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薗部雄作 錯綜するもの 1971
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ながいあいだ絵を描いてきたので、その間に数多くの作品を発表してきた。何かの会に所属しているわけでもないので、発表といえばほとんど個展ということになる。したがって、たくさんの人々に作品を見てもらい、いろいろな感想も聞いてきた。そんななかで、わたしが意外に思った言葉のなかに、あなたは数学をやっていたのですか? というものがある。あるいはまた、これはパソコンによって製作したのですか? というのもあった。
しかし、ふりかえってみて、わたしは小・中・高をとおして、数学はもっとも苦手な学科であった。低学年の頃の「さんすう」はまだよかったのですが、中学・高校になるにしたがって、数式や記号がはいってくると、もうだめで、ほとんど受けつけなくなってしまったのであった。それはわたしが、絵画に興味を覚えだしたのと軌を一にしていたように思う。
とくに勉強が好きということもなく、ほとんど無味乾燥のように思えた毎日であったが、なにかのきっかけで絵を描くことになり、そして描きはじめると、手応えもあり、また、それがまたたいへんおもしろく、ぐんぐんのめり込んでいったのであった。そしてその世界に頭も気持ちもとらえられて、今までの無味乾燥のように思えた毎日の生活が、急に生き生きとしてきて、なにかとても充実感を感じるようになったのであった。
その頃わたしが描いていたのは、ほとんど写生や何かの手本などの模写であったので、それらの絵のなかには抽象的な形…あるいは記号や数字というものはまったくなかった。描く対象は、すべて具体的な物…静物や風景なので、それらを、眼で、じかに見て、そのまま描いてゆくのだが、しかし、それが何ともいえない生き生きとした快感のようなもので、わたしを全身的にとらえたのであったが、しかし、そこには抽象的な思考というものは入り込む余地もなく、また必要もなかった。
だから、わたしのなかでは、数学と絵画というのはまったくかけ離れていて、関係のない世界であったのだ、と思っていた。むしろ、絵画が思考的になることを警戒していたのだ。抽象的な思考の世界が入りこむと、作品が観念的になる、そして観念的になるということは、周囲からもまた批判的にみられることの方が多かった。たしかに、それは自分でも、何か感覚や感性が薄められたり、疎外されたりするもののように思っていた。
しかし、それがだんだん変わってきたのだ。それは、たぶん写生的な絵画をやめてからのようである。写生的な絵をやめたのには、いくつかの理由がある。職業をもち、通勤生活をする生活になると、いつでも自由に写生にゆけるということはできない。描けるのは夜か休日だけということになる。夜は写生にはゆけない。静物でも電灯の光…当時はまだ蛍光灯は普及していなかった。電灯の光では影の部分が極端になって描きにくい。それにまた、時代的な影響もある。1950年代(第二次世界大戦後)は、戦中には閉ざされていた世界…西洋の現代美術が一気に押し寄せてきた。それには大きな流れとして、抽象的な絵画とシュールレアレリム絵画の傾向であった。
そんな状況のなかで、わたしは、抽象的な造形を手段として、手さぐりで何かを造りだそうとしたのであった。しかし、自分の内なる世界といっても、そこには、ほとんど何もない、としか感じられなかった。にもかかわらず、わたしは、あえて、そこから何かの<かたち>をつくりだそうとした。そして極力模倣をさけ、むりやりにでも、何かの<かたち>を強引につくりだそうと取り組んでいったのであった。
はじめは、ぐにゃぐにゃした紐状の形が交差したり並列したりした、混沌とした画面であったが、やがてそれらが固まって何かの形のようなものとなり、羅列したり入り組んだりしたのであった。
そして今、あらためて考えてみると、そこには数字や記号こそないが、線や形によって、さまざまに思考されているのは事実のようである。それは、あるいは数学的なのかもしれない。

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薗部雄作 建築的なもの 1972
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