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第156号

2022年10月12日

「負けること勝つこと(112)」 浅田 和幸

 

 

 前回お約束しましたように、今回は「社会主義経済」について書いていきたいと思います。それにあたって、まず確認しておきたいことがあります。これをお読みの方たちは、「社会主義経済」と聞くと、かつての旧ソ連や中華人民共和国の経済体制を思い浮かべられるのではないでしょうか。

 それは、政治体制が社会主義を標榜している国の経済を社会主義経済と定義するという考え方が、常識の様に思われてきたことによります。しかし、わたしはまずこのみなさんの常識を破棄したいと考えています。

 つまり、旧ソ連やト小平登場以前の中華人民共和国の経済を社会主義経済と呼ばないという前提で、これから議論を進めて行きたいと考えているのです。

 それでは、社会主義経済でなかったのなら、なんと表現すれば良いのかと言うと、わたしは、これを「計画経済」と定義したいと考えています。そして、それと対立していたアメリカや日本の経済を、資本主義経済ではなく、「市場経済」と定義することで、この二つの経済が対立していた時代を、東西冷戦時代と名付けたいと思います。

 正直なところ、わたしを含め、当時の人たちは、大きな誤解をしていたと考えています。ロシア革命により、レーニン指導でのソビエト連邦が誕生した際、レーニンは思想的には、マルクスなどの社会主義政治思想の影響を受けており、更には、自らの革命について資本主義を打倒する社会主義革命と標榜したことで、ロシア革命を社会主義革命とみなしました。

 しかし、現実は、ロマノフ王朝と言う王朝を倒しただけで、当時のロシアの国内状況を客観的に眺めて見れば、中世からの「農奴制」も色濃く残っており、一部分は資本家による近代資本主義生産体制もあったでしょうが、実態は旧態依然とした産業後進国でした。

 マルクスは、その著書の中で、将来訪れるであろう、社会主義革命は、産業資本主義が究極まで肥大化し、労働者の生存権がぎりぎりまで追い詰められたイギリスのような資本主義先進国に、起きるであろうことを予測していました。

 ところが、二十世紀に至り、ロシア革命を皮切りに、社会主義革命が起きたのは、ロシアや中国の様に、最も、資本主義経済が遅れ、膨大な農民を抱えた後進国だったのです。

 つまり、マルクスが目指した社会主義革命は、資本主義経済の矛盾が社会構造を破壊する程の苛烈になった後に、訪れる新しい経済システムであり、ロマノフ王朝が支配するロシアや清朝が滅びた後に混乱が生じている中国では起き得ないものだったとわたしは考えています。

 そこで、わたしは、政治体制とは別に、経済体制として、「計画経済」と「市場経済」の対立という視点で、もう一度東西冷戦を眺めて見ると、これまで見えてこなかったものが見えてくるのでは思い、そちらからのアプローチを試みました。

 それでは、「計画経済」と「市場経済」の違いとはなんでしょうか?「市場経済」については、現在の日本社会が、「市場経済」でありますので、非常に分かりやすいと思います。

 これは、「市場」が全てを決定するということです。例えば、あるお菓子製造メーカが、新たに開発したお菓子を売り出しました。その時、その新しいお菓子が、消費者のニーズに合致すれば、多くの消費者が購入することとなります。

 それにより、この新しいお菓子は生産を持続することが可能となるわけですが、もし、この製品が、消費者のニーズに合致せず、購入する人が少なかったなら、やがて、売れないということで、商品の製造を中止せざるを得なくなります。

 これを、わたしたちは、この商品が「市場から退場した」という表現を使うこととなります。つまり、経済活動において、それが持続できるか出来ないかを判断するのは、「市場」であるというのが、「市場経済」ということになります。

 それでは、「計画経済」とは、どういうものでしょうか。これは、消費者のニーズを国が判断し、その国が指示した通りに、生産を行い、そこで生まれた製品を、国民に配布していくシステムです。

