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第156号

2022年10月12日

「近代民主主義社会における人間存在の意味や価値にどう向き合うか」

深瀬 久敬

 

1.権威主義による統治の歴史

 わたしたちホモサピエンスは、その存在の意味や価値を問わずにいられない生き物なのだと思う。それは、ポール・ゴーギャンの「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」という絵画に象徴されているかもしれない。そして、その問いに対して、古来、神話や宗教の形をもった一つの答えを作り上げ、一つの集団としてその答えを共有し、それを権威とすることによって、集団としての結束力を高めることができたのだと思う。すなわち、そうした権威を共有することによって、集団のなかの人々の信頼関係を作り出し、秩序や安定を確保し、さらに、集団としての生存力を飛躍的に高めることができたということである。

 そうした権威に基づく社会の秩序や安定は、大抵の場合、身分制度のような社会の分業体制によって維持され、それは運命的なものとして人々に広く受け入れられてきた。また、こうした権威に従順であることは権威を担う人々によってきびしく管理され、権威に楯突くものは容赦なく処罰された。それは人間が本能的にもつ野性的な欲望の暴走に歯止めをかける効果も担った。また、権威を担った人々は、その権威の正当性の基盤を強固にするための努力を怠らなかった。

 

2.科学と近代民主主義の登場の経緯

 こうした権威主義に基づく統治は、今日にいたるまで地球社会全体に広くみられる。一方、こうした様々に標榜される権威の正当性には、客観的で論理的な根拠がないことを指摘し、権威主義に基づく統治に異を唱える思想が16世紀ころのヨーロッパに登場した。これは、人間存在の意味や価値に唯一絶対の正解は存在しないという主張であり、形而上学を否定する態度に通ずるものであった。そして、この思想は、存在の意味や価値の呪縛から人々を解放し、自然界の現象をありのままの因果関係として理解する態度を獲得させ科学をもたらした。同時に、権威を担った人々の存在の根拠を否定し、個々人の自由と人々の平等という近代民主主義の思想をもたらした。

 

3.意味や価値の放棄と経済成長至上主義

 こうして権威主義を否定することによって獲得された科学と近代民主主義の思想は、人間存在の意味や価値を問うことを唯一絶対の正解は存在しないと理由によって、学問という知的活動から除外した。そして、権威主義の社会では二次的なものとしての扱いしか受けなかった人間の日常生活における便利さや快適さを追求する社会活動を中核に据えた。これは経済成長至上主義といってもよく、今日にいたるまで根強く継続されている。

 こうした便利さや快適さを効率的に実現する手段として、身分制度にかわる機能的分業に基づくピラミッド型組織が企業活動の場を中心に広く受け入れられることになった。そうした活動の円滑化を担った資本に由来してこうした社会運営は資本主義とも呼ばれる。こうした資本主義社会は、権威主義に基づく社会と同様にピラミッド型の階層社会を作り上げるが、そこには意味論や価値的な裏付けはない。個々人の自由と平等を訴えて誕生した社会としては、大きな矛盾をはらむものと言わなくてはならない。しかし、社会の便利さ、快適さ、物質的欲望の充足を広く行き渡らせるという目的のためには妥当なものであり、社会的に広く受け入れられた。注として、こうした偶発的な資産的な豊かさに基づく階級社会の在り方に対する抵抗は、社会主義革命や社会福祉制度の充実などの様々な提案はあったが、経済成長至上主義のような便利さと快適さを追求することを唯一の価値とする社会のなかでは基本的な解決をもたらすものとはなり得なかった。また、アメリカ合衆国の建国という歴史的な偶然と同時進行したことも、経済成長至上主義に拍車をかけたように思う。

 

4.人間存在の意味や価値に改めて向き合わなければならない背景

 経済成長至上主義のもとで、わたしたちホモサピエンスはさまざまな矛盾を抱えながらも生きていくうえでの便利さと快適さを飛躍的に享受できる状況を作り出すことに成功した。しかし、人間存在の意味や価値に正面から向き合わなかったことに対して、次のような課題が突きつけられていると思う。

 

(1) 地球環境の悪化

 大量生産、大量消費の進展に伴い、化石燃料の排出する大量の二酸化炭素に起因する温暖化、プラスチックゴミによる海洋汚染、森林や食糧などの資源の乱獲による資源枯渇、絶滅危惧種の激増など、歯止めがかからない。SDGsが叫ばれるなか、人類は地球ガイアのがん細胞のような存在になろうとしているのであろうか。

 

(2) 伝統的権威主義国家と近代民主主義国家の対立の激化

 今日、ロシア、中国、北朝鮮など多数の権威主義、独裁主義、強権主義に基づく統治を行っている国が存在する。その在り方は、かつて大日本帝国と称したわが国が、天皇制という権威主義のもとで、欧米の科学技術力を導入し、殖産興業、富国強兵に走った姿と重なる。権威主義国家は、領土問題などで権威の維持のために妥協することができない。こうした国々が核兵器を行使した場合、人類はまさに地球ガイアの破壊者の汚名を着せられることになるのではないだろうか。

 

