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モーリツ・エッシャー 〈騎士〉 1946
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パスカルは『パンセ』のなかで人間のむなしさについてえんえんと書く。人間自体のむなしさについて語るその人間が、人間の顔や姿を描いた作品に対して、それをむなしいというのはしごく当然のように思える。しかし絵画には、たんに人間や物を似せて描くだけがすべてではなく、作品の質や密度などにも写真とはかなり違うものがある。たぶん絵画…画家たち自身もそれを自覚したのであろう。写真の出現以来絵画は大きく変貌してきてはいる。しかし、ただ似せて描くだけが絵画の目的であるのなら、今日のように写真…映像の氾濫している状況のなかでは、絵画はとうになくなっているであろう。
前回はパスカルに関連して幾何学的抽象絵画にふれたのであったが、しかし、数学と美術の関連は、たんに幾何学的な抽象絵画だけではないのであった。マイケル・ホルトという人に『芸術における数学』(一九七六年 紀伊国屋書店)という著書があり、そのなかで様々な絵画作品を数学との関連で語っている。彼は「本書は数学や芸術を専門的に説明するものではないが、数学と視覚芸術に共通していると思われるところに焦点を当てたのである」といい「視覚芸術は目で観賞し、感情で反応するものであるが、数学は頭脳と知性で対応するものである」そして「数学と芸術の結びつきは、一つの共通する文化という概念のなかに存在するものであろう」と。「どちらも自己矛盾のない構造を具体的に表現する」。そのことは「ポール・ヴァレリイがその基本文法を見出だそうとした視覚芸術においても言える」し、また「自然は一つの辞書である、といったシャルル・ボードレールは芸術家の仕事は自然が提供する<単語>を並べるだけである」といっている。そして「スーラーによる視覚のシンタックスの探求は、芸術家が構造に没頭したもっとも良い例である」「スーラーは次のように書いている<芸術は調和>である」と。「調和は色調や色彩や線などの対立と並立の類比であり、そして数学者もまた、同等と差異と順序の関係や、点、線、平面、空間などに関心をもっている」。しかし「数学者は感情、すなわち情緒的な性質には無関心であり」さらに「数学は圧倒的に論理的なゲーム」であり「命題や定理にだけ適用できるものである」。「その意味では絵画は命題ではない。表題については真だとか偽だとかがあり得ても、絵そのものについては決してそういうことにはならない」「ここに数学と芸術の間の大きな相違が見出せる」。しかしまた「数学と芸術の共通のきずなは構造の探求である」と。この著書のなかにも数学との関連でいくつかの絵画…モンドリアンやヴァザレリなどや、さらにナウム・ガボの抽象的な立体構造…弦を張りめぐらした複雑な立体構造の作品「キネティックな構成No1」も掲載されている。わたしはガボの作品は知ってはいたが、数学との関連で語られているのは初めてで、あらためて注目させられた。
またエッシャーの作品についてもふれ「エッシャーは対称性の主題について最終的な意見をはいたともいえる」といっている。そしてエッシヤーの『騎士』という作品にふれながら「対称性の原理と同形の図形で空間を埋めつくす切りはめ細工の原理に頼っているだけではなく、位相数学の未解決の問題である四色の地図の問題の提起者によって考案された有名なメビウスの帯の特徴をもみごとに具象化している」と。そしてエッシヤーの自身の次のような言葉を紹介する。「対称性はこれまでに私の心を打ったもっとも豊かな霊感の泉であり、決して涸れることはなかった」。また「バッハが対位法の芸術を研究しつくしたように、エッシャーは対称性に主題にたいして最終的な意見をはいたともいえる」「エッシャーの<騎士>は対称性の原理と同形の図形で空間を埋めつくす切りはめ細工の原理に頼っているだけではなく、位相幾何学の未解決の問題であるメビウスの帯の特徴をもみごとに具象化している」。そしてエッシャー自身の次のような言葉をあげる。「対称性はこれまでに私の心を打ったもっとも豊かな泉であり、決して涸れることはなかった」と。
モーリツ・エッシャーの作品はたいへんユニークなので、見ていると何とも不可思議な気持ちになってくる。一見わかりやく、具象的に描かれた作品であるのだが、よく見ると、そこには現実世界ではありえないような…二次元と三次元が一枚の紙の上に、入り組んで展開されている光景が、しかも整然と描き込まれている。それが見る者に、なんとも不思議な気持ちを抱かせ、ついくり返し眺めてしまうのだ。

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ナウム・ガボ 〈キネティックな構成No1〉 1921
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