 例えば、国民がお腹を空かせているから、パンを国民1人あて、1日に3個配布すると、国が決定すれば、国民の総数に3を掛けた数を生産するようにパン工場へ命令し、命令されたパン工場は、その指示の通り生産し、国民に配布するというわけです。

 この生産を計画的に実施していくためには、国としては、どれだけの小麦粉を用意し、パン工場にどれだけの労働力を提供させるかといった細々とした計画を立案していくことになります。

 こういった国が立案した計画に基づいて、経済を運営していくというものを、わたしは「計画経済」と考えています。実は、この生産における計画立案は、「市場経済」を構成している各企業においても実施されているものです。

 ただ、この計画立案には、国家として特別な場合を除いては、干渉しないということで成立しています。この特別な場合は、国内での大規模災害、対外軍事戦争といった場合に、ほぼ限定されており、それ以外では、各企業に任せられています。

 ところが、旧ソ連や中華人民共和国で実施された「計画経済」は、国が全てを管理し、その命令に従い、各企業は生産を遂行することになっていました。だから、それを「私企業」ではなく「国営企業」と呼び、国が経営の母体となっていたのでした。

 旧ソ連が崩壊した際、このソ連の国営企業も崩壊し、それによる経済的損失は、現在に至るまでロシア国内に影を落としているようですが、中国には、現在も国営企業が存在しており、その国営企業の非効率性が、中国経済の足を引っ張っているなどと批判されているようです。

 いずれにしても、国あるいは政府が生産計画を立案し、それに従って生産が行われるため、個々の国民のニーズとの間に、齟齬が生じてくることは、理解できるかと思います。

 ロシアにしても、中国にしても、革命が成功した当時は、国民の大部分は貧しく、今日の食事も事欠くような状況であったことは、記録などにも残っています。

 その飢えた人々の腹を満たし、餓死から救い出すことが、革命初期においては重要な案件でした。これは、社会主義革命などというイデオロギーとは関係なく、十八世紀のフランス革命でも実証されています。

 革命を起こしたパリ市民は、毎日の食事に事欠くような状態に追い詰められ、その結果、武装蜂起をすることで、フランス革命が起きたのでした。彼らにとっては、思想より食事が何よりも重要だったのです。

 それは、旧ソ連も中国でも同様でした。国民にとっては、どんな政府でも、腹を空かせた自分たちに、食事を与えてくれる政府を支持するというのは、これまでの歴史が証明しています。

 さて、革命当初は、こういった切実なる生理的欲求を満たすためには、「計画経済」というシステムが効率的であり有効でした。少なくとも、国民の食卓にパンが届けられ、飢えから解放されることになったわけです。

 しかし、パンが国民に行き渡り、当面、餓死の心配から解放され始めると、人々は様々な欲望を持ち始めるのです。例えば、もっとおいしいパンを食べたい、もっと量のあるパンを食べたいといった要求が出てくるのです。

 これが、「市場経済」の社会であったなら、各企業がそれぞれ消費者のニーズを商品化することで、人々の多様な欲求に応えることが可能になるわけですが、「計画経済」では、そんな風には簡単に方針転換はできません。

 国が一度定めた計画を、消費者の要求に従い、その都度その都度、変化させていくといった仕組みにはなっていないのです。与えられた小麦粉とレシピを忠実に守り、求められた数量を生産していく事が、この「計画経済」を成立させるルールだからです。

 その結果、様々な要求を抱いた人々は、不満を抱えたまま、毎日同じ味の同じ大きさのパンを食べることになるのでした。そして、これは、食事に限らず、衣服、日用品、といった生活のすべての分野において、同じことが起きることになりました。

 更に、問題は、政府が計画し製造した商品を必要としない人たちが生まれて来たということです。例えば、二年に一度、長靴を国民に配布していくという計画の下で、長靴が製造され、配布されたとします。この時、長靴を必要としている人には有難い計画ですが、長靴ではなく短靴を必要としている人にとっては、要らないものになります。