(3) 格差や差別意識の拡大

 個々人の自由、平等を標榜する近代民主主義の統治社会のなかで、格差や差別意識がむしろ悪化し、社会の分断が進行している。技術革新、生産拠点の移転、移民や難民、教育格差など、時代の変化に柔軟に追従することが困難なことに起因する課題が山積しだしている。グローバル化に伴う地球の狭小化も関係していると思われる。全ての個々人の尊厳が尊重される社会をいかに実現するかが問われている。

 

(4) 情報化技術の進展

 情報化技術の急速な進展が人間の知的活動を根底から変革しようとしている状況のなかで、人間の在り方そのものが問い直されているように思われる。web3、メタバースなどのサイバー空間の増殖が社会インフラとしての存在を高め、個人の在り方にまで深く影響を及ぼそうとしている。こうした新たな状況にどうしたら適切に対応していけるかが問われている。

 

(5) 科学技術の急速な進化

 科学技術は今日、猛烈なスピードで進化している。遺伝子編集やタンパク質合成は病気や食糧生産などに影響するだろうし、素粒子物理学は物質や生命の起源に迫ろうとしているし、量子コンピュータや人工知能やロボット技術はこれまでの知的活動の在り方を根底から変えてしまう可能性をもつし、ペロブスカイト太陽電池や人工光合成などは再生エネルギーの在り方を変革するかもしれない。人間存在の意味や価値を問う上で直接ではないにしてもこうした知見を無視することはできないであろう。

 

6.人間存在のこれからの意味や価値をどう問うか

 上記のような状況を背景に、わたしたちは人間存在の意味や価値を問うことに改めて正面から向き合う必要に迫られている。そして、意味や価値については唯一の正解がある訳ではない。そうした了解を前提にして、わたしたちは、具体的にどのように問いを深めていくのが適切なのか、個人的な見解を4点ほど述べてみたい。

 

(1) 時代の流れとしての近代民主主義の広がり

 個々人の尊厳を尊重するという自覚は人類普遍のものであり、個人の尊厳を最優先としない権威主義は時代の流れに逆行するものであると認識する必要があると思う。今日の情報化技術の進展のなかで、中国やロシアではネット情報の規制や言論弾圧が強行されているが、これには自ずから限界があるだろう。権威主義の統治から近代民主主義の統治への移行は、旧ソ連邦から近代民主主義のロシアに移行するのがうまくいかなかった例をはじめ、簡単なことではない。この移行を円滑に行えるような仕組みを近代民主主義国は協力して提供していく用意をするべきだと思う。一部の権力欲にとりつかれたような権威を担う人々からは頑な抵抗に出会う可能性があるが、うまく対応していくしかないと思う。

 

(2) 意味や価値を問う主体としての個人

 近代民主主義の社会において、人間存在の意味や価値を問う主体は、集団ではなく個々人である。個々人が自らの立ち位置の状況を理解し、自分の希望と照らし合わせ、自らの進路を定め、やらされ感のない主体的な生き方をしていくことが要請される。そのためには、社会には、オープンな情報提供の場が提供され、一人ひとりを大人扱いする姿勢が求められる。また、情報ネットワークを通して、教育、リスキル、仕事とのマッチング、生活保障などのあらゆる支援が柔軟に提供される必要がある。

 権威主義の社会での秩序や安定は権威を担う閉鎖的グループによって決められたのに対して、近代民主主義の社会では、人間の本質として全ての人がもつ向上心、貢献心などを前提として秩序や安定が実現されるのだと思う。

デジタル化は行政業務の効率化といった狭い捉え方ではなく、個々人の指向するそれぞれの意味や価値の実現をきめ細かく支援する仕組みを提供するという理念のもとに進められるべきだと思う。

 

(3) 常に課題から学び修正する姿勢

 権威主義のもとではトップダウンに正解が示され、それに違反することは許されない。それに対し、近代民主主義の社会では、人々の多様な指向性に基づき様々な矛盾に直面することになる。そうした矛盾は、中央集権的にではなく、現場主導で臨機応変に対応され、そうした対応は新たな知見として広く人工知能も駆使した学習データベースに蓄積され、活用されるべきだと思う。

 権威主義の社会では、重罪に対して死刑が行われたりするが、犯罪の責任を全て個人に負わせるのは間違いであって社会全体がその原因を掘り下げ、責任の一端を担うべきだと思う。死刑のような処罰はあってはならないと思う。

 

(4) 近代民主主義の社会におけるリスクテイクの在り方

 ある大規模な目的を達成するためのプロジェクトを推進する場合は、大がかりなピラミッド型の組織が必要不可欠になると思われるが、その場合の問題はその組織に参加する人々の意識の問題だと思う。隷属的に参加するのではなく、自分なりの参加者意識を確認した上で、やらされ感のない距離感をもって参加すればよいのだと思う。そして、社会はリスクをとることに対する評価はきちんと支払うべきだと思う。インフラ整備のような公共性の強いものであっても、国家のような主体が対応しなくてはいけないということはないだろう。


「負けること勝つこと(112)」 浅田 和幸

「問われている絵画(147)-絵画への接近67-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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