっていることは愁うべき状況だと思う。権威主義の統治する社会の人々が、こうした矛盾を少しずつ自覚することによって段階的に近代民主主義の社会に移行していくことを期待したい。

 

 第二に、科学や近代民主主義の獲得によって、自然を収奪する立場に立った人類が、その運営を適切に行っていくための基本的要請は、一人ひとりの人間が自分の頭で自由に思考することである。一人ひとりが自分の頭でこれはどうなっているのかといった素朴な問題意識をもつことである。こうした頭脳の使い方は、身分制度のような権威主義社会では、決して許容されるものではなかった。
 この点について日本の社会の今日の状況を述べておきたい。日本の社会は、戦後、日本国憲法という新たな憲法を戴くことによって、近代民主主義のエッセンスに立脚する社会運営が始められたと思われている。しかし、現実の日本の社会では、同調圧力、タテ社会の人間関係、空気を読む風潮、甘えの構造を許容する風土などが依然としてはびこり、一人ひとりが自分の頭で考えることが阻害されている。こうした風潮は弱まるどころがむしろ強まっている傾向にあり、今後、日本の社会からノーベル賞受賞者はでないのではないかとさえ言われている。セクハラ、パワハラ、自殺なども、一人ひとりが自分の頭で考える姿勢が定着していない社会ではなくならないのだと思う。
 一人ひとりの人間が自分の頭で自由に考えられる社会に速やかに変容することが要請されているが、行政組織や世襲的政治家のなかには、権威主義によって統制することを指向する傾向が根強く残っており、具体的な対策が喫緊の課題になっていると感ずる。
 また、社会不安は、一人ひとりが自分の頭で思考することの阻害要因となることは否定できない。ベーシックインカムや無償の教育制度のような個人に対する社会保障制度とともに、デジタル技術を活用した柔軟な重層的な支援システムの構築が欠かせない。また多様な自由な思考を許容する社会は、開かれた透明な運営を指向するが、そこには闇の部分が現れることは否定できない。こうした意味不明の闇の部分に蓋をすることなく、整理して正面から向き合う体制をしっかりもつことが大切である。さらに付言すれば、社会主義のような国家統制の強い社会は、一歩間違えると権威主義の社会に陥る可能性が高いので、個人的に不適当だと思う。

 

 第三に、人類は農耕の獲得により食糧の安定供給の道を拓き、次いで、科学への目覚めによって、労働の軽減や大量生産、大量消費を可能とし、生存の確実性をより強め、地上で最強の生き物となることができた。そして、科学の発展によって、情報化社会を実現し、人間の生活空間はサイバー空間までにも拡大した。このような人間存在の変革に伴い、人間存在をはじめ、生命の存在や宇宙の存在の意味や価値を問うという命題が人類全体、人間一人ひとりに課せられることになったのだと思う。永遠の自分探しに人類は、食糧生産や日常生活の快適さの追求とともに、宇宙やミクロの世界に探究の眼を向けていくことになるのだと思う。
 おそらくこうした課程にはギフテッドのような特異な才能をもつ個人の登場も要請されるように感ずる。さらに、さきにも述べたが、こうした探究の課程では、様々な想像を絶する闇に遭遇することになると思う。そうした闇に恐れることなく向き合うことが人類に課せられた使命であることにも注意していかなくてはないだろう。


「負けること勝つこと(111)」 浅田 和幸

「問われている絵画(146)-絵画への接近66-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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