 これは、無料での配布だけではなく、お金を支払って購入する際にも、靴店に行っても、長靴ばかりが並んでいて、自分が必要とする短靴を購入できないことも出てくるのです。

 あくまでも、国や政府は、最大多数の人々のニーズを推し量り計画するだけで、1人1人のニーズに合わせて、計画することなど絶対に不可能である以上、こういった無駄が膨大に生じてくるのです。

 また、国営企業が独占的に商品を製造することで、競争の原理が働かず、消費者が求めている商品を提供することより、国や政府から命令された通りに生産していることが重視される結果、商品の品質向上は、常に後回しにされるようになったのでした。

 これでは、飢えから解放された国民が増えていくにつれ、「計画経済」は、次第に袋小路に入っていく事になりました。計画して製造しても、それを購入する国民が居ない。膨大なロスが生じ、企業経営としては赤字で、「市場経済」なら、倒産するはずの企業が生き残っていくというゾンビ経済が、維持されていく事になります。

 当然、自国民が購入しないレベルの商品は、国際的競争力も持つことはなく、自国でも、他国でも売れない商品が粗製乱造され、国の経済発展が阻害されることとなりました。

 また、この「計画経済」は、産業だけでなく、自然や天候によって大きく影響を受ける農業にまで用いられる事になりました。その結果、中華人民共和国では、六十年代に、天候不順による大飢饉が起こり、数千万人の人々が餓死するという大惨事が起きています。(同様に旧ソ連でも、スターリン時代に同様な大飢饉が起き、数千万人が餓死したという記録もあります。)

 考えて見れば、国や政府が、地球環境をコントロールするといったことなど、荒唐無稽であるにも関わらず、傲慢にも、それが可能であると考えた官僚たちの大失敗に、多くの国民が犠牲になったということだと思います。

 このように、「計画経済」はそれの計画を立案する人間が、自らの無謬性に固執すればするほど、悲惨な結果を招くことになる施策であると断言しても良いように思います。そして、それが東西冷戦を終わらせる旧ソ連の崩壊に繋がったのでした。

 だから、あの旧ソ連崩壊の際に、わたしたちは「社会主義経済より資本主義経済の方が正しかった。だから、最早、社会主義経済は無価値である」と考えるのではなく、「市場経済が計画経済に勝利した。矢張り、市場経済の方が、人々のニーズに適している合理的な経済システムである。」と考えるべきだったと思っています。

 しかし、残念ながら、旧ソ連の崩壊と、それ以降に続く、東ヨーロッパ諸国の政治的変化は、社会主義ではなく資本主義の優位性を全世界の人々に認知させたのでした。更に、中華人民共和国では、中国共産党一党独裁を堅持しつつ、経済だけ「市場経済」に移行するという、新たな社会実験に取り組むことになりました。

 そして、その後、中華人民共和国は、二十世紀初頭にヨーロッパの人々が揶揄した「眠れる獅子」から敢然と脱皮し、世界第二位の経済大国へと上昇していく事で、益々、資本主義経済の優位性が証明されることになったのでした。

 ただ、何度も繰り返しますが、旧ソ連の崩壊にしろ、中華人民共和国の経済発展にしろ、その原因は、「計画経済」が「市場経済」に凌駕されたということであり、決して、社会主義経済が資本主義経済に敗北した証明にはならないと言うことです。

 それでは、わたしが考える「社会主義経済」とは、なにを指すのでしょうか。それは、富の公平な分配であり、人権を尊重した社会的規範の二つが実現されている経済です。

 先に、マルクスがその著書の中で、社会主義革命が起きるのは、最も資本主義経済の矛盾が激烈となるイギリスのような産業先進国であると書いていたと述べました。

 ところが、現実の世界では、イギリスやフランスと言った資本主義先進国ではなく、ロシアや中国のような後進国に起きた理由は、マルクスを含め、十九世紀に盛んに活動した社会主義者たちによる、社会改良政策が、先進国での暴力革命を押し止めたのだと、わたしは考えています。

 マルクスの支援者であったエンゲルスは、「空想より科学へ・・社会主義の発展」というパンフレットの中で、マルクス以前の社会主義思想家を、空想家、夢想家などと評し、唯一科学的に正しいのは、マルクスが唱える社会主義であると書いていますが、実は、マルクスの著作より、エンゲルスが空想家、夢想家と名指しした、社会主義者たちの思想の方が、社会に与えた影響は大きかったのでした。

 それにより、労働者の権利を守る、労働時間の短縮や休日の制定、更には、労働者が団結して、使用主と賃金や労働条件を交渉し合う、争議権と言ったものが、法律として認められ、かつてのような奴隷労働的な労働環境は、随分と改善されていったのでした。

 その結果、生産手段を持たず、賃金労働者として働くしかなかった労働者たちにも、1人の人間としての権利が認められ、以前よりは豊かで健康的な生活が保障されるようになると、急速に、過激な労働争議は減少して行き、その結果、暴力による社会主義革命の実現は、遠のくことになっていったのでした。

 わたしが、中学校の社会の時間に習ったイギリスの福祉政策、「揺り籠から墓場まで」というスローガンは、まさに、マルクスが生きていた十九世紀のヨーロッパの社会主義思想家たちが唱えた思想が、二十世紀に入り実現した大きな成果だったということです。

 ところが、東西冷戦に勝利したアメリカを中心とした西側諸国の政治家、資本家、更には大多数の国民は、資本主義経済が、社会主義経済に勝利したという事実でない情報を根拠にして、十九世紀後半から二十世紀中盤まで、営々として築いて来た社会主義経済を、無価値なものとして葬り去り、その代わりに、自己責任と競争原理を中心にした「新自由主義」を世界に拡大して行くことに加担したのでした。

 まず、イギリスは「英国病」と言われ、かつての大英帝国の輝きを失っていると批判され、保守党のサッチャー政権が、国営企業を廃止し、公務員改革を徹底的に行うという「新自由主義」の手法を積極的に取り入れることで、経済の立て直しを図りました。

 確かに、イギリス経済はかつてのどん底状態を脱することに成功しましたが、そのために多くの労働者の生活が犠牲になったことは、「ブラス」といった映画などに描写されており、必ずしも手放しで喜べるものではありませんでした。

 そして、この手法は、わたしたちの日本においても導入されたのです。実は、わたしがこの「地球」の主催者である深瀬様と知り合うきっかけになったのは、旧ソ連が崩壊する一年前の千九百九十年に「政界」という雑誌が「日本国議会開設百年記念」で公募した論文に応募し、賞を頂いたことがきっかけでした。

 その時、わたしが応募した論文の冒頭でこういうことを書いていました。「日本を訪れた外国人が、日本人の生活を眺めての感想として、『世界で唯一社会主義が成功した国が日本だ』」と。

 当時は、まだ旧ソ連が崩壊する以前の東西冷戦の最終段階の時期で、日本社会も、高度経済成長により経済的に豊かになり、日本企業の終身雇用制、年功序列賃金体系が各企業で実施される中、「一億総中流」といった言葉が流布していました。

 確かに、当時の日本企業では、アメリカなどの社長の報酬と社員の報酬の格差を比較すると、比較的穏やかな数字であったため、わたしが論文で書いたように、日本社会の貧富の格差は、世界から見て大きくないという見方も強ち間違いではなかったのでした。

 そして、わたしは、論文の中で、「日本社会は『経済的不平等』は、容認しているが、『社会的不平等』を限りなくゼロに近づけようとしている」とも書きました。

 ただ、こういった先人たちの努力も、戦後の経済成長で新たに生まれた富裕層や支配階層により、次第に固定化しており、それが日本社会のダイナミズムを阻害しつつあることを、人々が認識する中で、新しい一歩を踏み出す必要があると結んでいます。

 しかし、ここへ来て、わたしは自分が書いた論文が評価されたことに少々疑問を抱いています。正直なところ、わたしの論文の内容は、他の方のものに比較してそれ程画期的な提言ではなく、凡庸でかつ浅薄なものだったと反省しています。

ただ、その凡庸で浅薄な論文のどこが評価されたのだろうかと考えた時に、わたしは「日本が世界で唯一社会主義が成功した国である」と書いた部分ではなかったかと想像しています。

 多分、わたしが論文を書いた千九百九十年は、旧ソ連の最後の指導者であったゴルバチョフが、「ペレストロイカ」により、経済的には「計画経済」から「市場経済」への移行に舵を切った時代でした。

 また、イギリスのサッチャーを始めとする「新自由主義」を標榜する西側の政治家たちは、大資本家の意向を受け、それまで二分割されていた世界のマーケットの統一を図り、そのことで新たな市場を作り出そうと画策していました。

つまり、西側諸国の一員であり、当時、世界第二位の経済大国の日本の政治家たちも、政治的には「社会主義」を退場させ、経済的には「計画経済」から「市場経済」へと移行させ、競争が苛烈で、全ての結果が自己責任であるという現在わたしたちが目にしている社会を実現するために、当時の生温い日本社会を否定するキイワードを探していたのかも知れません。

 そこへ、鴨がネギを背負ったようにお誂え向きの「日本は唯一世界で社会主義が成功している国だ」とわたしが書いたことで、そのキイワードに高い評価を与えたのだと想像しています。

 実際、その後に日本社会で生じた現象は、「経済的不平等」の拡大と「社会的平等」を切り崩し、戦後の日本社会が獲得して来た果実を否定するものでした。

 将に、「失われた三十年」という言葉があるように、千九百九十年当時にあった経済的豊かさは、大部分の日本人の手から失われ、かつて、「一億総中流」と言われた階層も、中流と呼ばれた層が下落し、少数の大富豪と大多数の貧困層という社会構成になっています。

 前号で、詳しく紹介した、現在の日本の経済的停滞と貧困層の拡大の始まりが、この旧ソ連崩壊の一年前あたりから、始まっていたのだと改めて自分自身の先見の明の無さに恥じ入っています。

 当時は、自分の書いた論文が評価されたということだけで舞い上がっていましたが、実は、その背後に、「新自由主義」の齎す、社会を分断し、人々の生活を破壊していく恐ろしい毒が仕込まれていたことに気づきませんでした。

 わたしは、自身の論文で、ぬるま湯に浸かった日本社会の制度、例えば、終身雇用制、年功序列賃金体系、正規労働者としての雇用について批判的な論調を展開しましたが、それが誤りだったことをわたしは痛切に感じています。

 勿論、今上げた制度にも問題点はあるわけですが、しかし、豊かな国民生活を維持していくためのロスと考えれば、必ずしも非効率で不合理な制度ではなかったということを実感しています。

 残念なことに、そういった社会を安定させる制度が破壊され、それに代わり、「自己責任」と「無慈悲な競争」に晒され、住む家を失い、食べる者にも事欠くといった貧困状態を生み出してしまったお先棒を担いだのかと暗澹たる気持ちになっています。

 経済学者水野和夫氏の著書「資本主義経済の終焉と歴史の危機」で、資本主義経済が現在に至るまで発展してきたのには、常に、周辺ないし辺境を中心部へと取り込むことで、実現できたという考察があります。

 この視点に立てば、東西冷戦を崩壊させた市場経済は、それまでは計画経済で運営されていた社会主義諸国=辺境を、新たな市場として中心部へ引き入れることで、現在のグローバル経済を実現することが出来ました。

 それまでは、西側諸国の人間にしか販売できなかった商品を、新たに生まれた市場である東側諸国の人々にまで販売できると同時に、そこに眠っていた膨大な安い労働力を手に入れることになったのでした。将に、中国は、それをきっかけに世界の工場となり、現在のGDP世界第二の経済大国へと成長しました。

 この大きな世界史的な動きに、日本の企業も遅れまいと安い労働力を求めて海外進出を果たしたわけですが、その結果、日本国内産業の空洞化が顕著になりました。しかし、自民党政権は、これを世界的な分業体制として歓迎し、経済的な効率化を求め、農業を始めとする第一次産業、繊維や日用雑貨製造の第二次産業を切り捨て、先端技術による自動車産業等へと産業構造のシフトを図りました。

 その結果、安い労働力で製造できる製品の外注化により、それまでその生産に携わって来た労働者が必要で無くなると同時に、自動車産業などでの雇用の安全弁としての期間工や季節工といった非正規労働者へと労働形態を転換していったのでした。

 勿論、こういう産業構造の変化により、古い産業が衰退し、新しい産業へと生まれ変わっていくといったことは、これまでにも何度もありました。戦後では、石炭から石油へとエネルギーの大転換により、石炭産業に従事していた労働者の首切り等の労働争議が社会問題となりました。

 しかし、高度経済成長と言う日本経済を大きく発展させていく経済活動により、解雇された膨大な人々を、新たな職業へと転換させるダイナミズムが働き、逆に、非効率であり、生産性の低い産業が消滅していく事で、より生産性の高い産業構造へと転換できるメリットとして評価されてきました。

 ところが、東西冷戦崩壊後に起きた、新たな国際分業は、日本国内と言う枠を超えて行って、かつてのような新たな産業を生み出すということに結びつかなかったのでした。

更に、専門性が進むことで、それまでの経験値や熟練度が、実際の現場では役に立たず、新たに再教育を行わなければ、労働環境に適応できないということもあり、国際分業化であぶれた労働者たちは、企業にとっての都合の良い安全弁として利用されることになりました。

そして、労働者の派遣に関する法律が、企業にとって都合の良いもの、労働者にとっては都合の悪いものへと改悪されていく中、それまで、日本企業を支えて来た終身雇用制、年功序列賃金体系といったものが、基礎から崩されていく事になりました。

これは、水野先生の理論に立てば、外部に辺境を見出すのではなく、国内に辺境を作り出し、その新たに辺境と化した所から、中心部にとって必要な富を強奪する方法だったように考えます。

高度経済成長前の日本社会には、国内に辺境が多数存在していました。「田舎」「地方」という辺境を利用し、そこに眠る安くて若い労働力を都市部に集中させ、そこで産業を活性化する方式は、千九百五十年代から六十年代にかけて行われた古典的な手法でした。

これにより日本経済は高度経済成長を実現させ、多くの国民が貧困からの脱出を可能にしたのでした。生産性の低い農業に余っていた若い労働力により、戦後の日本経済は奇跡を起こしたわけですが、東西冷戦終結後の千九百九十年代には、「田舎」にも「地方」にも、若く安い労働力は残っていませんでした。そこで考え出されたのが、「非正規労働者」という新たな辺境だったのです。

こういった労働環境の改悪を、本来なら阻止するために作られた労働組合は、高度経済成長により、企業が大きくなり、そこで得た利益を分配ししてもらうための交渉機関になってしまいました。

実際、高度経済成長により、企業の利益が膨らんでいく中、いつのまにか労働組合自体が、経営陣の意向に忖度し、まるで、自分たちも経営者であるかのような倒錯に陥り、本来、労働組合が果たすべき全ての労働者の労働環境を守る役割に関して放棄してしまったのでした。

こういった労働組合の退廃は、かつて、十九世紀において、資本家の徹底した搾取の前に、団結し、戦っていく事で、自分たちの労働環境を改善させ、人間としての権利を勝ち取って来た歴史を、完全に否定するものでありました。

残念ながら、現在もこの流れは継続しており、全国的規模の「連合」の指導部では、自民党にすり寄り、労働運動自身を否定し、崩壊させるといったことを、恥ずかしげもなく表明しています。

わたしは、こういった現在の「新自由主義」に対抗できる唯一の理論と手段が、社会主義経済にあると考えているのです。但し、それは社会主義政党の政治を望むというものではありません。この文章でも述べてきましたように、政治制度と経済制度を一度切り離し、現在、社会が抱えている矛盾を解消するための新たな枠組みを作れないかと言うことです。

そこで、次号では現代社会に求められている社会主義経済について考えて見たいと思います。(続)


「問われている絵画(147)-絵画への接近67-」 薗部 雄作

「近代民主主義社会における人間存在の意味や価値にどう向き合うか」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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